日本の偉人

渋沢栄一の生涯・人柄・名言に学ぶ!「順理即欲」皆で豊かになる!大実業・株式会社の父

ライト
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こんにちは。この記事の筆者ライトです。

幕末から昭和にかけて活躍した偉人、新1万円札の顔、渋沢栄一を語ります!

すべてのビジネスマン・政治家と、就活中の学生さんにも読んでほしい渋沢の生き方、理念、名言を紹介します。

新1万円札の顔、渋沢栄一とは

渋沢栄一は、幕末から昭和にかけて活躍した日本を代表する実業家だ。
設立など関わった企業は500、学校団体は600にも上る。

2024年に新紙幣一万円札の肖像画として採用される。

お札になるほどの人物だが、

  • 10代で商才を発揮しながらも藩政にしいたげられ、
  • 幕府を倒そうとした幕末のテロリストとなり、
  • そして倒幕失敗すると逆に幕府側に入り込むといった柔軟性・適応力を発揮し、
  • 明治政府の大蔵官僚として日本税制の礎を築き
  • 日本での株式会社の父として、大実業家としての半生を生きた…

まさに波乱万丈人生だった。
しかし、彼の根底には、常に、「民衆すべてを豊かに」があった。

人生の転機はフランスにあった。
民衆を豊かになれる、最大の方法、「株式会社」に魅了される。

これは渋沢栄一には電撃が走るような出会いだった!

「お金を出せる人が出せるだけ出して、配当を受け取り、皆が豊かになれる!」
と株式会社制度に希望をもった瞬間だった。

株式会社が、運河といった巨大な社会インフラを作る姿に、産業革命にわくフランスにどれだけワクワクしたことだろう!

これは、日本を変えられる!
栄一の意識が拡大する、その様子を想像するだけで、筆者もどれだけワクワクするか!
(ほんと興奮…!)

渋沢栄一が乗り越えた苦難にくらべれば、
栄一が発揮したクリエイティビティに比べれば、
筆者が今悩んでいることなんて、ひと吹きに吹き飛ばされる!
(また興奮してしまった…)

日本に初めて株式会社制度を持ち込み、株式会社の教本を示し、自ら実践していった。
まさに、日本の株式会社の父、渋沢栄一。

近代化に踏み出した日本で、大実業になっていく。
波乱万丈の末、お札の顔になる程有名になった渋沢栄一の、生涯・人柄、名言から学んでいこう!

渋沢栄一の生涯・生い立ち・人柄

幼少期から経営者の素地ができる(学門・商い・見聞を広げる)

渋沢栄一は、180年前、天保11年(1840年)、現在の埼玉県深谷市に、裕福な農家・商家に生まれる。
当時生産が盛んだった、藍玉の生産、加工、販売までする家だった。
藍玉は、染料の藍を丸く固めたもの。当日衣類に広く使われていた。

渋沢家は裕福だったため、栄一は読み書き、学を深めることができ、14歳で商いに関わるようになる。

信州など遠方まで取引にいき、若い頃から見聞を広める機会に恵まれていた。

発想力・ビジネスセンスを10代から発揮

栄一は、16歳のときに、藍の葉の生産農家のランキング表をつくった。
相撲の番付表のようにまとめて、宴会の席に農家に配ったのだ。

狙いは順位をつけるわけではなく、上位の農家に栽培の工夫を話してもらい、他の農家はそこから学び、地域全体の底上げをする工夫だった。

農家が努力することで、良い藍ができれば豊かになる、さらなる付加価値をつくられる、というアイディア。
渋沢の若き日の才覚が現れていた。

倒幕の意欲、為政者として種が植えられる

翌年、栄一は、藩の役人に呼ばれ、無条件にお金を差し出すように言われた。
栄一は「父に確認しないといけない」と食い下がるが、承認を強要される。

「金を用立てる側がなぜ頭を下げなければいけないか。」

武士だからという理由で金を出すように強要されるのは、社会に仕組みがおかしいと考える経験だった。

当時の江戸幕府に不信を持ち始めた。
尊皇攘夷の思想に目覚めていくことになる。

倒幕の意欲が芽生え、為政者として種が植えられた瞬間だった。

 

幕末のテロリスト渋沢栄一、クーデターへ

埼玉は、尊皇攘夷の思想を叫ぶ、倒幕を企てる志士たちが集まる江戸に近く、栄一は彼らと会うようになった。

国ため、自分の身をかける覚悟を固めていった栄一。

そのころ「企て」を伝える文章には、幕府を倒す計画があった。
高崎城を占拠、武器を確保、横浜を焼き、長州とともに倒幕を目指す。
実際、武器を集め、準備を進めていた。

ついに計画実行の前夜、栄一たちが集まった建物が今も残っている。
そこで栄一が練り上げた策を披露した。

しかし、いとこである尾高長七郎ができるはずがない、田舎の百姓一揆と見られるだけだと一蹴される。
尾高長七郎はそうしたクーデターの難しさをよくしっていた

尾高に、「どうしても決行するなら、自分を殺して行け」と言われて、栄一は作戦を踏みとどまった。
のちに栄一は長七郎の意見が適当だった、自分を含めて大勢の命を救ってくれたと語っている。

経営者渋沢栄一が目覚める…一橋慶喜の家臣としてフランス視察へ

その後、栄一は、交友があった一橋家の家臣、平岡円四郎の紹介で、一橋慶喜の家臣になった。

倒幕を目指した栄一が、なぜ後に将軍になる慶喜の家臣になったのか?
それは、幕府の追っ手を逃れるためだった。
(なんてしたたかな!)

栄一の歯に衣着せぬ性格

さらに栄一は、慶喜への最初の挨拶で、「幕府の命運は尽きた、よくよく考えほしい」と述べた。
栄一の歯に衣着せぬ性格がよく表れている。

栄一は一橋家の人材運用についても意見し、慶喜から信頼されることになった。

一橋家につかえ、半年がすぎ、栄一は、日本各地を赴くことになる。
一橋家の領地を周り、問題を洗い出し解決するように命じられたのだった。

一橋家でも商い・経営者の才覚を発揮

栄一は、一橋家でも商い・経営者の才覚を発揮している。

兵庫の摂津に赴いたとき、年貢米の売り方に注目した。

兵庫港の問屋だけを通していたが、もっと高く売れる場所があるはずと考えた。
灘の酒米として打った時、1割以上高く売ることができた。

また、綿花栽培にも注目した。
一橋家の領地では綿花の栽培が盛んになり、隣の姫路藩までも栽培されるようになったほどだった。

しかし、後発の姫路藩の綿花のほうが、栄一たちの綿花よりも高値で出荷されていた。

聞くと、姫路藩では、農家が個別に販売するのではなく、生産組合のようにまとめて出荷する方法を取り入れていた。

そこで、栄一は綿花取引手形を発行することで、領地内の綿花を、一橋家で収集。農家には後にお金を支払う仕組みを作った。

一橋家が綿花をまとめ出荷することで、強気の価格交渉ができるようになり、結果、農家に支払うお金も増やすことができた。

栄一は、一橋家を豊かにしつつ、農家から搾取するのではなく、流通の工夫、しくみづくりに徹した。

栄一、いよいよ産業革命のフランスパリへ

慶応2年(1866年)、慶喜が将軍になり、栄一は幕臣となる。
翌年1867年、フランスへ旅立つ。
パリで開催される万国博覧会に、将軍の名代として出席する徳川昭武の随行としてだった。

その途中、スエズ運河の建設工事を見る。
レセップス株式会社という民間会社がやっていることを知り、株式会社がいかに資本をあつめて、国、世界の利益のためになる、とてつもない大きなことが可能になることを知った。

そして、産業革命の只中にあったフランス。
鉄道整備の大事業を実現していたのは、株式会社だった。人々がお金を出し合い、利益をわけあっていたことを知った。

合本組織と読んでいた。民衆を豊かになれるための方法だと思い知った。

さらに、栄一は、ベルギーで国王に謁見したときに、驚愕する。

「もし鉄を購入するならば、ベルギーの製品をかってほしい。」という国王自らのセールスされたのだった。

当時の日本といえば、商い、お金の話をするのは卑しいこと。
ましてや国の代表、領主がセールスするなんてありえなかった。

ヨーロッパは、日本とちがい、商業こそ国をさせるという思想が普通だったのだ。

栄一の、社会を変えたい、豊かにしたいという思いが動き出す。

彼は、このとき、どれほど、ワクワクしたことだろう!
彼の気持ちを想像すると、鳥肌が立つ。エネルギーが沸き立つ!

大政奉還、日本経済の父、大実業家へ

栄一が、フランス・ヨーロッパ各国歴訪後、パリ留学中に大政奉還がなされ、明治の世となり、新政府から帰国を命じられる。

フランス、ヨーロッパでで商業こそ、己の道とした確信した栄一。
彼が活躍する舞台が整った。
皆で豊かになるために。

栄一は、帰国した後は、静岡に住む。
慶喜が謹慎し、家来たちが住んでいた。

彼らの経済のため、食料の売買や金融事業を始める。
フランスの株式会社にならい、身分に関係なく出資を募った。

大蔵官僚として租税制度、全国経済圏をつくる

それから一年。
明治政府に呼び出され、大蔵省官僚となる。

租税正(そぜいのかみ)として、新しい税制をつくるよう命じられた。

お金で税を収める仕組みをつくっていた。
今では当たり前に税金をおさめるが、当時は、これが大変だった。

まず統一通貨を使う状況をつくる必要があった。
そのためには、全国規模の経済圏を作る、運ぶ鉄道、流通中のリスクを賄う保険制度、銀行も必要だった。

それらの事務処理に必要な紙、建物を作るレンガも不足していた。

何もかもが不足していた時代だった。

日本初の株式会社設立・運営ガイドブック

さらに、栄一は、世の人が株式会社を運営できるようにガイドブックを作った。
役員の設置、決算発表のやり方まで細かく解説。

しかし、当時の日本には、事業を起こす人がいなかった。
そのままでは日本が近代国家に生まれ変わるなんてできない。

製紙会社の立ち上げ、大実業家へ

さらに五年が立つ。
栄一は政府をやめ、自ら事業を起こす。

新聞に日本初の株主募集広告を出した。
半年後、第一国立銀行が設立された。栄一は経営責任者になる。

次に栄一が取り組んだのは、製紙会社だった。
近代化には、新聞、雑誌、事務処理、何にしても、紙がいるというわけだ。

東京北区の王子に、製紙会社を開業。
最新鋭の機械が導入され、紙幣、債権、もつくることになり、
しかしわずか5ヶ月後、明治政府が栄一を追い詰める。

紙製造の命令書を撤回し、栄一の工場のすぐ隣に官営工場を作った。
岩崎弥太郎が裏にいたのではと言われる。

しかし、政府は栄一の工場に頼らざるを得ない状況になる。

税制改革、地租改正を推し進めていた政府。

土地の価格に応じて税金を収める制度だったが、大量の地券を作る必要があった。
官製製紙会社では、間に合わず、民間の会社に委託せざるを得なくなった。

栄一の工場は息を吹き返した。

実は、地租改正は、栄一が政府をやめる一年半前に提案した制度だった。
自分の提案に救われた栄一だった。

「順理即欲」渋沢栄一の人柄

関東大震災の復興に尽力する渋沢栄一(左)

栄一の製紙工場には、明治天皇も視察に訪れた。
栄一は最新鋭の工場を隅々案内したのだった。
後日、明治天皇がお礼の品が届く。
それを従業員全員でわけあったという。

順理即欲ーなすべきことをなし、ゆたかにする
経済的な実利と道徳性を同時に成していく、渋沢栄一の座右の銘だ。

順理即欲は、栄一が創業した東洋紡の企業理念とされている。

「商売をする上で重要なのは、競争しながらでも、道徳を守るということだ。」と言っている。

皆で豊かになる!
10代にして、藍の生産農家みなで豊かになろうと、経営者としての才覚を表し、
藩の圧政に不満をもち、その思いを強くする。

産業革命人のヨーロッパでは株式会社などその手段を学び、
明治政府では官僚として、その後は実業家として、体現していった。

東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会など、医療、福祉、平和団体の設立も関わっていった。

渋沢栄一の名言

渋沢栄一の名言からは、彼の、人として、経営者としての哲学を学ぶことができる。

「事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、
しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、
さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。

そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである」

現在は、ワクワクとかライフワークとかを追いかける風潮がつよい時代だと感じる。

「自分のために」がまずあって、さらに道理にかない、社会のためにもなることを、仕事にする、ライフワークにする、自己実現の場にしようとする。

「己を捨てるなんて、今の豊かな時代には時代遅れ」と言われるかも…そんな感じもする。

たしかに渋沢栄一のころとは時代が違うのだが、
「己を捨てる」も、今の自分には必要な気がしてならない。

さらに渋沢栄一は、こんな言葉も残している。

「どんなに勉強し、勤勉であっても、上手くいかないこともある。
これは機がまだ熟していないからであるから、ますます自らを鼓舞して耐えなければならない。」

今は、人々の願望実現するスピードが上がっているとはいえ、
やはり三次元の世界では、夢を想像してから現実への創造までは時間がかかる。
渋沢栄一の時代は、今よりもずっと現実創造のスピードが遅かったに違いないと思う。

僕らのほうがよっぽどイージーな世界に住んでいるのに、「何をやってもうまくいかない!」と思ってしまうことが多々ある。
そんな時には渋沢栄一のこの言葉を思い出し、エネルギーをもらっている。

そして、

「人は全て自主独立すべきものである。
自立の精神は人への思いやりと共に人生の根本を成すものである。」

と言っているように、渋沢栄一の理念の根底には、一人一人への尊厳あったと思う。

人を尊重することはもちろん、
何かあれば叩かれる、打たれるよりは静かにしておこうではなくて、
自分自身への尊厳も、僕たち一人一人が保っていければと思う。

渋沢栄一をしのぶ

晩年の渋沢栄一

自国の利益のみを主張せずに、
志ない利益の追求ではなく、
国全体が豊かになることを願ってやまなかった渋沢栄一。

彼が願った社会、物質的には豊かな社会を実現できた。
しかし、精神性は…僕たちはまだ成長の余地を残していると思う。

彼が1万円札の顔になるころ、どんな日本になっていくのだろう?僕たちはどういきるか?
栄一にときどき思いをはせながら、日々を生きていきたいと思う。

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