日本の偉人

マンガの神様・手塚治虫の生涯・人柄・作品から学びたい!諦めない力と短くとも太く生きること

天馬ひろしさん(男性 30代後半)
天馬ひろしさん(男性 30代後半)
日本のマンガを作った手塚治虫の生涯、人となりを解説します。

日本の漫画の神様、手塚治虫は、
兵庫県宝塚市に生まれ、歌劇と映画に囲まれて育った少年は、やがてマンガ家となり、多くの作品を残した。

彼のマンガはそれまでのマンガとは違い、ドラマチックで臨場感があった。

映画や歌劇の手法を取り入れた作品は多くの人に支持された。

しかし、彼の核心的な部分は、マンガそのものではない。

常に新しいものを追い求めていたその姿勢である。

後輩の描いた新しい表現に嫉妬し、常に自分が最先端でありたかったその姿は時に幼稚にも映ったが、それが彼を偉人たらしめた部分である。

人は自分の好きなこと、あるいは自分の仕事に対してどん欲である必要があるのだ。

それは時に滑稽にカッコ悪く映るかもしれない。

しかし、それは大した問題ではない。

プライドなどを守っていたら、何も残せない。

手塚治虫の人生を見ていると、そんなことを考えてしまう。

彼の人生から、泥だらけになっても自分の好きなことに邁進する姿勢を学んでもらいたい。

現代マンガを作った手塚治虫

日本のマンガ史を見てみると、手塚治虫登場以前と以後とに分けることができる。

手塚治虫の登場以降は、マンガというもの自体が全く変わってしまったのだ。

簡単に言ってしまえば、マンガにドラマができた。

手塚治虫は映画少年であった。

兵庫県宝塚市に生まれ育ち、宝塚歌劇を見ながら育った。

それらの華々しい世界を、手塚治虫は自身のマンガに取り入れたのである。

有名なのは1947年に発表した「新宝島」である。

それまで日本のマンガのスタイルは、舞台を前から見たように、横画面に平面的な構成でコマの中が構成されていたが、「新宝島」は、冒頭から車が迫ってきて、臨場感がある絵作りがしてあった。

これは映画の手法を取り入れた演出であったが、当時は斬新であった。

この「新宝島」を見て石ノ森章太郎や、藤子不二雄がマンガ家を目指したくらいである。

その後も「火の鳥」や「鉄腕アトム」などの作品を発表していき、マンガ界をけん引していった。

そしてアニメーションにも挑戦して、日本で初めての国産テレビアニメである「鉄腕アトム」を完成させた。

彼の人生は、挑戦の連続である。

彼の出現により、マンガは市民権を得た。

たくさんのマンガ雑誌が生まれ、多くの連載マンガが生まれ、その期間にマンガの技術自体も進化した。

そのたびに、手塚治虫は「若いものに負けるか」と新しい手法をどん欲に取り入れてきたのである。

手塚治虫がいなければ、マンガは、今我々が知っているスタイルとはだいぶかけ離れたものになっていたかもしれない。

手塚治虫は、新しいものを作った

私が手塚治虫を尊敬しているのは、まさに「マンガを作った」といえるところである。

前述したように、手塚治虫登場以前と以後ではマンガは大きく様変わりした。

よりドラマチックになり、コマ割りも複雑になった。

それまでのマンガは幼稚で子供の読み物だったものが、手塚治虫の登場により、マンガは多くの世代に読まれるようになった。

手塚治虫は常にどん欲であったのである。

戦争中は、マンガが表だって描けないのでうつうつと過ごしていた。

こっそり描いてはいたが、隠れてマンガを描くのはやはり嫌だったのである。

なので、戦争が終わった時は思わず「やった!」と叫んだそうだ。

周りが日本の敗戦でふさぎ込む中、彼は戦争が終わって、マンガを堂々と書くことができることがうれしかったのである。

その後、人気作家となった後も、彼のどん欲を語るエピソードはある。

石ノ森章太郎がある雑誌で新連載を発表した時、その表現があまりにも革新的だったもので、手塚治虫は出版社に「あれはマンガではない」というクレームを送り、それを見た石ノ森章太郎は、尊敬する御大に否定されたと連載を直後に止めている。

しかし、その後手塚治虫は石の森に謝罪することになる。

手塚治虫がクレーム自体を、おのれの嫉妬からくるものだと認めたからだ。

彼は石ノ森の新しい表現に嫉妬し、頭に血がのぼって「あんなのマンガじゃない!」といってしまったのだ。

その他にも面白いマンガを見つけると「あんなの僕にも描ける」と頻繁に言っていたという。

大御所だというのに、あまりにも嫉妬深く、小心者のように思える。

しかしそこが私には魅力的に感じるのだ。

手塚の育った宝塚

私は宝塚に行ったことがある。

同所には「手塚治虫記念館」があり、手塚治虫の生涯や、作品、その哲学などを知ることができる。

宝塚といえば宝塚歌劇団である。

彼は医者の息子として生まれ、裕福な家庭で映画や歌劇を見て育ったのだ。

宝塚に行けば、手塚治虫の人生を邂逅することができるだろう。

手塚治虫の作品

手塚治虫といえば、代表作はたくさんある。

そのどれもが魅力的で壮大なテーマを持っている。

「鉄腕アトム」はロボットの人権が問われる未来で、アトムが人間とロボットの共存のために活躍する。

「ブラック・ジャック」は無免許の天才医師が、人間の命と尊厳のためにメスを取る。

「火の鳥」はあらゆる時代を舞台として、火の鳥がその時代を生きる人々を時に見守り、時に見放し、時に応援する。

彼の代表作は、どれも生きるものの命と尊厳にかかわっている。

それは彼自身が医者の家に生まれ、自身も医師免許を持っていたことと無関係ではあるまい。

まとめ:太く短く生きた手塚治虫は、あらゆるマンガに生きている

上記のように、手塚治虫がいなければ、現代のマンガは我々の知っているものとはかなり違ったものになっていたであろう。

それほど、手塚治虫が日本のマンガに与えた影響は大きい。

手塚治虫が「マンガの神様」といわれるのは決して大げさではない。

現代のマンガ家は、すべて手塚治虫が作った道を歩いている。

マンガ家を目指す人間も、出版社の人間もそうだ。

マンガに関われば、すべての人間は手塚治虫の後ろを歩いているのだ。

しかし、手塚治虫の本質は、そのマンガ家云々ではない。

マンガ家というのは結局彼の職業でしかない。

彼を偉人たらしめたのは、彼が常に新しいものを求め、それを作り、どん欲に追い求めたスタイルゆえなのだ。

手塚治虫はいささか太く短く生きてしまった感がある。

平成元年に60歳で亡くなっている。

60歳なんて今では若すぎる。

しかし、常に原稿に追われ、マンガに生きた彼には一日は24時間では足りなかったのではないか。

一日で3日分くらい生きていたのではないかとも思える。

そう考えると、60歳が彼のリミットだったのかもしれない。

なんにせよ、彼が残したものは、今もあらゆるマンガを読むことで感じることができる。

今もまだ手塚治虫はマンガの中に生きている。

あらゆるマンガの中に、である。

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