画像出展:Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/光武帝)
光武帝 劉秀とは
後漢の初代皇帝、光武帝 劉秀。もっと評価して欲しい人物である。
私の知る限りですが、古今東西、王朝をを起こした帝王で、かつて苦楽を共にした家臣をただの一人も粛清しなかったのはこの人くらいである。
また創業を成し遂げ、さらに真っ当な後継者を残し,内乱を収束させ国家を整え、腐敗した役人を除くといった、守成を実行できた君主を他に知らない。
「隴を得て蜀を望む」これを三国時代の曹操の言と思っている人は多いが実は光武帝の手紙の一説で、ここからも文武に長けたバランスの良い人物像が伝わってくる。
臣下との微笑ましいエピソードにも事欠かない。この人物の魅力を少しでも伝えたい。
光武帝の生涯と人柄
光武帝の生涯
劉秀は、BC6〜AD57漢の高祖劉邦から9代後の子孫に生まれた。皇族と言い切れる家であったかは微妙な所だ。
王莽が前漢を簒奪していた時代、28歳で挙兵しAD25に帝位についた。
この間兄や姉の戦死もあった。自身も妹と二人で一頭の馬で逃走したり、家臣二人と一杯の粥を3人で分け合った事もあった。
決して楽な天下統一ではなかったのだ。
古代の越王勾践のように「苦労は共にできるが、栄華は共に出来ない」君主が圧倒的に多いのは歴史が証明している。むしろそれが当然であった。
光武帝には逸話が多い。
娘(公主)が嫁に行った先は建国の功労者の息子だったが、ある時夫婦喧嘩になった。
夫「お前の父上は、うちの親父がいなかった皇帝になんかなれなかったんだぞ!うちの親父が皇帝になってたかもしれないんだぞ。」
この内容はまずいだろう。
さすがに妻の公主は不敬で謀反ともとれる言葉に絶句して、実家に駆け込んだ。
すると光武帝は娘の公主に、平然と
「うん、その通りだけど?」
父の言葉に絶句していると、婿と舅が慌てて駆け込んできた。
「うちの馬鹿息子が、」と詫びはじめると光武帝は笑って許したという。
その文才を伝えるものも多い。
隴を得て蜀を望む、の語源は中国統一の最終盤の戦いに因むエピソードだ。
人は足ることを知らずして苦しむ。既に隴を平らげ復た蜀を望むなり。一たび兵を発する毎に、頭髪、為に白し。
これは隴を攻略した後、これから蜀を平定に向かう岑ぽうに送った親書で古来名文の誉れ高いもので、後世の魏の曹操も引用したことで名高い。
光武帝の人柄
光武帝は、文武に優れ、人格は円満、妻は賢く、後継者も優秀、苦楽を共にした臣下を一人も粛清せずに、創業と守成を成し遂げた。
この辺りは正しく稀有なことだ。
前漢の功臣は韓信を筆頭にほとんどが粛清された。まさしく兎死して走狗煮らるる状態だった。
明を建国した朱元璋は、敵を斃した後は功臣たちを粛正し、在野の学者に至るまで処刑し、ついには科挙を受験する者が不足するまで殺し尽くした。
これらと比べるだけでも光武帝の資質が伝えられると思う。
光武帝の生き方・名言から学ぶこと
1逆境に顕われる真価 「疾風に勁草を知る」
劉秀がいまだ華北の戦場で苦労していた頃、多くの部下が去って行くほどの苦戦を強いられていた時に部下に言った言葉である。
強い風が吹きすさぶときに、勁い草がどれか知ることが出来る。
つまり、人は逆境に置かれてこそその真価がわかる、と言った。
これを言われた将、王覇と言うのですが、これを言われればついて行くでしょう、いや、ついていかざるを得ない。
この他にも人柄を表す言葉は、多くある。
2人を信じる才能「赤心を推して人の腹中に置く」
この後、劉秀は軍を立て直し大軍を相手に大勝する。当然多くの捕虜が出るが、なんとそれらを指揮官ごと自軍に編入させた。
捕虜となった兵を編入させること自体は良くあることだが、指揮官達までということは滅多にない。そのまま寝首を掻きに来いと言わんばかりの行為だ。
ここまで寛大にされると逆に不安がられてしまい、劉秀の部下達が報告に来た。向こうは逆に警戒して怖がっている、と。
それで劉秀が取った行動は、甲冑を脱いだ軽装で供もろくに付けず(元捕虜の)数万人の兵士たちの中に入って視察を始めた。
その姿や表情を見た将兵が言ったのがこの言葉だ。
あの人は他者の真心を信じて、自身も真心で接し腹の底から信用している事をしめす。
部下から見て、これほどに慕わしいリーダーがいるだろうか?勇敢で有能な、誠実すぎるリーダーを見捨てられる人間は、そういないだろう。
3覇道の終結を目指して 「隴を得て蜀を望む 」
この言葉は現在では、人の欲には制限がない、と言った意味で使われるが光武帝の書簡を読めば随分違う意味で書かれている。
長い戦乱の果て、蜀を平定すればようやく平和が訪れる。
外交面での説得に応じない蜀の公孫述に対し苦戦する岑彭に送られた書簡の一節がこの言葉だ。
お互い白髪混じりの年となった臣下であり戦友でもある相手への書だ。
「人は足ることを知らずにして苦しむ 既に隴を平らげて復た蜀を望むなり 一たび兵を発する毎に 頭髪為に白し」
中国古代からの考えでは、覇道と王道は別のものである。
王道とは流血を伴わず、万民を苦しませない治世の進め方であり、覇道とは次善のものである。
混乱した乱世を終結させる為でも兵乱は兵乱であり、民を苦しめる物だから、光武帝は自嘲しているのだ
だから、蜀を望まねばならないと、光武帝は伝えたのだ。
どの様な仕事でも、逆境は有る。自分一人でできることもあればチームでなければ達成出来なこともある。
自分が部下であれ、リーダーであれ、苦境に立たされた時に私の中で湧き起こり、支えたくれたこれらの言葉を多くの人に知ってもらえれば良い。
これらの言葉がいつか、どこかで、誰かの支えになる事を望む。
光武帝をしのぶ
臥薪嘗胆の末、覇者となったのは越王勾践だったが、苦労を共にした范蠡は越を出て行く。
なぜかと問われ「あの方は苦労は共に出来ても、栄華は共に出来ない方だと思う」と言い残した。
はたしてその後の越は粛清の血の雨が降り多くの臣下が死に、国力は衰えていった。
前漢は高祖劉邦の死後や呂后の垂簾政治に粛清が続いた。中には蕭何や張良の様に混乱を泳ぎ切った者もいるが建国の功臣が粛清されるのが世の常でもあった。
国宝、金印 漢委奴国王印 日本史の方々にとって光武帝とはこの金印を贈ってくれた中国の皇帝、程度の人物であろう。
だが東洋史学徒から見ると、これはかなりの厚遇と言える。
中華(地理的中心にして文化文明の中心)から周辺を見ると北狄西戎東夷南蛮となる。
西域などで出土する冊封の印璽は材質、意匠は厳密にランク付けされていた事が解っている。
それらと比較して、漢委奴国王印がかなりの好待遇であったことは間違いない。
光武帝は戦場では最前線に立ち武勇でも名高い名将であったが、無名の師を起こしたことはない。
現在のベトナム(越南)は当時の一般認識では中華の一部と見做されていたための派兵であったし、西域とは一方で中華の外と見做されていた為軍事行動を起こしていない。
つまり、西戎や東夷(漢委奴国王印を贈られた王)は外交の対象であったことを意味している。
これが意味することは、光武帝が内乱で荒廃した国家を立て直すのを優先し、領土の拡大などは目指さず、外国とは外交関係を築くことを優先したという事だ。
数多くある光武帝の逸話にこんなものがある。
頻繁にお忍びで街中をで歩き、数人で狩りなどに出かけていた。夜遅くに帰宅する事がたびたびあった為、怒った門番の役人が開門せず、仕方なく門の外で野宿した事が少なくとも2回以上ある。
これが意味することは多い。まず治安が極めて良い。微行や野宿が可能とは治安が良くなければ不可能だ。
そして官人の綱紀が緩んでいないという事だ。
中国の都城制は宋代に至るまで、原則夜間の外出は出来なかった。各町のブロック毎に門が締められるのだ。
つまり、劉秀一行はいわば条例違反なので、入れてもらえなくて当然なのだ。それが分かる為、野宿で一泊なのだ。
光武帝 劉秀が皇帝になった後故郷を訪れた。近所のおばちゃん達が集まって、偉いもんだね、大きくなったね、などいたって気さくに宴席となった。
とにかく真面目で柔和な子だったのに、と言われて微笑みながら、その柔らかいやり方でこうなったんですよ、と答えたと言う。
戦場では皇帝となってからも最前線に立ち自ら武器をとって戦った。しかし息子、後の明帝が戦争や戦場のことを尋ねると多くは語らず、
「その昔孔子に戦争のことを尋ねた王がいたが、孔子はこれに応えることはなかったそうだ。」
と言って自身の武勇をひけらかす事は無かったという。
ちなみにこの後継者となった明帝も名君として知られる。
母は陰皇后で彼女は光武帝の地元で名高い美女で、妻にするなら陰麗華、と言った若い頃の憧れの女性だった。
賢夫人としても名高く、最初に皇后になるはずであったが、その時点で男子を生んでいなかった為、辞退した。
その為先に男子を生んでいた郭氏が皇后となったが、その後皇后に不行跡が続き廃后とされ、その子の皇太子は母の不行跡を恥じて自ら廃太子を願い出た。
その後、立坊されたのが後の明帝となり、後漢の全盛期を齎す事になった。
母の陰麗華も立后されたが、質素な暮らしを心がけ、自身の親族の推挙などを一切断り后の親族が政治に容喙する事を未然に防いだ賢后として名高い。