こんにちは。偉人ライターじぇむずです。
今回は世阿弥を語ります。
世阿弥の名言・生涯・人柄
世阿弥という人物から感じられるものはとにかくその「一途」で「徹底的」なところ。
「観世という芸の一家に生まれた」という逃れがたい宿縁もあるが、
何があっても「芸」。
世阿弥が残した名言もすべて「芸」に通じている。
世阿弥は天下の申楽師である観阿弥の子であり、
足利義満や二条良基などが次々とぞっこんになるような美童ぶり、
などかなり恵まれた環境などもあったのだろうが、長じるにつれてそんな花盛りの人生に暗雲が垂れ込める。
人生の棒グラフでいえば始めが飛びぬけていて次第に漸減してゆくというのがあまりにも顕著。
ただ、彼の凄みはそこで終わらなったところ。
かつてあった財産を自分の中でさらに研ぎ澄まし、形にする。
世阿弥は衰運であったとは言うが、彼の実はかえって飛躍をしていた。
余りに膨大な世阿弥の名作台本は今なお一見の価値あり。
そして、名言のちりばめられた世阿弥の教育書は芸能者だけでなく、人生の指南書として必見。
中年期は抜けめない名座長だったのが、次第に老練し、格調は増してゆく。
世阿弥の名言集。まさに「芸の権化」
「初心忘るるべからず」
常に己の未熟さを忘れず稽古を怠るな。
「秘すれば花」
人の心を動かすものとはまず隠しておくことだ。
「離見の見にて見るところは即ち見所同心の見なり」
観客の立場から己を見て初めて己の姿を見ることができる。
「家、家にあらず。継ぐを以て家とす」
家はただ継ぐものではない。継承に値するをもって家とする。
「住たるなきをまず花と知るべし」
よいものとは常に千変万化する。
「時分の花をまことの花と知る心が真実の花になお遠ざかる心なり」
旬の美しさを本物の美しさと思っていると、本物の美しさは遠ざかってゆく。
いかがであろう。世阿弥の名言録である。
世阿弥の生涯
世阿弥の幼名「鬼夜叉」その名とは裏腹のあまりに妖艶な美少年
一度は聞いたことのあるはずのその名、芸に生まれ、芸に捧げ、芸に死した男、その名は世阿弥、観世三郎元清。元大衆、神事の芸であった申楽を一躍「天下」の認めるところとした観阿弥の嫡男。
「鬼夜叉」その至極いかめしい幼名とは裏腹に、この世ならざる妖艶なる美しさ、三代将軍足利義満、関白二条良基ら、当時政権の頂点にあった素養人を虜にし、深く彼らの懐にあって、「美の感性」を磨いていった。
時代の美少年から次第に冷たく吹きすさぶ時代の風
やがて、父が興行先の富士浅間神社にて客死、重い病身にあってなお世阿弥はその舞台に立たんとした。
そして、観世の名跡を父より継ぎ、二代三郎元清を名乗る。
世阿弥は擁護者を失い、ライバルが台頭する中…名作を記す
追うように二条良基、足利義満ら世阿弥を深く囲っていた擁護者が相次いで亡くなると、さらに増阿弥、道阿弥ら新興の同業ライバルたちが次々と台頭、次第に一線での活躍からフェイドアウトを余儀なくされるが、ここに来て世阿弥はかねてよりの素養を台本として続々昇華させてゆく。
「実盛」「頼政」「八島」「井筒」「恋重荷」「鏑木」「砧」「融」「花筐」「西行桜」「桧垣」……。
いずれも戦記物、王朝文学などに題材をとった「幽玄美」を遺憾なく体現。
後世に演じられ続ける名作を多数ものした。
後進の教育にも尽力
一方で、後進の教育にも力を入れ、甥の音阿弥、嫡男観世元雅、養子金春禅竹らを育てた。
それぞれ後に能を背負って立つ逸材に育てるも、元来世阿弥の跡を継ぐはずであった音阿弥が観世元雅の誕生と成長により、疎外された。
彼の父と共に結崎座を出奔、その後、やがて六代将軍となって権勢にのし上がってきた足利義教に寵愛されると、ともになって、世阿弥一派への攻撃を始める。
「万人恐怖」の剛腕将軍との確執と世阿弥に襲い来る悲劇
興福寺薪申楽への参勤、仙洞御所への出入り禁止、醍醐清滝宮の楽頭職罷免。
そして、永享八年(1432年)あってはならないことが起こる。
伊勢に興行に出ていた嫡男元雅が何者かによって刺され、命を落とす。
喧嘩に巻き込まれてというのが公式の記録だが、その詳細ははっきりとはしない。
世阿弥はこの子を「我を越えたる逸材」と頼もしくもその座と能の未来を託していた。
彼にだけは門外不出の秘曲の舞を託していた。
その歌を「却来風」といい、至極単調ながらそこに最高の玄妙が秘められているという。
世阿弥は「なおも舞うをやめず」
なおも世阿弥はただひたすらに芸に精進。
いよいよ苦境にある座をなんとしてでも持ちこたえるべく演じ、書き、教え、束ねた。
が、傷心冷めやらぬ永享六年彼は突如として佐渡への配流を申し渡される。
何の知人よんどころない隔海の孤島だが、そんな中にあっても彼は島民たちと舞いを分かち合った。
やがて、許され大和に帰還し、余生のうちに死亡。
正確な享年は残っていないが80歳前後と伝わる。
禅をよくし、父の切り開いた遺風に倣い、義満や良基らによる頂上の素養と美意識、それを時の移ろうとともに当たりの強くなってきた逆風の中、よく耐え、却って芸として純化させた。
不思議なことに世阿弥の亡くなったとされるちょうど同じころ、足利義教は赤松屋敷にて音阿弥が舞っているその最中に襲われ、落命した。
世阿弥といえば芸の教育書「風姿花伝」そこに垣間見る人柄
世阿弥の教示書「風姿花伝」はその中でもよく知られたところ、生まれ出でるより長じ、やがて身体の衰えに合わせたその芸の心得方。現代社会にも通じる名作。
その時その場所その顧客に合わせた「場」の読み方、作り方。など実にきめ細かく、精緻にまとめている。
世阿弥は、よほどの「まとめ好き」だったらしく、何かにつけては漢文ぽっく名前を付けて、大事なものから順位付けし、残している。
『花鏡』『五位』『九位』『六義』『拾玉得花』など、専門書でないとなかなか手に入らないが一度目を通してみると面白い。
実に格調高く、ちょっとおせっかいなくらいの丁寧さだ。
気になるとどうもあれやこれやと徹底的にまでのめりこむらしい。
世阿弥の名言・生涯・人柄のまとめとして
いかがだっただろうか。世阿弥は、その有名の割には意外にその業績の知られていない芸能の大家。彼や観阿弥、元雅、禅竹など一人でも欠けていたら今の能はなかったかもしれない。いや、存在しているだろうか。
まさに黄金時代だった。
思えばこの時代、中国より「禅」という思想が流入し、文化の一つの画期だった。
雪舟、夢窓疎石、……。平安王朝以来の「幽玄」の伝統をしっかりと継承し、以後次第に隆盛となってゆく「わび」「さび」への萌芽となる。
幕府は義教が横死し、求心力を急速に失い、間もなく日本全土を巻き込んだ戦乱の世となってゆく。
時代の境目に生まれた「天才」。
そして、彼の当時残した言行などは今なおまるで色あせることなく光芒を放ち続けている。
ただ一途に芸にその生涯のすべてを捧げたといっても過言ではない男。
本当はその都度迷いにさいなまれていただろうが、それでもただ突き進んだ男。突き進むしかなかった男。
確かに彼そのものに見る「幽玄美」だ。
「秘すれば花」である。