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石田三成の生涯・人柄から学ぶコミュニケーション力、嫌われ者な学級委員長!

中丸ゆみ
中丸ゆみ
お仕事、人生で悩める大人の皆さんへ。こんにちは。偉人ライターの中丸ゆみです。嫌われ者な学級院長タイプ、石田三成から学ぶコミュニケーション能力の重要性をお伝えします。

関ヶ原の戦いで敗戦したことで有名な石田三成。彼は生真面目な学級委員長タイプであり、コミュニケーション能力が欠如していたが故に嫌われ、嫌われたせいで人生の最期を迎えることとなってしまった。

コミュニケーション能力が重視される現在。

なぜコミュニケーション能力が重要なのかということを三成の人生が教えてくれる。

正義感にあふれ、ひとりの主人に絶対の忠義を尽くした熱く、賢い男、三成。彼の真面目すぎたが故に結果的に損をすることも多かった不器用な生き様は、自分に被るように思えて共感を持てる。

また、彼のような一本筋の通った人間には憧れる。

動乱の時代である戦国時代。

その中心人物である豊臣秀吉の右腕だったためか、多く残っている逸話には彼の真面目さ、優しさ、熱さを窺い見ることができる。

その逸話から、不器用で一生懸命だったからこそ、彼を支えようと傍にいてくれた人物がいたことを知り、誠実に生きていれば、理解してくれる人がいるという勇気をもらうことができる。

石田三成の生涯・人柄

真田丸で山本耕史さんが演じたことで最近は話題にもなった石田三成。

1560年に滋賀県に生まれ、1600年の有名な関ヶ原の戦いで敗北。

大将だった石田三成は戦場からの逃亡中に捕縛され、関ヶ原の戦いが起きた同年に六条が原で斬首されている。

天下統一を目指し、あらゆる武将たちが戦を繰り返す時代に生まれた彼は、頭の切れる賢い男だった。

幼少期、三成が小姓をしていた寺に長浜城主となった豊臣秀吉が訪れた。

三成は一杯目はぬるいお茶をたっぷりと。

もう一杯要求された二杯目には少し熱めのお茶を多めに。

そして、更に要求された三杯目にはとても熱いお茶を少量だけ。

三成は秀吉が効率よく喉の渇きを潤すことができるよう、計算してこのお茶の出し方をした。

これを気に入った秀吉が三成を召し抱え、ただの寺の小姓だった三成は賢い頭を使って出世街道を歩みだす。

そんな彼が斬首されるに至ったのは、コミュニケーション能力が低かったことが理由だと考えられる。

世は動乱の戦国時代。

刀や槍をふるって、いかに武功をあげるかを競い合っていた武将たちの中で、ただ頭がいいというだけで秀吉にかわいがられる三成はたいへんな嫌われ者だった。

そのため、彼が起こした最も有名な戦。

関ヶ原の戦いでは、彼を嫌った武将たちが敵方に回る、多くの裏切り者が出るなどの事態が起こり、長期戦が予想された天下分け目の戦いは半日で終了してしまったのである。

魅力がわかりにくい男・石田三成

三成は頭はよくても、コミュニケーション能力には乏しい男だった。

学校で例えるなら真面目すぎて嫌われる学級委員長タイプである。

三成が嫌われていることが顕著に表れているエピソードが関ヶ原の戦いの前。

豊臣秀吉の死後でバタバタと落ち着きのなかった時代に起きた武断派の武将たちである加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明らの七将による、三成がいる大坂屋敷への襲撃事件だ。

三成は事前に彼ら攻め入ってくる情報を入手しており、対立していた徳川家康の元に逃げ込むという斬新な手段で逃げ延びている。

仲間である武将たち。

それも七人から攻め入られるなんて、よほどの嫌われ者であることがうかがえる。

三成が嫌われることになったのは、彼が真面目すぎたことが原因のひとつだ。

秀吉に毛利輝元が季節外れの桃を献上したいと持ってきた際には「見事な桃だが時季外れ。秀吉様が召し上がって体調を崩しては一大事であるため、時期にあった献上物にしてくれ」と言って突き返してしまった。

正直にはっきりとものを言う生真面目なこの性格が災いして、彼はどんなに正論を言っていようが「秀吉の威を借る狐」と嫌われることも多かった。

だが、そんな三成の生真面目で賢く、素直にものを言うその性格を気に入って最期までともに居てくれた人物もいる。

その筆頭として有名なのが、大谷吉継と島左近だ。

ハンセン病という皮膚がただれる病だった吉継は大きな茶会で茶碗の回し飲みをしていた際に、顔から垂れた膿を茶に落としてしまった。

当然それを目撃していた後に続く諸侯たちは飲むふりだけをして、茶碗を次に回していく。

だが、正義感あふれる三成だけは違った。

突然立ち上がった彼は「喉が渇いたので、先にいただきたい」と申し出て、膿が入ってしまった茶碗の茶を一気に飲み干したのだ。

吉継はそのときの三成の行動に感激し、堅い友誼を誓い合い、その後の関ヶ原の戦いでもともに戦ってくれた。

しかも、裏切りの可能性があり、実際に裏切った小早川家と本陣の間に陣取ったことから考えても、吉継が三成を本気で守り抜こうとしてくれていたことが窺える。

三成の右腕と称されたのが鬼の島左近だ。

三成は島左近のことを叔父のように慕っていたという。

当時四万石で秀吉に召し抱えられていた三成は左近に出会うと、彼を部下にしたいと懸命に口説き、録の半分。

つまり、二万石を与えると言って左近を召し抱えた。

三成のような武将が二万石で誰かを召し抱えことるなど当時はありえない。

三成は左近の能力を評価し、相応の対価を支払おうと考えたのだ。

そこまで評価されて嬉しくない男はいないだろう。

左近はその後、三成に忠義を尽くして仕え、関ヶ原の戦いで彼が発した「かかれ!」という号令を聞いた者は戦後も夢でその声を聞いて飛び起きたと言う。

三成の悲願を果たそうと奔走し、鬼気迫る号令の声をあげ、彼は戦場から逃亡する三成の背中を守って戦死した。

コミュニケーション能力が低かった三成は、彼の持つ真面目で義に厚く、情熱的で、時にやさしく、ダメとはっきり言うことができるなどの彼の魅力を自身で全く伝えることができていなかった。

その魅力に偶然気づいた者のみが、彼に惚れこんだのではないだろうか。

石田三成は損な役回り故に嫌われた?

彼がとことんまでに嫌われる原因となったのは、その性格も原因だったが、朝鮮出兵での損な役回りも大きな原因といえる。

秀吉は天下統一後、朝鮮をも征服しようと兵を出した。

三成はその出兵時、前線で凄惨な戦いを切り抜けていた武将たちと何も知らないまま日本で過ごす秀吉との連絡係だった。

頭がよく、計算ができる三成が兵糧などの管理をするその役目につくことは当然なのだが、戦地が日本ではない。

武功をあげても簡単に領地を広げてもらえるわけでもなく、兵糧も少ない厳しい戦いの中で心身ともに疲弊していた武将たちから。

彼らからすれば、賢いというだけで前線にも出ずに秀吉の傍にいられる三成は目障りで仕方なかったはずだ。

更に、真面目な学級委員長タイプである三成は律儀に、そして忠実に武将たちの悪事も秀吉に報告。

チクられた武将たちは当然怒り、「あいつの言ったことは嘘だ!」と騒いだが、秀吉は賢い三成の意見を採用するため、余計に怒りを買うことになった。

だが、これも高いコミュニケーション能力があれば「あいつに悪気はないんだ」と理解してもらうことができたかもしれないし、うまく立ち回れば嫌われることもなかったかもしれない。

損な立場な上、持ち前の頑固さがマイナスに作用してしまった結果、とことん嫌われ、死に追いやられることとなってしまった。

石田三成ゆかりの地を訪ねるなら

忠義に厚く、最後まで秀吉ただひとりに仕えた三成。

そんな彼の居城を訪問するなら気を付けなければならないことがある。

三成が居城としていた佐和山城。

名の通り、山に建てられた城は堅実で金銭管理にも厳しかった三成らしく、外敵対策はすさまじいものであったが、城内は何の塗装も施されていない土壁だった箇所もあったと言われている。

そんな佐和山城は現在城址が残っているのみとなっているが、2012年夏にその城址を訪れた女性が遭難している。

無事に下山できているためよかったが、城址もあり滋賀県彦根市の観光地ともなっているが、山は山。

佐和山は小さな山ではあるが、道は狭く、滑りやすい箇所も多い。

訊ねてみる際には、観光地と侮らず、きちんとした装備で挑んでほしい。

まとめ:石田三成を教訓に

正義と忠義に生きた男、三成。

彼は嫌われ者であり、秀吉の懐刀だったため、多くの人間の目に留まることも多かっただろう。

そのためか、彼の逸話は非常に多い。

その逸話が凝縮され、更に彼の義にあふれる性格を濃厚に演出しているのが司馬遼太郎著の「関ケ原」だ。

彼の魅力をより深く味わいたいという方は一読をオススメする。

どんなに真面目に仕事をこなしても、周囲から嫌われては元も子もないということを三成は教えてくれている。

コミュニケーション能力が重視される現在。

三成の嫌われぶりを教訓に、うまく立ち回れる人間になりたい。

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