日本の偉人

馬産の倖せなる巨人吉田善哉の生涯・人柄・言葉から学ぶー見果てぬ野望を追い求めた男

嵯峨兵衛
嵯峨兵衛
こんにちは。ライターの嵯峨兵衛です。馬産の倖せなる巨人吉田善哉の生涯・人柄・言葉から学びましょう。

今日の競馬を語る上で、社台グループは切っても切り離せない存在となっている。

実際のレースにおけるグループ系列の馬の活躍もさる事ながら、有力な個人馬主も何らかの形で社台の恩恵・影響下に置かれ、調教師・騎手とてその例外には収まらない。

今や日本競馬は社台という巨大帝国の掌中に置かれたも同然であると、多くの競馬ファンは認識している。

それだけ社台グループというのは強大無比な馬産集団なのだ。

だが、その『帝国』は、必然によって作られたものではなかった。

本格的にキャリアをスタートさせた当時、吉田善哉は吹けば飛ぶような弱小牧場主に過ぎなかった。

しかし彼は汲々と生き残りを図るのではなく、欧米競馬・馬産を超えるという途方もない野望にその生涯を費やす事を選んだ。

吉田善哉が行った事はそのことごとくが生きるか死ぬかの博打に等しい攻めの投資だった。

吉田善哉は「競馬事業を虚業」との言葉を遺したが、その『虚業』に対して彼以上に真摯に向き合い、堂々戦いを挑んだ男も居なかっただろう。

今日の社台の繁栄は、かくも恐るべき巨人の向こう見ずとすら言える戦いの結果勝ち取ったものであり、その後継者達もまた進取・挑戦の気風を忘れていない。

一代でそうしたものを築くとはいったいどういう事なのか、どんな人間ならそんな事が可能なのか。

吉田善哉という男の歩んで来た戦いの歴史から、その断片を見て取る事が可能であると筆者は考える。

日本現代馬産の父、吉田善哉の生涯

吉田善哉の生い立ち

吉田善哉は1921年、北海道の酪農家の三男として生を受けた。

吉田家は祖父善太郎の代で北海道に開拓移住した一家で、日本で初めてホルスタイン種の乳牛を導入し、父善助は白老町社台地区におよそ2000ヘクタールの土地を購入してサラブレッド生産にも着手するなど新取の気風を有する家で善哉は育った。

吉田善哉が育った時代背景:太平洋戦争・GHQの影響下で

しかし太平洋戦争によって従業員は次々と兵役に取られ、次第に牧場経営は機能不全に陥り、多忙を極めた善哉も結核を患い、戦後の農地改革で一時GHQに土地を接収されるなど数々の苦難に見舞われた。

その後GHQに接収された土地を払い下げの形で取り戻し、戦中・戦後の混乱が収束する中、母の死を契機に善哉は1955年、わずかな繁殖牝馬と千葉にあった分場をもって実家から独立し、サラブレッド生産・育成に専念する道を選んだ。

当時の日本競馬は太平洋戦争による競馬の中止から紆余曲折を経て復興が進められ、善哉独立の前年に日本中央競馬会による中央競馬の運営がスタート。

1956年には現在の有馬記念の前身にあたる第1回中山グランプリが開催されるなど、新しい時代に向けて歩みを進めようとする段階だった。

しかし当時の日本競馬はアメリカやヨーロッパに比べて馬の質や生産・育成手法に至るまで大きく劣っていた。
天皇賞と有馬記念を制したダービー馬ハクチカラでさえ、アメリカに遠征した当初は一般戦でも惨敗。
長期滞在による順応と軽ハンデの恩恵を受けてようやく1勝を挙げる事が出来たという有様であった。

善哉自身独立の翌年にアメリカ視察に出かけた際に日本に比べて著しく先進的なアメリカの生産・育成環境を目の当たりにし、それに追いつき追い越す馬産生活を送る事が彼の生涯の仕事となる。

吉田善哉の馬産の将来への積極投資

善哉は積極的な将来への投資を行った。早来・白老・千歳に次々と社台ファーム分場を作り、各々が生産・育成・調教・休養などといった事業を分業する体制を確立。

昼夜放牧などアメリカ式の生産・育成方式を積極的に導入し、1992年には山元トレーニングセンターを開設して関東における競走馬育成の一大拠点を築いた。

また積極的な海外種牡馬・繁殖牝馬の購入を行い、あまりに凄まじい投資ゆえに幾度も破産の瀬戸際に至ったほどだったが、ガーサント、ノーザンテースト、ディクタス、リアルシャダイ、トニービンといった優れた種牡馬の出現によって幾度とない危機をその都度克服。

次第にその経営基盤は強化され、やがて社台グループは日本でも有数の馬産集団としての地位を確かなものとする。

ダイナガリバーで日本ダービーを制しダービーオーナーに

1986年にはダイナガリバーで日本ダービーを制しダービーオーナーとなったが、彼の野心の炎は衰える事を知らなかった。

同年に『皇帝』『七冠馬』と称された当代無双の名馬シンボリルドルフのアメリカ遠征が無惨な失敗に終わったように、日本と海外とでは未だ厳然とした差が存在したからだ。

1990年、彼は生涯最大にして最後の大仕事と自他ともに認める、1頭の種牡馬導入にその全精力を注ぎ、実現させた。

その前年にアメリカ2冠馬となるも、みすぼらしく見栄えのしない馬体、常軌を逸した気性の荒々しさ、貧弱で無名な牝系からアメリカの生産者に敬遠されたサンデーサイレンスという馬を、16億5000万円という社台グループが傾かんばかりの大金を投じて日本に連れて来たのだ。

社台グループ発展過程と吉田善哉

社台グループ発展の過程で善哉は、アメリカ生産界との人脈作りや新しい生産・育成手法の導入などを目的にフォンテンブローファームというアメリカの拠点を築いており、その結果得られた人脈を用いる事によって実現した種牡馬導入劇だった。

導入当初は多くの生産者からその種牡馬としての資質が疑問視され、社台グループ関係者でさえ善哉以外は内心大失敗の可能性に怯えていたサンデーサイレンスは、しかし蓋を開けてみれば過去に導入された海外種牡馬とは比較にならぬ前人未到の活躍を見せた。
日本競馬の歴史、日本馬産の歴史に大きな転換期を迎える契機を作る史上最大・最高の大種牡馬としての名声を今日に至るまで確かなものとする。

だが、吉田善哉当人は、ノーザンテーストと同等以上の成功を収めると言ってはばからなかった彼の成功を見届ける事はなかった。

吉田善哉の命日、日本競馬・馬産のその後

1993年8月13日、彼は72歳でその激動の生涯を閉じる。

2017年現在、日本競馬は社台グループの存在なしに語る事が不可能なほどに、彼の遺産は色あせる事なく輝き続けている。

日本競馬・馬産のレベルも、彼の生前からは考えられぬほどの発展を遂げ、今や日本はアメリカ・ヨーロッパと互角以上に戦い、海外遠征で実績を残す事も珍しくなくなった。

生涯に渡って世界レベルの馬産をと志した吉田善哉の遺志と野望は、次世代のホースマンによって脈々と受け継がれ、日本競馬あるかぎりその精神が絶える事はないだろう。

徹底した競争主義者・吉田善哉、その人柄・言葉・功績

彼は青年時代に数多くの苦難を味わい、また結核によって「戦争で死に損なった」という自意識からか、筋金入りの競争主義者として自他ともに認める存在だった。

競争こそが人生の意義であり何よりの楽しみと語り、勝利を得る為に味わう幾つもの敗北もまた糧になると言ってはばからなかった。

中央競馬会から生産者に分配される補助金や軽種馬協会による安価な種付け料での種牡馬提供について、吉田善哉は「競争意識を奪い、生産者を堕落させ、かつは民間に対する圧迫である」と断言し、これを蛇蝎の如く嫌っていた。

その高い競争意識と妥協知らずの苛烈な性格で多くの敵を作り、特にシンボリ牧場の総帥和田共弘とは犬猿の仲と言われたが、同時に善哉の世界志向の馬産に対する情熱を誰よりも認めていたのも和田だった。

善哉は前述の性格や積極拡大・革新志向の馬産から数限りない陰口を叩かれていたが、当の本人は馬耳東風で、そうした声には惑わされず自らの信念を貫き通す強さがあった。

「徹底進取の人」吉田善哉

彼の生涯の中で、ホースマン生命を救う活躍を見せた種牡馬は何頭もいた。

中でもガーサントは初期の経営を支えた名種牡馬であり、1970年にはリーディングサイアーを獲得。

彼の活躍なくしてその後の社台の繁栄はあり得ないと断言出来る紛う事なき功労馬だった。

しかしながら善哉は、彼の死後墓を作るでもなく簡素に埋葬するに留め、埋葬された地には後に社台の発展に伴って道路が新設された。

ノーザンテーストと同時期に活躍し、屋台骨を支えたディクタスがこの世を去った時も同じような状況だった。

彼は全ての馬は我々の為になにがしか役に立っているのであって特定の馬の墓を作る事はないと言い、ガーサントの件では毎日皆が忙しく自分の上を往来する事で社台も頑張っているなと馬も喜ぶだろうと答えた。

善哉は常日頃から馬こそが主役であり、彼らが活躍しなければ始まらないと公言してはばからない人間であり、馬を軽視していた訳ではない。

彼はノーザンテーストが大活躍していた時期にも絶え間なく新しい種牡馬の導入を続けた事からもわかる通り、現状に満足せず常に攻め続ける馬産家だった。

彼の真意は過去の栄光・功績にとらわれることなく常に前を見続けねばならず、過去の功労馬を顧みる労力を新しい馬づくりに用いる事こそが大事なのだという事だろう。

種牡馬への投資、土地への投資、技術と人への投資……生涯に渡って吉田善哉は、進取の人であり続けたと言う事が出来る。

吉田善哉をしのぶ…彼とノーザンテースト像

彼が実質一代で築き上げた社台グループはより拡大・発展を遂げたが、そのうちの一つにノーザンホースパークがある。

ここは馬と人との触れ合いをテーマとして作られた施設で、引退した功労馬の一部はこの地に繋養されている。

善哉の次男勝己は馬術に強い熱意を持った人物で、この施設を作る強力な推進者であった。

善哉は当初この計画に乗り気でなかったが、勝己の熱意に負ける形で自由にやらせたという。

そのノーザンホースパークに、吉田善哉とノーザンテーストの等身大の像が存在する。

この像は善哉・ノーザンテーストがまだ健在の頃から建立する計画が為されていた。

吉田善哉最大の功績は今日ではサンデーサイレンス導入とされるが、彼の生前においてはノーザンテーストこそが吉田善哉を代表する馬と評価されていたのだった。

善哉本人は生前に像なんか作ったらまた悪口を言われるのがオチだと笑いつつも、どうせなら生前に作って自分でそれを目にしたいとも語ったとされる。

吉田善哉とノーザンテースト像は、今日もノーザンホースパーク、ひいては社台帝国の象徴とも言うべき立像として社台グループの仕事ぶりを見守り続けている。

見果てぬ夢を追い続けた男、吉田善哉

吉田善哉のスタートは、8頭の繁殖牝馬と千葉の社台牧場分場から始まった。

彼は途方もない馬産への情熱と破産をも恐れぬ徹底した攻めの経営によって、幾度とない危機に直面しながらも、一代で弱小牧場から世界に冠たる社台グループを築き上げ、またその過程で日本競馬のレベル向上に多大な貢献を果たした。

彼の目は一貫して馬と世界と競争に向けられ、その妥協のない苛烈なまでの信念は多くの敵を作りながらも、彼の成功の原動力となり続けた。

彼は日本競馬をアメリカやヨーロッパに肩を並べ、そして超える存在に押し上げようとした。

彼の死後、それは夢物語ではなく現実に取り組むべき全ホースマンの目標へと変わり、社台・非社台に関わりなく世界制覇への戦いが今日に至るまで続けられている。

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