日本の偉人

司馬遼太郎の人柄と文学。昨今批判的な司馬史観。だが、今読み直したい作品がある

九州おやじ
九州おやじ
こんにちは、九州おやじといいます。司馬遼太郎を語ります。

司馬遼太郎に対しては毀誉褒貶(きよほうへん)がある。
とくに最近は、それが著しい。

司馬遼太郎は、過去と現代の日本について言及。戦前の軍国主義や民族主義に対して、辛辣な論評をした。

現代の日本のありように対しても、辛辣だった。

特に地価の高騰について、それに伴う社会と人心の荒廃について、哀しみと怒りをこめて批判、
「愛国」を商売にする愛国屋に対して、厳しい舌鋒を向けた。

司馬遼太郎の青年時代は、その種の愛国屋のばっこした時代だった。

「二十一世紀に生きる君たちへ」という随筆がある。

こども向けに書かれたこの随筆には、説教臭くならないように注意しつつも、「やさしさ」「思いやり」といった平易な徳目が並べられている。

短いながらも力強い誠実さを感じさせる文章である。

この一文を読んだだけでも、この司馬遼太郎という人物が真の愛国者であったことがわかる。

真の愛国者は、絶対に愛国などという言葉を口にしない。

司馬遼太郎の人柄と文学

司馬遼太郎は、往年のベストセラー作家である。

戦後日本を代表する小説家であり、同時に「日本」という国と「日本人」という民族に対して、極めて鋭い批評家でもあった。

本名、福田定一。大阪府生まれ。
ペンネームの由来は「司馬遷に遼に及ばざる日本の者(故に太郎)」である。

産経新聞の記者を経て、「梟の城」で直木賞を受賞。
その後、歴史小説家として多数のベストセラーを世に出した。

代表作に「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「国盗り物語」「坂の上の雲」などがある。

また、「街道をゆく」「この国のかたち」など多数のエッセイもある。

歴史小説家として、日本と日本人を描く

何と言っても、司馬遼太郎の代表作である「竜馬がゆく」を取り上げなければならない。

この作品について語ることが、この人の業績の説明にもなるからだ。

この作品は、青春小説であるという評価がある。

確かに幕末の坂本竜馬が、生き生きと描かれている。
例えるならば、現代の大学生のような存在として活写されている。

昔の人も現代の若者と変わりない存在として描かれ、そのことは、大きな魅力であり、歴史小説にとって画期的なことだった。

しかし、この作品の本質はそれだけではない。

坂本龍馬という人物は、現代の若者のように気楽ではない。
歴史の重みを引きずって生きている。

坂本龍馬は、土佐藩の下級武士という身分を抱えて生きているのだ。

土佐藩の下級武士は郷士とも呼ばれ、戦国時代以来の経緯から、武士でありながら厳しい差別にさらされてきた。

坂本龍馬は、土佐を脱藩して、今でいう貿易会社を企業する。
今でいうベンチャービジネスである。

薩長同盟の周旋でも有名であり、さらに船中八策などから思想家としての評価もある。

縦横無尽の働きをした人のようでありながら、その最後は無残であり、あっけなくもある。

ここに司馬遼太郎という人物の作家としてのありようが表現されている。

司馬遼太郎は、終戦時、陸軍の戦車隊の小隊長だった。

外国語学校の学生だった司馬遼太郎は、当然のごとく軍隊に取られた。
この時代の若者として、否応なく。

日本の戦車は極めて貧弱であり、アメリカ軍との戦闘になれば、なすすべもなく撃破されることは確実だった。

本土決戦のために、関東地方に配された司馬遼太郎は、ただひたすら死のことを考え続けた。

毎日毎日、死ぬことだけを考えて過ごすことは、20代の青年にとって地獄だったろう。

そして、あっけなく終戦の日が来た。

「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう」

「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」

そんな痛切な思いに司馬遼太郎はとらわれた。

そして、司馬遼太郎は「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして」小説を書いたのである。

司馬遼太郎の歴史小説は、歴史というどうしようもない抵抗不可能な軛の中で、もだえ苦しみ戦う日本人を描いているのである。

坂本龍馬もその日本人の一人であり、司馬遼太郎自身もまた、その日本人の一人なのである。

近年における司馬遼太郎に対する否定的評価

ここで、司馬遼太郎の別の代表作を取り上げたい。

「坂の上の雲」は、日露戦争を主題として、三人の明治の青年、
秋山好古、秋山真之兄弟、正岡子規を描いている。

この作品によって、近年の司馬遼太郎作品に対する否定的評価についても語ることができる。

「司馬史観」という言葉がある。

司馬史観

司馬遼太郎自身が使った言葉ではない。
主として、司馬が批判されるときに使われる言葉である。

明治までの日本人は正しく優れていたが、昭和になって日本人はダメになったというような内容の「史観」である。

司馬遼太郎の歴史認識は、このような「司馬史観」によっているというのである。

しかし、司馬遼太郎の小説を実際に読んでみるとわかるが、
このような批判は後になってから取ってつけられたものだと言える。

司馬遼太郎に対する左からの批判

左からの批判としては、明治時代の帝国主義的な政策に対して無批判だなどと言われる。
しかし、この作品は明治の青年たちの青春とその挫折を描いたもの。

物語の前半で、正岡子規は短歌の改革を成し遂げようとして、志半ばで病死する。
結核に侵されて、壮絶な闘病の末の死である。

物語の後半で、秋山好古、秋山真之兄弟は、日露戦争で辛くも勝利する。

兄の秋山好古は、弱体の日本騎兵を率いて、世界最強のロシアのコサック騎兵と戦い。
粒粒辛苦の末にかろうじて、敗北を免れる。

勝利したとはとても言えず、かろうじて守り切ったというのが実情だった。

弟の秋山真之は、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破する。
しかし、激務の心労から精神に変調をきたしてしまう。

この作品のラストシーンは「雨の坂」という章である。

坂道を希望にあふれた青年が登っていくというモチーフの作品にあって、その最後の場面「雨」である。

「雲」を目指していたはずなのに、いつのまにか「雨」である。
哀しみと寂しさのただようようなラストシーンである。

帝国主義の勝利に浮かれ騒ぐような話ではない。

司馬遼太郎に対する右からの批判

右からの批判としては、例の自虐史観というものからの批判がある。
戦前の日本をことさらに卑下しているというわけだ。

確かに、日露戦争を描いたこの作品において、日本の政治家や軍人たちは、基本的には好意的に描かれている。

かなり身びいきを感じさせる部分もある。また、昭和の軍人たちに対する呪いを含んだ怒りと憎しみも随所にある。

しかし、この作品は、未曽有の国難に際して、弱小国家であった明治の日本が悪戦苦闘の果てに勝利をつかむという話である。

日本人の絶望的な状況の中での、努力と献身とが描かれており、むしろ日本人という民族への賛歌とも言える。

司馬遼太郎という作家は、辛口の批評もしているが、実は日本という国にも日本人という民族にも、過剰なほどの愛情を持っていたのである。

司馬遼太郎に散見される心の闇

司馬遼太郎について、ここまで書いてきて、ひいきの引き倒しと思われるかもしれない。

ここで、他の作品も参照して、司馬遼太郎という作家の闇の部分にも言及したい。

司馬遼太郎という人物も決して神のような人ではない。
「司馬史観」などというのは、ことさらに人気作家であり影響力もある司馬遼太郎をおとしめようとするものである。

しかし、その一方で、資料の誤読や偏見あるいは先入観によると思われる部分もその作品には散見される。

前述の「坂の上の雲」とも関係する「殉死」という作品においてそれが顕著である。

この「殉死」は、明治天皇の崩御に際して殉死した乃木希典を描いたもの。

司馬遼太郎のこの作品での筆致は冷ややかである。

この乃木希典という人物を一種の異常な精神構造の人物として描いている。

その描き方には、他の作品に見られる愛情のようなものが感じられない。

他の作品では、例えば北条早雲や斎藤道三のように戦国時代の下剋上をなした武将が、魅力的な人物として描いている。

「坂の上の雲」の中でも、乃木希典は無能な愚将として、悲惨な旅順攻囲戦の責任者として描かれている。

このあたりには、資料の誤読と司馬遼太郎の偏見があると思われる。

乃木希典については、現在でも愚将説、名将説がある。
しかし、実際には、どちらともいえない人物である。

愚将説は、日露戦争後に陸軍士官学校出身の参謀たちによって意図的に作られたものと思われる。

何故ならば、当時の陸軍は薩長閥とくに長州閥の支配下にあった。
乃木希典は長州出身であり、その参謀長は薩摩出身であった。

陸軍士官学校出身者たちは、その後、薩長閥を陸軍から放逐する。
乃木希典への非難は、薩長閥への攻撃の一環だったらしい。

旅順攻撃の失敗の責任を乃木希典一人に押し付けるという意図もあったらしい。

この陸軍士官学校出身者たちが後世に乃木愚将説を伝えたために、
その資料を読んだ司馬遼太郎もその説にしたがってしまった。

そして、司馬遼太郎が乃木愚将説を信じたことの背景には、何らかの偏見もあったらしい。

司馬遼太郎は、他の短編やエッセイの中で、長州出身者に対して酷評している部分がある。

このあたりは、偏見と言わざるをえない。
その偏見がどこからきたのかは不明である。

司馬遼太郎の青年時代に、長州(現在の山口県)出身の人物との間で何らかの不愉快な経験があったのではないかと思われる。

もっとも、司馬遼太郎はその点について明言することなく死去したので、この点は憶測にすぎない。

しかし、長州出身者に対する憎悪がその心の中にあったのは間違いない。
そういう心の闇を司馬遼太郎は抱えていたし、それは作品にも影響した。

司馬遼太郎が遺したもの

司馬遼太郎に対しては毀誉褒貶がある。

社会の右傾化と無縁ではないだろう。
特に戦前の日本を称賛するためには、司馬遼太郎の作品群は邪魔なのだろう。

司馬遼太郎は、晩年には小説よりもむしろエッセイを多く執筆した。

その中で繰り返し、日本の社会について言及した。
戦前の軍国主義や民族主義に対して、辛辣な論評をした。

現代の日本のありように対しても、辛辣だった。
特に地価の高騰について、それに伴う社会と人心の荒廃について、哀しみと怒りをこめて批判した。

これらの司馬遼太郎の発言は、戦前を正当化する人や、バブル景気の再来を願う人には、極めて腹立たしいだろう。

また、長州人に対する非難は、ある種の人たちにとっては、極めて不快なものだろう。

また、愛国心で商売をする人たちも不快だろう。

司馬遼太郎という人は、「愛国」を商売にする愛国屋に対して、厳しい舌鋒を向けていた。

司馬遼太郎の青年時代は、その種の愛国屋の跋扈した時代だった。

「二十一世紀に生きる君たちへ」という随筆がある。

司馬遼太郎が子供向けに書いた随筆であり、「一編の小説を書くより苦労した」と語っている。

「書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。」

と、結ばれている。

こども向けに書かれたこの随筆には、
説教臭くならないように注意しつつも、「やさしさ」「思いやり」といった徳目が並べられている。

この一文を読んだだけでも、この司馬遼太郎という人物が真の愛国者であったことがわかる。

真の愛国者は、絶対に愛国などという言葉を口にしないのだ。

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