日本の偉人

「宮沢賢治」今こそもう一度触れてみよう。“夢”と“道”と“救い”の作家

こんにちは。じぇむずです。歴史は過去からの膨大なビッグデータ。今回は宮沢賢治に学びます。

米出身で日本文学研究者として著名なロバートキャンベル氏が以前TVでこうおっしゃっていた。

「私が日本に来てまだ馴染みの薄かった頃、ある先生に『日本で一番美しい文章の作家さんは誰ですか』と尋ねました。すると、彼は何の澱みもなくこう答えました。『それなら宮沢賢治です』。
漱石でも、世界的に有名な谷崎俊一郎でも川端康成でもなく、敢えて彼の名を推したのです」

「文学者」としてだけでなく「求道者」として、
いや、何か「聖人」のような不思議な光彩すら放ってその存在は迫ってくる。

宮沢賢治の文章は大きい。しかしそれでいてどんな小さいものをもくみ取る。

彼の文章を一言で表すのならそれは“救世”ではなかろうか。
そして、彼の凄いところはそれを自分の地の肉体のまま生きぬいたところだ。
だから伝わってくるものが違う。

彼のこの世に生きた人生はほんの三十七年にすぎない。
その生き様と魂をここにほんの少しでもくみ取ることができたらなと思う。

 

宮沢賢治の生涯と人柄

1)宮沢賢治の生涯

1986年(明治29年)8月27日岩手県稗貫郡花巻町に生まれる。
宮沢家は地域の代議員などを輩出する名家であり、父政次郎は質屋・古着商を営む素封家だった。

幼少より、鉱物・植物・昆虫などを採集するのが趣味だった。
あまりに熱中するので「石こ賢さん」というあだ名があった。

思春期の頃から文学への傾倒を強め、また一方で農学を志し、盛岡高等農林学校農学科第二部(現岩手大農学部)へ首席で入学する。

大学卒業後は理想と現実のはざまで職を転々とし、やがて“童話作者”を志し、父の反対を押し切り、単身上京して出版社に勤める。この間膨大な詩編と童話を残す。

しかし、職業文人としての評価は芳しいものが得られず夢破れて帰京。
25歳で稗貫郡立稗貫農学校教諭に就任する。
この年、雑誌<愛国婦人>に童話『雪渡り』を発表。原稿料5円。生涯得た唯一の原稿料であったという。

26歳の時、数少ない、そして最大の理解者だった妹のトシが結核にて死亡。
この情景は詩編『永訣の朝』に美しく記されている。
また、賢治の代表作『銀河鉄道の夜』はこの体験がモチーフになっているといわれる。

28歳で心象スケッチ『春と修羅』を自費出版するがほとんど売れず。

30歳で花巻農学校を依願退職。待遇を苦しめられた同僚をかばい、その理不尽を上訴する意思表明を込めての退職だったという。
花巻郊外で独居自炊生活をはじめる。近くの畑を耕し、野菜や花を売る。
「農民芸術」なるを志し、近在の者らに無料で肥料設計などを講演、また合奏練習やレコード鑑賞などを分かち合い、「羅須地人協会」と称した。

35歳で東北砕石工場技師として招かれ、製品の改善から宣伝・販売などを受け持ち、東北各地へと出張を繰り返す。

この頃から次第に体調を持ち崩すようになり、37歳で急性肺炎を起こし病状が悪化、9月21日永眠。その前日の夜まで近所の農夫が営農の相談に来るのを病床にありながら懇切に応じてやっていたといわれる。

その他代表作、童話『風の又三郎』『やまなし』『注文の多い料理店』『オッベルと象』『寓話猫の事務所』など。

2)宮沢賢治の人柄

非常に壮大な夢を持ち、その身をもって体現し続けようとした。
ひたむきで、献身的。きわめて感性が豊かでありながら文理芸術などかなり広範囲に造詣が深く、意外にシュールでエッジが効いているいう点も忘れてほしくはない。
後者の賢治を満喫するなら『「ツェ」ねずみ』『蜘蛛となめくじと狸』『フランドン農学校の豚』演劇脚本『飢餓陣営』などを勧める。

法華経への関心が高く、かなりその強い影響を受けている。
1920年法華経系の国柱会に入会している。

宮沢賢治から学ぶ3つのこと

1)賢治の魅力はやはりその名作から~『永訣の朝』(抜粋)~

『……(略)……青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……(略)……』

※最愛の人を亡くした時の慕情がひしひしと伝わってくる。
ただ、物質的な“喪失”を彼は精神的な“永遠”に変えた。

2)賢治の魅力はやはりその名作から~『雨にも負けず』(抜粋)~

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジヨウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
……(中略)……
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボウトヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハ
ナリタイ

※我々は放っておけば“目の前”に流される。
ただ、ちょっと一息ついて、もっと“大きいもの”を見渡してみよう。

3)賢治の魅力はやはりその名作から~『銀河鉄道の夜』(抜粋)~

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。
「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔(ぶくろ)だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云いました。
「僕もうあんな大きな暗(やみ)の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。

※彼の自ら背負い込んだ“生”とは常人には耐えがたい苦難に満ちたものだったかもしれない。
が、彼は本当に“不幸”だったのか。

4)宮沢賢治名言集

『新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
銀河系を解き放て』

『もうけっしてさびしくはない
なんべんさびしくないと云ったとこで
またさびしくなるのはきまっている
けれどもこれはこれでいいのだ
すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとはとうめいな軌道をすすむ』

『まことのことばはうしなはれ
雲はちぎれてそらをとぶ
ああかがやきの四月の底
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ』

※これほどの覚悟をもって我々は日々今を生きているのか。

 

一番苦しくて悲しいときに寄り添ってくれる宮沢賢治作品

この世の歴史にあらゆる種の天才がいるが、こういった種は人が一番苦しくて、悲しい時にそっと寄り添い、揺すぶる。
それだけ魂の深いところに根差しているから安定もする。

そして、こういった苦しみや悲しみを知っている分だけまたそこに豊かさが生じる。

賢治というのは憧れであり、あまりに大きく、そして眩しすぎる。
ただ、どうしたことかそんな眩しすぎる太陽をまた眺めたくなる。

この太陽を既に知っている人は幸福だ。
なぜならその人の心のどこかにこの太陽は確かに息づいているから。

この太陽をまだ知らぬ人は幸福だ。
なぜならこれからあのどうしようもないほどの魂の高ぶりを味わうことになるから。

賢治の魅力を映像でも。知る人ぞ知る感動の名作アニメ!

『イーハトーブ幻想~kenjiの春~』(96年)
学校で見たという方も決して少なくはないだろう。
登場人物はすべて動物に擬され、賢治の性格、意思、葛藤、当時の時代背景などが見事に活写されている。
賢治の声は佐野史郎氏が担当。実に素朴で情熱的で力強い名演。
そして、BGMの上々颱風が心地よく作品になじみ、情感をより豊穣に彩っている。

 

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