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知里幸恵の生涯と人柄。アイヌ文学伝承の功労者は大いなる時代の逆流にあってなお何を残す

じぇむず
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歴史は地球のビックデータ。
こんにちは。偉人ライターじぇむずです。
今回は知里幸恵を語ります。

 

知里幸恵(ちり ゆきえ)は、北海道では比較的よく知られている女性だが、本州以南ではなかなかそうはいかないだろう。

かくある私もそうだった。
が、初めてその存在を知ったその時から、私の心は躍動し、釘付けとなった。

時代は明治、「富国強兵」「殖産興業」の名のもとに「西洋化」することが合理化とされ、古きもの、小さきもの、異質なるものは、斬り捨てられる対象でしかならなかった。

そんな中にあって、知里幸恵の、絞り出すように生き抜いた19年のあまりに短い生涯。
だが、その刹那に見る美しさ。

どうしてもこの人と共に説明しなければならないのはアイヌのことである。これを契機にアイヌの文化を探求してみると面白い。
あまりに素晴らしい独特のデザイン、謡い、舞踊、どれを取ってもわれらの心に迫るものである。

そして、見てほしい。彼女らが伝えようとした「アイヌ文学」を。

「違い」を知る、「違い」を認める。

我々が失ってはならないものがそこにはある。

日本人の多くの人が当たり前に「単一民族国家」として日ごろ生活しているが、そうではない。
大和人との同化がかなり進んだとはいえ、アイヌ独特の言葉と文化と暮らしが息づいていた。

そこに知る「歴史」。
数千年単位での多数者による圧迫。加害者被害者を越えた歴史のうねりというもの。
人の美醜というものを直視させる。

 

知里幸恵の生涯、人柄

知里幸恵は、本州以南に居住する方には今一つ馴染みのない名かもしれない。が、北海道ではよく親しまれている。まずは知里幸恵の生い立ちから書いていきたい。

明治に生まれたあるアイヌの利発な少女

知里幸恵は、19歳で生涯を終えたアイヌの少女。1903年(明治36年)アイヌの父高吉母ナミの長女として北海道幌別群に生まれる。幼いころ、父が銃で人を誤殺してしまい、その遺族の世話などもあって家計は苦しかった。ただ、生来の利発さもあって、旭川に住む祖母モナシノウクに招かれ、そこから実業学校に通う。

元来、モナシノウクはユーカラクルと言われるユーカラの謡い手、いわばアイヌの巫女のような女性であった。

幸恵の成績は入校後も極めて優秀、「日本語」も堪能。ただ、生まれがアイヌであったことから同級生たちの嫉妬心を焚き付け、種々の嫌がらせを日常的に受け、それをどうにか静かに耐えながら学生生活を過ごす。

金田一京介教授とのめぐり逢いが少女知里幸恵を変えた。

そんな最中に旭川を訪れていたのが後に言語学の大家と知られる金田一京介教授。

京介はアイヌの言語、文化、習俗に強い関心を寄せており、「天才少女」の噂を聞き知って、このモナシノウクの家を訪ねた。

たちまち二人は意気投合。

幸恵は幼いころから父母や祖母らから口述で学んだ『カムイユカラ(アイヌの伝統的な神謡)』を続々と披露。

当時すでに維新以来早約50年の時の経過、アイヌであってもよほどの年長者でなければその言葉を手繰ることもできない。

京介はたちまちその美しい旋律に惹かれ、彼女を類稀なるその伝統の継承者として惚れこむ。

そして幸恵もどこまでも真剣に一語一語を漏らさず書き留めんとするその男の様に甚く感銘を受け、また自分の信じてきたものは確信となり希望となる。

死病にあって、すべてをなげうち帝都へ。その若すぎる身に託された思い

京介に激賞された幸恵は共同研究者として「東京」への誘いを受けるが、祖母らの反対や当時思いを抱いていたあるアイヌの一青年のこともあって上京への踏ん切りをなかなかつけられずにいた。

が、やがて、自分が当時不治の病とされていた「結核」を罹っていたことを知り、病状重くもはや「どうにもならない」と意を決した彼女は青年にも決別を言い渡し、単身東京へと旅に出る。

東京の金田一邸に居候になるも、病状は悪化する一途、さらに金田一家族との関係も必ずしも思わしくないところがあり、ただただ自分の思う「アイヌ文学」の継承にその最後の生を捧げ、生涯を追える。享年19歳。

アイヌの歴史と「維新」と、知里幸恵の人柄

まず、知里幸恵の人となりに迫るに際してどうしても知っておかなければならないのは、「アイヌの歴史」である。
縄文以前から先住していた民族、それが大陸からあまたの渡来があり、先住は追いやられ、混血も進み、南と北に分化される。

よく言われることだが、アイヌと沖縄人は、大和人を置いてDNA的に極めて近似している。

その後時代とともに大和勢力の圧迫により「蝦夷(えぞ)」といわれた民族は着実に北へと追いやられ、さらに北方大陸から渡来したと伝わる「オホーツク人」と交じり合い、その独特に醸成された文化をもって、やがて明治維新を迎える。

江戸期頃から北海道全土におけるアイヌへの搾取はかなり劣悪なものとなっていたのだが、新たに「維新」の名のもとに続々と本土から移民が押し寄せ、アイヌはその居住地を強制的に奪われ、物質的にも精神的にも虐げられてゆく。

彼らの民族は「野蛮」とされ、差別の対象となり、言葉は「日本語」を強要された。

こうしてやるせないままに「アイヌ文化」は急激に衰退を余儀なくされ、そういった中に生まれたのが知里幸恵である。

知里幸恵が語り継いだアイヌ文学「銀のしずく降る降る…」

幸恵が語り継いだ中でもとりわけ有名でまたその素朴ながらも大変に味わい深い文学性を指摘されるのが、これである。

“Shirokanipe ranran pishkan, konkaniperanran pishkan.” arian rekpo chiki kanepetesoro sapash aine, ainukotan enkashike chikush kor shichorpokun inkarash ko

「銀の滴降る降るまわりに,金の滴降る降るまわりに.」という歌を私は歌いながら流れに沿って下り,人間の村の上を通りながら下を眺めると……(続く)」

他にも英雄神ポイヤプンペの叙事詩などと、アイヌならではの口承文学ならではの情趣というのは、今もなお時代を越えて人々の心を揺り動かす。

北の自然と、それに畏敬の念をもって身を預ける人間と、本来大和人にもあった何かというものを思い起こさせる。

「熊送り」という独特の儀式。アイヌでは樋熊(ヒグマ)は地上の神ですから、彼らを殺し、皆で歌と踊りと馳走をふるまい、あらゆる肉を分け合い、毛皮を衣服やソファとし、やがて「清浄なる川」へ送り流すのである。

現代からすると多少野蛮に見えるところがあるかもしれないが、ただ、「人間の躍動」というものを感じないだろうか。

知里幸恵の死後。アイヌと新たなる歴史の風

幸恵の死後、京介は自身の研究を『ユーカラの研究 アイヌ叙事詩』の大著として成就。その後のアイヌ研究の基盤とする。

幸恵の弟でまた秀才と誉れの高かった真志保は京介の下でその研究を助け、やがて意志が合わなかったことで去るが、アイヌで初の北海道大学教授となり、独自にアイヌの言語などを研究し、深化させていった。

やがて、太平洋戦争があり、その後の高度経済成長などの中でアイヌは大和人との同化が進むなどしているが、そういった経緯にまた様々な「アイヌ文化の在り方と継承」が模索されている。

現代の日本人はともすれば「単一民族国家」と考えがちだが、実はまるで見落としていたものがあるようだ。

例えば北方領土問題にしても我々やロシア人がそこに移り住むようになったのはせいぜい百余年、それより何百年も何千年も前からその風と緑と土と水の中で共に暮らしていた人々がある。

「常識」というものはあまりに儚い。

我々は探求せねばならない。

明治の大和人が、アイヌが、京介が、真志保が、幸恵が、追っていたものを見極めねばならない。

そして未来へ……

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