歴史は地球のビックデータ。今回は中国の偉人、始皇帝から学びましょう!
昨今は漫画『キングダム』などで割と身近に親しまれるようになった中華最初の統一者「始皇帝」。
その歴史の波浪にもてあそばれるままに「頂点」と「絶望」を共に経験した男。
- 唯一無二の「皇帝」
- 貨幣や度量衡の統一
- 万里の長城の完成
- 異民族討伐
などと数えきれないその大業績。
ただその反面で「不老不死」を夢見、
怪しげな「仙丹」を飲み、
意にそぐわぬ思想は「焚書坑儒」し、
やがてはあまりに悲惨に過ぎるその孤独な末路……。
毀誉褒貶(きよほうへん)の甚だしい人物であるが、私として彼の魅力はそんなところにはない。
始皇帝には、「歴史」というものが「ここまでか」というくらい濃密に詰まっている。
とにかく「生ける実験体」。
元は平凡な一人の少年。
ただ、そんな彼が誰もが持つ「本能」「憧れ」「恐れ」「憎悪」「喜び」それらを体験し尽くし、結局何を見たのか。
我々にはいつも忘れてしまいがちなことがある。それは「人間」であるということ。そして「歴史」があるということ。
「歴史」というのはただの過去の記録ではない。
そこに「人間」というものが詰まっているのだ。
始皇帝の生涯
始皇帝は、歴史の教科書にも出てくるあまりにも有名な中国史上を代表する「英傑」の一人であることに違いない。
が、その生涯はあまりに我々の日常を遠くかけ離れた凄まじい波乱、栄光と影に満ち溢れている。
その「ある一人の男」により見えるもの、壮大な歴史の渦中で彼はどう生まれ、どう育ち、何を為し、死んでいったのか。
我々の知る「生」そして人間という存在ののロマンと真実を追いかけてゆこう。
あまりに不遇な始皇帝の幼少期
始皇帝の本名は嬴政。
戦乱が5百年以上も続いた中華の中央に位置する趙国にてその男は生まれた。
彼の父子楚は西辺の大国秦の昭襄王の掃いて捨てるほどいる孫の一人で、当時も隣国趙に「人質」として差し出されていた。
趙国とはその先年に「長平」で秦国と歴史的合戦を交えており、その時に敗れた趙国は四十万人という犠牲が出たと伝わっている。
なお、二千年以上時を隔てた現在においてなおこの付近から掘り出され続ける白骨は数を知れない。
まさに敵の真只中、いつ殺されてもおかしくない極限状態にいた父はある時、宴に可憐に舞う美姫を気に入り、妻としてもらい受ける。その女性こそが嬴政の母である。
なお、嬴政の誕生譚には今もなお不可解な噂が付きまとっている。
それは、嬴政の生まれが「早すぎる」というのである。
出会ってから十月十日も経っていないのに、そしていつ誰と知れず「あいつの父は……」
父子楚にある時天啓が舞い降りた。
趙に下って早何十年、もう降りないと思っていたその命は「本国帰還」。子楚は沸き立った。
彼は妻も嬴政も置き、ただ一人その約束の地へ還っていった。
残された母と子が見たものはいったいどんなものだったであろう。
それから数年が経ち、嬴政らも纏めて帰還が許されたが、彼はこの時初めて「秦国」を見た。
始皇帝に続々と襲い掛かる“苦難の嵐”
そんな歴史の洗礼の中、嬴政はしたたかに這い上がる。
彼の苦難はこれで終わったわけではない。間もなく高齢に過ぎた秦の偉大なる大主君昭襄王は病死。
それを追うようにしてその子孝文王も在位3日で亡くなり、思いがけぬ態で王位は政の父子楚の下に転がり込む。
こうして晴れて嬴政は王太子に。しかし、荘襄王となった父も在位3年にして死去。
こうして嬴政は僅か13歳にしてこの大国の王として君臨することになる。
奇妙な噂
ようやく思春期に達し始めた嬴政に奇怪な噂がしばしば耳に入るようになる。
呂不韋という男がいる。
元戦乱の国々を渡り歩く一介の商人だったのだが、当時人質だった子楚に目を付け、「奇貨居くべし」と投資を惜しまなかった。
子楚を宴に招いたのは彼、そしてその後秦朝廟に売り込み、強引に跡取りとして秦に返したのも彼の功績である。
いつ、誰が言い始めたか。
「最近の陛下は……」
そのたびに慄然とするのである。
「ああ、余は!!」
母は父が早くに亡くなり、後宮で無聊のままにいた。いや、あの時からずっとそう噂されていた。
呂不韋。
そして、政の真の父親は……。
政は何を思ったのだろう。
ただすでに秦国の相国にまで上り詰め権勢をほしいままとする呂不韋。
まだ幼きにすぎる彼はただ唯々諾々とこの男の意に任せるしか道がなかった。
骨肉の争い!
呂不韋とて、このまま安穏に済む、とは考えていなかった。
一計を案じる。
ある一人の男を宦官として後宮に入り込ませると、その男は巧みに女の欲を満たした。
これでいい……。
男は望み通りの事態の経過に安穏としたが、「その男」と「ある女」はとんでもない欲望をむき出しとして、男に、秦王室に、襲い掛かってくるのだ。
嫪毐、そして政の母は結託し、「我らこそは正統」と反逆。早々と反乱を見越した朝廟側によってあっけなく鎮圧されるが、その疑惑の矛先は当然この男に向いた。
呂不韋、南僻の蜀国へ左遷。相国の位は剥奪され、やがて鴆毒を盛って自殺。
一介の商人からのし上がった夢はここに潰えた。
嬴政の飛躍!!全中華併呑と前代未聞の大国家プロジェクトの数々
嬴政による秦の躍進が始まるのはこの頃からである。
宰相に李斯を登用してさらなる法治体制を万全とし、王翦や李信、蒙恬といった『キングダム』でもよく知られた武官たちの活躍もあり、瞬く間に他国を平らげ、全中華を統一。
度量衡や轍の幅、文字、通貨などを画一し、さらに万里の長城の増築、高速道路や運河の敷設など、大規模な土木工事への功績も大きい。
ただ、あまりに苛烈にして強引な施政運営から、各国の離間を招き、その死後僅か3年にしてその大いなる統一王朝は瓦解、滅亡する。
始皇帝が権力の絶頂にあり、夢見たもの
初の皇帝「始皇帝」。
自らを「朕」と呼び、その命一つに中国全土が動いた。
権力の絶頂にあった彼は度々領土の北へ南へと足を延ばし、その威光を見せつけんとした。「行幸」である。
安房宮という大掛かりな後宮を建造し、美女3千人を常駐させ、そして、「不老不死」をもたらすという怪しげな神仙の薬丹を探し求め、捧げられるままに飲んだ。
その中には水銀の類まであったといわれ、その都度彼の肉体を蝕んだ。
その一方で矛盾するように都咸陽の外れに壮大な王墓を造らせ、自分の死後の永遠の住居とし、そこから全中華を睥睨せんとたくらんだ。
が、四十九にして行幸中に病を得、車内に揺すられるままに力尽きると、李斯と宦官の趙高によってその死を伏せられ、腐乱するままに王宮に持ち運ばれた。
彼の最後の願いであった太子扶蘇への禅譲はをれを疎む彼らによって握りつぶされ、扶蘇も李斯も趙高も、皆それぞれに歴史の波にもてあそばれてあえない最期を遂げる。
始皇帝あとがき
始皇帝はあまりに壮大なことから人気を博すが、その一方「歴史」というもの「人間」というものがあまりに濃密に詰まっている。
「権力」とは何か?「生きる」とは何なのか?その破格に突っ走っただけに「栄華」と「孤独」を知った男。
この男から学ぶべきことはあまりに多いはずだ。