日本の偉人

強さと弱さ、足利尊氏の矛盾した魅力に迫る!

小河原風紀さん(女性・30代前半)
小河原風紀さん(女性・30代前半)
仕事、恋愛、人間関係などで悩める大人の皆さんへ。強さと弱さ、足利尊氏の矛盾した魅力が参考になれば幸いです。

自分の家の代々の恩があり、正妻の家系の源でもある鎌倉幕府に一旦は組みしながら、結局天皇の側に寝返って鎌倉幕府を倒した足利尊氏。

一度は共に手をとりあって鎌倉幕府を倒し、名から一字を賜るという名誉を受けたにも関わらず、政治の内容が不満だからと勝手に武家政治を行い、怒った天皇を追い出して勝手に幕府を開いた逆賊の足利尊氏。

そうした歴史的事実の影に隠れがちな、足利尊氏の人間としての側面、周囲の期待やプレッシャーにリーダーとして応えるために、苦渋の決断を迫られ続けた悲劇のリーダーとしての足利尊氏の姿は、人間的な強さと弱さを同時に感じさせ、現代的な魅力を感じさせる。

一時は敵対勢力の軍勢に完膚なきまでに叩き伏せられ、命からがら西の果てまで逃げ出しながら、鬼神のごとき活躍によって劣勢を覆し、ついには敵対勢力を追い出して京の都に上洛し、独自の武家政権を樹立した立役者。

その裏では、一度劣勢になったり自分の立場が弱くなったりすると、すぐに出家や切腹などを考えてしまうエキセントリックな側面もある。

そうした事実からも、強さと弱さという相反する性質を兼ね備えた、独自の魅力を感じさせる。

足利尊氏の概要

日本の歴史上の人物で、鎌倉時代から室町時代にかけて活躍した武将である。

主に鎌倉時代において新しい武家政権を確立するために活動し、後に征夷大将軍となって室町幕府を開いた。

生没年は1305年から1358年とされる。

足利尊氏の時代背景

足利尊氏の実家である足利氏は、鎌倉幕府を開いた征夷大将軍の源頼朝と同様に、武士の棟梁の源氏の流れを汲む、伝統的な由緒正しい武士の家系である。

足利という氏は、祖先が足利という土地を取得したことに由来するものである。

当時の鎌倉幕府は源氏の嫡流である源頼朝の直接の家系はすでに絶えており、頼朝の正妻である北条政子の流れを汲む北条氏が、将軍を補佐する役職である執権の地位を代々踏襲し、鎌倉幕府を実質的に支配していた。

この北条氏は、武士としては源氏のライバルにあたる平氏の流れを汲むもので、その点については、この時代の鎌倉幕府は源氏ではなく、その敵である平氏によって運営されていた、ともいえる。

そうしたこともあり、頼朝の家系が途絶えた後の鎌倉幕府においては、足利氏は実質的な源氏の最後の拠として、武士たちの中では非常に重い立場にあった。

足利尊氏が生まれた当時の鎌倉幕府においては、そうした時代背景があった。

足利尊氏の行動の概略

父の死によって足利氏の家督を引き継いで当主となった足利尊氏は、最初は鎌倉幕府に忠実な腹心として活躍した。当時幕府を倒して自分の政治を行おうとしていた後醍醐天皇の挙兵を阻止した。

一旦は後醍醐天皇の軍勢を討った足利尊氏であったが、その後は後醍醐天皇の激励に呼応して天皇の側に寝返り、反幕府の兵を挙げる。

関西を中心に駆け回り、当時幕府の勢力の源であった六波羅探題という機関を滅亡させ、関東における鎌倉幕府滅亡の大きなきっかけを作った。

その功績を称えられて、それまでの高氏という名前を改めて、天皇の名から一字を賜って尊氏となる。

しかし、征夷大将軍の地位を朝廷から与えられないまま、天皇の許可を得ずに鎌倉に本拠を置いて独自に武家政権を開始する。

天皇に討伐の命令を受けた他の武士や軍勢に敗れて一旦は九州に逃れるが、鬼神のごとき巻き返しによって京に再上洛する。

その後、後醍醐天皇が京を脱出して吉野へ逃れると、足利尊氏は擁立した光明天皇から征夷大将軍の地位を得て、室町幕府を開く。

足利尊氏の素顔

足利尊氏はその行動だけをみると、単なる裏切り者、成り上がり者という印象は否めない。

鎌倉幕府に奉公する主従関係を誓った武士たちの中でもリーダー的な立場にありながら、武士の力の源ともいえる鎌倉幕府を裏切って倒した。

その後は、鎌倉幕府を倒すために協力した後醍醐天皇に対しても、結局は裏切って京の都から追い出し、別の帝をたてて傀儡政権ともいえる室町幕府を勝手に樹立した。

こうした歴史的事実だけをみると、足利尊氏は権力に飢えた成り上がり者という印象を強く感じさせる。

しかし、実際の足利尊氏については、その背景を丹念に辿っていくと、全く別の人物像が浮かび上がってくる。

足利尊氏の行動の背景

足利尊氏はそもそも、代々の武士の名門の家系の嫡男として生まれたお坊っちゃんであり、生まれた時点で人もうらやむような財力や権力はすでに保証されていた。

源氏の流れを汲む武士たちの心の拠である源氏の名門として、北条氏に監視され睨まれていたとはいえ、足利尊氏の正妻は北条一族の娘であり、北条氏との結びつきは十分であった。

その点からいえば、足利尊氏自身はわざわざ反乱を起こさなくとも、十分な名声や権力は鎌倉幕府の中で十分に得ることができたのである。

それでも足利尊氏が後醍醐天皇に与して挙兵し、結局は鎌倉幕府を倒してしまったのは、当時幕府を支配していた本来敵であるはずの平氏を倒す、正当な源氏の生き残りとしての立場と行動を、他の武士たちに強く期待されていたという面が大きい。

つまり、足利尊氏の幕府打倒という一種の反逆ともいえる行動は、自らの欲望や野心の達成のために行なったものではなく、周囲の期待や要望に応えるために、やむなく行なった苦渋の決断であったと捉えられる。

足利尊氏の深まる苦悩

この苦渋の決断の様相は、幕府を打倒した後に、一度は協力して共に戦ったはずの後醍醐天皇との対立が徐々に深まってくると、ますます顕著となる。

天皇に運営を許された幕府だけでなく、その正当性の源ともいえる天皇に逆らって朝敵となる苦悩と重圧は半端なものではなかったようで、後醍醐天皇を追い出して新政権を樹立するまでには、足利尊氏は何度も決断を覆したり、遁走しようとしたりして周囲を困惑させている。

こうした事実の積み重ねからは、野心家の反逆者ではなく、苦渋の決断に迫られた人の良いリーダーとしての素顔を感じさせる。

足利尊氏の人間味

歴史上の事実だけでは味わいにくい、足利尊氏の隠れた魅力の一つとして、逆境に弱いという人間臭さがある。

足利尊氏は劣勢の中で幕府を倒し、その後もさらなる劣勢の中から敵対勢力を排除して独自の政権を樹立したことから、天才的な戦上手というイメージがある。

確かに足利尊氏はわずかなチャンスを最大限に活かして劣勢を覆した戦上手ではあったが、同時に、ひと度自分が劣勢になると、武家の棟梁としては眉をひそめるほどの取り乱しや狼狽ぶりをみせた、という事実もある。

例えば、尊氏は後醍醐天皇との対立が決定的になった際には、朝敵となることを恐れて単身寺に閉じこもって出家を宣言し、共に戦ってきた弟や腹心の部下を困らせたという逸話がある。

その他にも、合戦においてひと度苦戦に陥ると、すぐに切腹や自害を企てて、部下を困らせたという。

鬼神ともいえる戦場での活躍を誇る反面、その結果を得るまでにみせたこうした弱さが、足利尊氏の一筋縄ではいかない人間臭さを感じさせる。

足利尊氏の魅力まとめ

幕府を裏切り、その後は天皇も裏切って独自の政権を樹立した、裏切り者の野心家といえる足利尊氏。

そんな表の面とは裏腹に、一つ一つのエピソードからは、周囲の期待に応えるために翻弄される、人のよいお坊っちゃんリーダーとしての足利尊氏の人間性を垣間見ることができる。

強さと弱さ、誠実さと卑怯さ、そうした人間の相反する側面を感じさせてくれるのが、足利尊氏の大きな魅力である。

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