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今回はエカチェリーナ2世を語ります。
特に現代の女性には読んでいただきたい、生き方が変わる偉人の生き方・名言です。
エカチェリーナ2世の概要と功績
エカチェリーナ2世は18世紀ロシアの啓蒙専制君主で、「大帝」と言われている。
ロシアの近代化を推し進めた功績は、偉大としか言いようがない。
エカチェリーナ2世が、
- ドイツの貴族の出身で、ロシア皇族の血筋ではないのに皇帝に即位できたこと。
- 愛人の手を借りてだが、貴族の支持を得てクーデターを起こして成功したこと。
- 皇帝となるまでに、忍従の生活をし、ひたすら本を読んで教養を深めていたことなど
は、現代人にとっても、女性にとっても考えさせるところがあると思うのである。
エカチェリーナ2世の生涯と人柄
エカチェリーナ2世の生涯
エカチェリーナは、1729年に、父クリスティアン・アウグスト、アンハルト=ツェルプスト侯と、母ヨハンナ・エリザベートの長女として、シュテッティン(現在はポーランド)で生まれた。
ルター派キリスト教徒として、ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケと洗礼名を付けられたが、後にロシア正教に改宗し、エカチェリーナ・アレクセイエヴナと改名したのである。
14歳のときに母ヨハンナの亡くなった兄の婚約者のロシアのエリザヴェータ女帝からロシアに招待され、女帝の甥で後継ぎのピョートル大公と結婚したのだが、後にエリザヴェータ女帝の死後、ピョートル3世となった夫相手に愛人オルロフ兄弟らの助けを借りてクーデターを起こして成功し、女帝におさまった。
エカチェリーナ2世を名乗り、啓蒙専制君主としてロシアを治め、トルコとの戦争やポーランド分割などでロシアの領土を広めた。
また、文化的にも自身がヴォルテールらの文化人らと文通し、ロシア文化を高めた功績も多大である。
68歳で亡くなるまで、愛人を多く作り、私生児も何人も生まれたが、愛人にはポチョムキンをのぞいて政治には口を出させず、息子のパーヴェル大公より孫を後継ぎにしようとしたが叶わなかった。
エカチェリーナ2世の人柄
14歳でロシアに来るまでは、家庭教師について勉強し、フランス語に堪能で頭の良い少女であった。
自分の器量や家柄などについても客観的にみていて、又従兄に当たるパーヴェル大公がベストだと思っていたのである。
エカチェリーナ2世が42歳のときに書いた回想録によれば、愛情のある結婚相手としてではなく、ロシア皇帝になりたいという気持ちをすでに持っていたというのである。
そういう気持ちを前面に出さず、わがままで気まぐれな義理の叔母エリザヴェータ女帝にも耐え、夫ピョートル大公にも我慢して、
ロシア語を学び、ヴォルテールの本を読んで勉強し、将来に備えていたなんて、なんとすごい女性ではないだろうか。
エカチェリーナ2世から生き方・言葉から学ぶこと
1)エカチェリーナ2世の「訓令ナカース」を提案する先見性
「訓令(ナカース)」は、各身分の代表が集結し、1766年に開催された新法典編纂委員会で提案された。
エカチェリーナ2世が提案し、モンテスキューの「法の精神』やベッカリーアの「犯罪と刑罰」などの西欧の啓蒙思想を盛り込み、農奴制の緩和という、かなり先見的な内容を含んでいたが、ロシアではまだはやすぎて機能しなかったのである。
2)生まれ持ったリーダーシップ
息子パーヴェル大公が成人するまでの中継ぎの気はさらさらなかった
エカチェリーナ2世はロシア皇帝の血を受け継いでいないので、貴族の支持を得て皇帝の地位に就いたのだが、貴族の間では、息子である9歳のパーヴェル大公が成人するまでというつもりがあったのだが、エカチェリーナ2世本人は、自身が親政するつもりでいたのである。
彼女は生まれ持ったリーダーシップを発揮し、今まで読んだ本から得た知識を生かして、ロシアの近代化を推し進めようとしたのである。
女性とは思えない、スケールの大きさではないだろうか。
美術品を集め、建造物も多く建てた
今に残るエルミタージュ美術館の所蔵物はエカチェリーナ2世の収集したものを基礎としている。
また彼女が建築家を集めて建てさせた、タブリダ宮殿、パヴロフスク宮殿、アレクサンデル宮殿などの建造物なども今に残っているので、ロシアに旅することがあれば、エカチェリーナ2世の業績はいくらでも偲ぶことが出来る。
エカチェリーナ2世の女性とは思えないスケールに学ぶ
エカチェリーナ2世は、14歳で花嫁候補としてロシアに来て、無事に皇太子妃となり宮廷生活を送っていた。
後継ぎのパーヴェル大公も生まれたが、33歳のときにエリザヴェータ女帝が亡くなり、
夫のピョートル大公が即位するまで、大変な忍従の生活だったのである。
わがままな専制君主に、陰謀渦巻く宮廷、知的障害があり当てにならない夫に囲まれ、
結婚7年目で生まれた息子は、自身が回想録に書いているように、夫の子供ではなく、後継ぎを欲するエリザヴェータ女帝公認であった愛人の子であったのである。
この息子も出来が良くなく、晩年は自分で育てた孫を後継ぎにしようとしたほどなのだ。
だが、周りの人たちに惑わされず、エカチェリーナ2世は14歳の頃にロシアに来て以来ずっと皇帝になることを夢見ていて、
そのためにヴォルテールらの本を読み、学問を究め、見聞も広め、ロシア語を学びロシアになじもうと必死の努力をしていた。
その姿勢はエリザヴェータ女帝はもちろん、貴族から庶民までに大変好意的にみられていたのである。
そして念願の皇帝になってから、本当にそれまでの努力の成果を発揮したのはすごいことだと思う。
エカチェリーナ2世といえば、愛人の数が半端じゃないとかそちら方面の事ばかりクローズアップされがちだが、
女性でここまでやれるということ、エカチェリーナ2世が成し遂げたと言うことは、もっと知られても良いことではないだろうか。