日本の偉人

水野勝成の生涯・人生訓3つから知る戦国最強の意味

画像出展:Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/水野勝成)

こんにちは。
とある高校で社会科を教えている「そんそん」です。
今日は「真の戦国最強」ともよばれる武将、水野勝成の人生と人となりをご紹介します。
(仕事・恋愛・人間関係などで悩める現代人「また頑張ろう!と思える」生き方・名言です。)

水野 勝成(みずの かつなり)とは

水野勝成は、16世紀~17世紀の戦国武将、大名。

徳川家康の家臣に生まれるも、様々な武将・大名の家臣として各地を転々とした流浪の武将であった

どの家に仕えているときも必ず武功をあげるが、
その一方で、自分勝手な性格や高いプライドなどから、その功績が正しく評価されることは少なかった

その人物を評して「倫魁不羈(「名将言行録」より)」、
つまり「あまりに強く鋭く、だれにも飼い慣らすことはできない
と言われたほどの剛の者であった。

ところが福山藩の藩主となった彼は、その癇のきつい「いくさ人」ではなく、国の発展のために尽くした名君といわれた。

「いくさ人」と「名君」。
この二つは背反するものだろうか?

  1. 戦で勝手に振る舞い一人で功績を挙げることも、藩のトップとして善政を敷いたのも、
    自身の能力を信じて、常に全力を尽くした」結果ともいえ、背反しない。
    そして、次々と主君を変えたのも、
  2. 「自信の能力を冷静に測り、それに見合った待遇を求めつづけた」と考えれば、
    養っている家族や家臣の為、ということも想像でき、責任感の強さも感じる。そして、彼の人生から最も学ばねばならぬのは、
    苛烈な戦国の世で戦死や横死(おうし)をせず、88歳まで生き抜いたこと。
  3. 「最後までしぶとく生き残ったものこそが、結局は勝者」金持ちになっても、位人臣を極めても、結局は生きてこそなのである。

全て、時を超えて、現代人が水野勝成から学べることだろう。

では、くわしく見ていこう。

水野勝成の生涯と人柄

水野勝成は、永禄七年(1564年)に三河の国(今の愛知県東部)に生まれた。
父は水野忠重。
勝成が生まれたときには、後の徳川家康に仕えていた。

父忠重の姉が家康の母なので、勝成は家康のいとこになる。

初陣から「最強」と目される

初陣は16歳の時。

武田勝頼との「高天神城の戦い」で、多くの敵将の首級をあげ、初戦にして織田信長(家康の同盟者)から感状をもらっている。

初陣の頃から、その「戦国最強」とも目される能力を発揮していたのだ。

天正壬午の乱「もう二度と従わぬ」

天正10年(1582年)の「天正壬午の乱」では、家康の重臣で乳兄弟でもある鳥井元忠の軍に参加して北条氏忠を攻めたが、
このとき鳥井元忠が自分に断りなく戦端を開いたことに激怒し、「もう二度と従わぬ」と宣言。

今度は自軍のみで抜け駆けを行い、多くの敵将を倒す。

小牧長久手の戦い「兜を便器にでもしたのか?」

天正12(1584年)の「小牧長久手の戦い」では、眼病をおして参戦するが、
視界の妨げだったのか、指揮官でありながら兜をかぶらないことを父に叱責される。
(戦国の将は、身分上の格好の善し悪しという理由以外にも、特徴ある兜をかぶることで、味方に将の所在がわかるようにしていた)

「兜を便器にでもしたのか?」

20歳程度と若く、武勇の誉れも高い勝成が、この父の言を我慢できるはずもなく、

「兜があろうがなかろうが、自分が敵を倒すのか、敵に倒されるのか。見ていよ」

そういって突撃、一番首をとって意気揚々と帰陣する。

父との関係悪化、一族からの追放

このあたりから父との関係が悪化する。

同じ年の「蟹江城の戦い」で、自分を悪く言う書状を書いた父の臣下を斬ってしまった勝成。

忠重は、勝成を「奉公構」、つまり一族から追放するし、他家に対しても「勝成を仕官させたら水野家は黙ってないよ」という厳しい扱いで放り出す。

京都での荒れた生活

武士としての活躍の場を失った勝成は、一人京都で生活、無頼ものと付き合ったり、日々ケンカに明け暮れたりという生活を送る。

このとき多くの人間を撲殺したり斬り殺したりしているというから、個人的な戦闘力は本当に高かったんだろう。
それをもてあます日々だった。

豊臣秀吉に仕え、また出奔

しかし時は戦国。
多少性癖に問題があっても、この強力な戦力を他の大名武将が放っておかなかった。

天正13年(1585年)に、誘いを受けてかつての敵方、豊臣秀吉に仕える。

すぐに戦で功績をたて知行を受けた勝成だったが、なぜかすぐに豊臣家を出奔、というより脱出する。

なぜ「脱出」かというと、この件のいきさつはわかっていないが、少なくとも秀吉が勝成を殺害するため刺客を送ったというのだから、きっとまた何かしでかしたに違いない。

諸国を転々とする

その後も、佐々成正、小西行長、加藤清正、立花宗茂と、戦国を彩る武将たちに仕えながら諸国を転々とする。
もちろん全ての武将の麾下で全て軍功をあげているのは言うまでもない。

一所に落ち着かないのが性癖なのか、それともあちこちで悪行して追い出されていたのかは分からない。

しかし、その武勇だけは国中に轟いていたようだ。

徳川家に再び仕え、関ヶ原の戦いへ

水野勝成が戦にて奪ったとされる日向正宗

水野家との縁から勝成を冷遇していた家康も、決戦を前にこの武力がほしくなったのか、慶長4年(1599年)に勝成を再び召し抱える。

この後は徳川軍にのみ身を置き、「関ヶ原の戦い」の時には石田方の拠点大垣城を落城させ、
元和元年(1615年)の「大阪夏の陣」では、あの真田幸村の軍を壊滅させるなどの功で「戦功第二」として讃えられた。

郡山、福山藩主、臣下領民を大切にする名君へ

福山城

これにより、郡山、続いて福山藩の藩主となった勝成は、お殿様としては、臣下領民を大事にし、水道整備や産業進行に尽力したため、広島では「名君」として語り継がれている。

しかし「いくさ人」としての勝成が、これで終わったわけではなかった。寛永15年(1638年)の「島原の乱」では75歳にして司令官として参戦。

またその翌年に隠居するが、なんと死の直前87歳になっても、鉄砲を撃っていたという。

慶安4年(1651年)88歳でこの世を去った。

水野勝成の生き方・名言から学ぶこと

1)「生きるか死ぬかは時の運」の言に見る真の冷静さ

小牧長久手の戦いにて、兜を被っていないことを父に詰られた勝成は、反発するようにこんな言葉を言い捨てて敵陣に突入したとされる。

しかし、これはただ若さ故の反骨から出たとは考えない。

戦場で兜を被らないのは単純に危険だ。
しがし眼病の故に被っていないのは、「視界確保」と「頭部保護」を秤にかけた冷静な判断からだったのだ。

そして、その判断の正しさを見事証明するための突撃であり、実施彼は戦果を上げている

「時の運」という言い方そのものは、何とも外連(自己演出)に満ちているけど、それは彼の豪放な人格からのもので何とも愛しい。

日本人は「不言実行」を重視するが、
成功を宣言してからの成果、つまり「有言実行」の方が目に見えて、その評価に繋がる効果が高いことを、
彼は教えてくれる。

 

2)「倫魁不羈(りんかいふき)」の最強武将

倫魁不羈は、彼の言ではなく「名将言行録」に記された言葉である。

「強すぎて飼い慣らせられない」

そんな意味だ。

ただこれは、勝成の強さの本質をついてはいないように思える。

戦えば必ず勝ち、軍功をあげて続け、それでも88歳まで生きた。

この事実の中で、最も評価できるのは、そのサバイバビリティ(生き延びる能力)ではないだろうか?

戦国を生き抜き、江戸時代まで生きた武将の大半は、ほぼ「本陣に陣取る指揮官」であって、

常に一番槍を追求してきた「前線指揮官」勝成とは安全度が違う。

常に自分を危地に置きながらも生き抜いた勝成を、「単に運が良かった」と評するのは間違っている。

恐れて後ろに引っ込むよりも、前に出た方が安全なこともある。

そしてきっと、「ここは前に出たら危険だ」と判断したら、勝成は出なかった人なのだろう。

そう考えないと、88歳まで戦傷すらろくに受けずに生き残ったことを説明できない。

結局は生き残ったものが最強である。
そんな当然のことを勝成は教えてくれるのだ。

3)人との関係を重視。「私は親、臣下は子」

これは福山藩主になった勝成の名言として残されたものである。

実際の内容は、臣下と君主が助け立ってこそ国が成り立つことを説いたもの。

癇の強い「いくさ人」、独断の人というイメージとは離れるが、
放浪生活や冷遇され続けた人生で、他者と築く関係こそが事をなすのに大事であると、身にしみて覚えたのだろう。

またいかにも独善的に生きたように見える彼の人生だが、その周囲には、名もなき彼の支援者がいたはずなのだ。

そうした人々の助けを得て、すぐに戦死してしまいそうな苛烈な人生を88歳まで全うした。

それを想像すると、彼は初めから「協力の重要性」を理解していたことになる。

「周りがみんな敵に見える」

そんな時も深呼吸して周りを見渡せば、自分の「一騎駆け」を助けてくれる人がいるはずだ。
そういう人との関係こそ大事にしたい。

水野勝成をしのびつつ、戦国最強は誰か?を考えてみよう

水野勝成公墓所 (福山市若松町)

戦国最強は誰?

そう聴かれた人は「天下人織田信長」とか「軍神上杉謙信」とか、その人なりのいろいろな答えを持っているだろう。

そうした中には、まさにこの「水野勝成」をあげる人も少なくない。

敵陣に少数、時には単騎で突撃しては、果物でももいでくるように簡単に敵将の首をあげて戻り、それがさも当たり前みたいに傲然と笑う。

それが聴いたこともないような小さい合戦ではなく、小牧長久手や関ヶ原、大阪の陣と、歴史が得意でなくても知っていそうな大いくさでの功績が多い。

これだけでも戦国ファンを十分に酔わせるのに、少し考えてみると、そんな数々の戦いに片っ端から参戦している勝成の「戦いの長い歴史」に思い至り、「最強」と呼びたくなる気持ちを強めてくれる。

それでいてその強さ故に警戒され、冷遇され、諸国を転々としてきたという悲劇にも、強く惹かれる。

ましてその道中で、現代の不良さながらに、ケンカに明け暮れたり、悪い仲間とつき合ったりという姿を見せられると、ついニヤリとしてしまう。

この人は「最強」なんだけど、すごく「人間」を感じさせてくれるのだ

高潔で知られる謙信も、残虐といわれる信長も、冷酷とされる信玄も、その大名という立場故ではあろうが、
あまり人間としての近さを感じない、どこか「神話の英雄」みたいな超然としたところがある。

一方、水野勝成にはそうした超然さを感じない。

  • 初陣の頃の剽悍さ(ひょうかんさ)や傲慢さも、流浪中の荒れていたことも、
  • 多くの武将の元を転々としたことも、
  • 老境にさしかかっても戦場にあった血気も、
  • 部下や友人を大事にしたところも、

どの勝成を評価しても、どれもが人間くさい。

彼の歴史を見るものは、その人生にどこか自己を投影して眺めることができるのだ。

だから我々はこう考えてしまう「こういう人に最強であってほしい」と。

水野勝成最強説の背景には、彼の人柄や人生を愛する多くの人の願いが含まれているのだ。

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