日本の偉人

小栗上野介(忠順)生涯・人柄・名言から学ぶー渡米、勝海舟との衝突、その最期

K・ヒキタ
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こんにちは。ライターのK・ヒキタです。今回は、小栗上野介(忠順)生涯、名言から学びましょう。(写真は一番右側が小栗上野介です)

小栗上野介(忠順)(おぐり こうずけのすけ/ただまさ)は時代劇でも悪役として描かれることが多いかもしれません。
ただ小栗上野介はノーといえる日本人であり、信念を持った日本人と言えます。

小栗上野介は、勝海舟と衝突して結局その政争に敗れた人物として描かれることがあるかもしれません。

ただ小栗上野介にとっての日本は幕府があってのものであり、幕府が全国諸藩の秩序を守って外国との交渉に当たり開国をして日本を発展させるというのが正義であります。

それは今現代の日本人からすると敵と思われるかもしれませんが、もしも小栗上野介の決戦案が採用されて官軍を壊滅させ幕府の秩序を保ったとしたら、最大の英雄になり得た人物だといえます。

小栗上野介を知る事は

  • 衰退する幕府勢力の中で真剣に向き合い、
  • 真剣に復活に向け強力な基盤を作ろうとした信念の人がそこにいたこと、
  • またそれを知ることこそ私たち現代人が何を目的に生きるのかをしっかり問いかけてくれる人物である

ということは疑いないことだと思います。
最後まで幕府の生き残りを賭けた小栗上野介の夢を一人でも多くの人に知ってもらいたいと思います。

小栗上野介の生涯

小栗上野介の生い立ちから渡米、その時代背景

幕末、日本は動乱の中にある。
江戸幕府は大老が暗殺された桜田門外の変や尊攘派による天誅、そして禁門の変とペリー来航以来開国をめぐる論争の中幕府の指導力は急速に衰える。

その中にあって全く違う発想で新しい未来を切り開こうとした男が小栗上野介である。

小栗上野介の家は2500石の名門旗本出身で、小栗上野介は1827年に生まれた。

昌平坂学問所に学び、22歳で莫吏登用試験に合格。将来を嘱望されるエリート官僚となった。

小栗上野介は幕府の力で日本を近代国家にするべく幕府再建に力を注ぐ。1860年遣米使節団としてNo3という高い地位で渡米する。

小栗上野介のアメリカワシントンでの働き

小栗上野介は前列右から2番目

アメリカのワシントンに到着した小栗上野介は大統領ブキャナンと面会して、指導者としてのリーダーシップを発揮する姿を目の当たりにして、議事堂の壮麗さには興味を示さず、大統領制度の仕組みを詳細に問いただす。

先進文明導入にメモ魔と化した小栗上野介

小栗上野介一行の姿を記した現地の新聞には誰もがメモを取る日本人の姿が描かれている。小栗上野介は先進文明導入に意欲を示しメモ魔と化したのである。

為替レートの是正を勝ち取る

アメリカの造幣局を訪ねた小栗上野介はその時に一両小判と一ドル金貨の金の含有量の試験を要求してレートの不均衡を指摘する。
為替レートの是正を勝ち取るのである。

アメリカを範に強い日本を夢みた小栗上野介

小栗上野介は将軍が大統領として強い指導力を発揮する、そんな日本の姿を夢見たのである。
しかしこのアメリカ訪問で先進国の実情を目の当たりにしてしまう。小栗上野介は完全な幕臣として制度の近代化を目指す。

アメリカの大統領制を見て、将軍をそのまま大統領に当てはめ幕府システムを改革して開国、財務、外交、経理による近代化を目指していく。

小栗上野介は帰国後、海軍建設に動いた

開国から間もない日本は軍艦で威圧する列強の力に脅かされ続ける。

日本の海を外国船から取り戻すためには海軍を備えなければならない。小栗上野介が抱いたのは海軍建設の夢だった。

帰国して勘定奉行に任命された小栗上野介は幕府財政の再建を図る。
裕福な商人から御用金を集める一方、幕府の人員削減に着手、リストラを強行し出費を徹底的に削減して海軍建設のための資金を貯めていくのである。

小栗上野介が想定した海軍計画は当時幕府が保有する軍艦は12隻、これを将来300隻に増やし、幕府が直接に5つの艦隊を指揮するというものだった。

小栗上野介と勝海舟

幕府海軍創設をめぐる二人の対立

小栗上野介は強力な幕府海軍を創設することで幕府のリーダーシップを発揮しようと目論む。

しかしこの構想に真っ向から対立したのが、勝海舟だった。勝海舟が目指していたのは幕府だけの海軍でなく、日本全体が共有する一大海軍建設だった。

このころ諸藩はそれぞれに軍艦を保有していたが、これを一つにまとめればそれだけで大きな海軍ができるというのが勝海舟の発想だった。

文久3年に勝の計画が実現され海軍養成学校として海軍操練所が設置されたのである。勝海舟は幕臣だけでなく広く諸藩の人間に門戸を開き西国雄藩の若いリーダーたちと接し新たな政権の必要性を説いていきました。

勝海舟の失脚、小栗上野介の横須賀大造船所建設

しかしその勝海舟の夢は幕府と長州が京都で武力衝突をする。いわゆる禁門の変である。

これを機に長州に気脈を通じていると疑われた勝海舟は一切の職を解かれ海軍操練所も閉鎖されてしまう。失脚した勝海舟のあとを継いで海軍の責任者になったのが小栗上野介だった。

小栗上野介は直ちに新たな計画を実行に移す。それは三浦半島の小さな漁村横須賀に当時としては世界有数の大造船所を造リ上げるというものだった。

3つのドッグに製鉄所と武器工場を建設。総工費240万ドルはフランスから借金をするというもので小栗上野介の巧みな交渉術が生かされた。

それには反対意見もあったが、小栗上野介は一歩も引かずに強力な海軍建設こそ幕府権力回復の道だと小栗上野介は確信していたのである。

小栗上野介と幕府陸軍の近代化

小栗上野介はその後、フランスから軍事顧問を招聘し幕府陸軍をフランス式に近代化させた。強い幕府の復活にかけた小栗上野介の夢は大きく前進する。

慶応2年幕府は長州攻撃を命じる。幕府の権威を一気に回復させることが狙いだった。ところがこの年の1月にひそかに薩長同盟を締結した薩摩が出兵を拒否をするという事態が発生する。

驚いた幕府は勝海舟を再び招聘して勝の薩摩との人脈を頼り、勝海舟は軍艦奉行として大坂に赴いたのである。

小栗上野介はこの時、勝海舟にある計画を打ち明ける。
その計画とはフランスから軍艦を7隻と600万両を借りて長州と薩摩を滅ぼし、幕政に口出しする者がいなくなったところで日本を軍権制に改めるというもの。

この極秘情報を勝は大坂で暴露、勝は小栗上野介の計画は外国に利用され国家を瓦解に陥れるものであると反対を説いて回る。

この出来事からまもなく小栗上野介の元を一人の旗本が訪れ、幕府に害を成す勝を斬ろうと思うと言うと、それを黙って聞いた小栗上野介はいきなりその旗本の刀を抜いて、貴殿の刀はよく切れそうだと語ったという。

小栗上野介にとって日本は幕府あってのものであり、攘夷を唱え幕府と考え方を異にする薩長を倒して開国する考え方である。日本全体を考える勝とは根本的に生き方が違うのである。

小栗上野介その後

慶応3年10月14日に大政奉還が実現する。そのとき小栗上野介は将軍が一大名に戻ることを知りひどく落胆したという。

討幕派の挑発により鳥羽・伏見の戦いが勃発、幕府軍は総崩れとなり江戸では官軍が迫る中大評定が行われ、この時小栗上野介は官軍との決戦を主張。起死回生の作戦を提案した。

東海道と中山道から迫ってくる官軍が関東に入ったところで箱根と碓氷の関をとじる。駿河湾にまわった幕府艦隊が後続部隊を攻撃して補給路を断つ。孤立した討幕軍を精鋭のフランス式陸軍で殲滅する。軍艦を薩摩と長州の本国に送り、一気に形成の挽回。

この作戦に後の兵部大輔大村益次郎は、もしこの作戦で戦われたら負けていたと言ったという。しかしこの決戦論に勝が反対、将軍慶喜も決断を下さずに退席。小栗上野介は将軍の袖をつかみ決意を迫ったが同意は得られず翌日罷免された。

小栗上野介の最期と名言

小栗上野介は上州権田村に引きこもり余生を送ろうとしていた。しかし江戸の無血開城を果たした官軍が小栗上野介を放ってはおかなかった。慶応4年4月6日小栗上野介は斬首された。

「お静かに」

小栗上野介は、斬首される直前、ざわめく周囲に対して、そう言い放った。享年42歳。

小栗上野介が去った幕府は250年の武威も威光も示すことなく敗れ去った。しかし小栗上野介の横須賀造船所が完成したのは明治元年の11月、その小栗上野介が残したドッグは今も現役で使われているのである。

最後に、小栗上野介の言葉を紹介しよう。
「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない」

「一言で国を滅ぼす言葉は『どうにかなろう』の一言なり。幕府が滅亡したるはこの一言なり」

「病の癒ゆべからざるを知りて薬せざるは孝子の所為にあらず。国亡び、身倒るるまでは公事に鞅掌するこそ、真の武士なれ」

 

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