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武田信繁の生涯・人柄・名言から学ぶ!信頼を得る方法と優れた上司として持つべき信条

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どうもmendyと申します。日本史・世界史共に過酷な時代を生きた偉人達の生き様にふれるのが好きで、休日はよく史跡などに足を運んでいます。今回は有名な武田信玄を支え、「まことの武士」といわれた武田信繁(たけだ のぶしげ)を紹介します。

武田信玄を支え「まことの武士」といわれた武田信繁

武田信繁は、武田信玄の弟であり、戦国時代最強と言われた武田軍の副将を務めた人物である。

武田二十四将の中でも副将として描かれ、「文あり、武あり、礼あり、儀あり」と当時から称賛された名将だった。

信繁が家臣との関係について書いた「武田信繁家訓九九箇条」は、江戸時代にも語り継がれた家訓であり、現代の社会で戦う将に、是非知ってもらいたい名文だ。

そんな信繁から学ぶべき事柄をまとめてみよう。

  1. 常に驕らず、礼を欠かかさない事で得る信頼
  2. 部下に対する上司の心得
  3. 兄(信玄)の片腕として、組織の2番手としての手腕

武田信繁の生涯と人柄

武田信繁の生涯

信繁は1525年、甲斐(現在の山梨県)で、武田信虎の子として生まれた。
母は晴信(後の武田信玄)と同じ大井夫人で、晴信とは4歳離れている。
晴信が父・信虎を追放し、家督を継いでからは晴信に従って補佐役を務めた。

晴信が体制を整えて北信濃に侵攻を始めると、信繁は高遠氏や大井氏、藤沢氏などの有力な敵勢力を次々と降伏させる。
占領した地域の統治や、近隣諸国との外交も担い、副将として武田家中でも幅広い役割を担っていた。

1551年には、砥石崩れと呼ばれる武田軍の数々の名将が討死した砥石城を陥落させ、信濃における武田氏の影響力を決定的なものにした。
これにより、越後(現在の新潟県)の上杉謙信は武田氏を脅威に感じ、武田氏と上杉氏の長い戦いが始まることとなる。

信繁は北信濃の統治にあたり、川中島の戦いを含む上杉軍との戦いにおいて指揮官の役割を担うが、
1561年9月10日、第四次川中島の戦いで上杉軍と激闘の末、討死した。

武田信繁の人柄

信繁は文人としても優れた才能を持っており、公卿が訪れた際には和歌を詠み、平時には「論語」といった中国古典を読んで教養を深めていた。

嫡子信豊にのこした「武田信繁家訓九九箇条」は家臣との関係について「家中の郎従(部下)に対して、慈悲の心が重要である」「家来の者が病気で苦しんでいる際は、たとえ手間がかかっても、心をこめて指図を加えてやりなさい」「臣下の身を、自分が喉の渇きのように思うこと」といったように、慈悲を施すことが人の上に立つ者の務めで、人に対して大切に思っている事を伝える事が大切であると説いている。

これらの事からわかるように、信繁は「文あり、武あり、礼あり、儀あり」と評された言葉通りの人物であり、過酷な戦国の世においては珍しい将だったといえるだろう。

「武田信繁家訓九九箇条」は後世においても武士達に読まれ、信繁について「まことの武将」といわれる程人気であった。
信繁の評価は当時においても高く、信繁が討死した際は敵側であった上杉謙信も、その死を惜しんだといわれる。

武田信繁の信条・名言から学ぶ!

驕らず、礼を欠かさない事で得る信頼

父・信虎は嫡子である晴信を差し置いて信繁を寵愛し、信繁を跡継ぎにしようとしていた。

これはお家騒動に繋がりかねない危険な行為であり、織田信長や伊達政宗も、家督を継ぐ際に兄弟を殺害している。
しかし、信繁は父から寵愛を受け、そそのかされても兄・晴信の才能を見抜き、驕らずに礼を欠かさなかった。

その結果、晴信は信繁を信用する事ができ、兄弟間での争いが無かったのである。

もしも信繁が信虎の寵愛を受けて、「もしかすると自分が武田の跡継ぎにふさわしいのかも」「兄よりも自分のほうが優れている」といったように驕りを覚えていれば、晴信に対する態度に必ず影響が出ていただろう。

そうなると「表面上では取り繕っていても裏切るかもしれない」と感じて晴信は信繁の事を信用できなくなる。
信繁が驕ることなく一貫して兄をたて、礼を欠かさなかったからこそ得られた信頼といえよう。

現代においても、驕らずに礼を欠かさない事は信頼を得ることに繋がる美点となる。

「武田信繁家訓九九箇条」誠実な態度や気持ちは必ず伝わる

武田信繁が残した「武田信繁家訓九九箇条」は、慈悲を施すことが人の上に立つ者の務めで、人を大切に思っている事を伝える事の重要性と説いている。

ここで重要なのは、これは「表面上を取り繕えばいい」という事ではないという点だ。

上司の言葉遣いや態度を部下は繊細に感じ取るものであり、表面上だけでは必ずほころびが出る。
逆に優しさであろうと厳しさであろうと、その人の事を本当に大切だと思っているのであれば、自然と行動を通して人に伝わるという事だろう。

武田信繁の名言

武田信繁の名言をいくつか紹介しよう。

  • 武人にとって最も大切なことは、弓や馬に対する常日頃の心がけである。『論語』に、「わが道でないところにかれこれと手を出して、肝心の己が大道をなおざりにすることは、害ありて益なし」といっている。
  • 常に功労がなくて立身することは難しいものと覚悟しなくてはならぬ。
  • 人々から意見されたとき、これに逆らうようなことをせず、十分反省すべきである。古語にも、「良薬は口に苦し」といって、病に効能のある良薬が苦くて飲みにくいように、忠告も自分にとって得があるが、苦々しいものであるということを説いている。
  • 『大公』に「ふたばのうちに絶たねば斧を用いるようになる」という言葉があるとおり、物事は初期に処置しなくては、ついにますます生い茂って後には困難するようになるものだと、樹木にたとえて戒めている。

どれも現代に生きる我々としても参考にしたいものばかりではないだろうか。

敵側上杉謙信にも惜しまれた武田信繁という人

信繁が討死した際、信玄は信繁の遺体にすがって涙し、敵側である上杉謙信もその死を惜しんだ。
また、信玄の近習として仕えていた真田昌幸は、信繁の武徳にあやかろうと、自らの息子に「信繁」と同じように名付けている。
真田信繁とは、後に大坂の陣などで活躍する真田幸村の事である。

多くの人から称賛された信繁だが、もし彼が後世も含めて称賛された事を知ったらどう感じるだろうか。
きっとそれでも驕らずに謙虚でいるのだろう。

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