日本の偉人

上杉治憲から学ぶ!真のリーダーとしての心構えと折れない心

こんにちは。 私は在宅で記事作成受注のお仕事をしている猫村希苑です。 学生時代は美術館学芸員を目指して勉強していました。 今でも美術鑑賞、ワークショップに参加することが好きです。 そんな私が今回ご紹介したい偉人は、江戸時代の米沢藩主「上杉鷹山(上杉治憲)」です。その生きざまから真のリーダーシップ、折れない心の持ち方についてまとめました。

 

上杉鷹山[ようざん](上杉治憲[はるのり])イントロダクション!

上杉治憲は、現代の価値に換算すると200億円という先祖代々の借金を一生涯かけて完済させた人物だ。

律令制の時代、民から年貢を搾り取るような政治は改革が必要と考え、藩主自らが先頭に立って田畑を開墾し、質素倹約に努め、社会的弱者であった高齢者や障害者、女性や子供でも出来る産業を起こし、民に食べさせるだけでなく働く喜びを与えた。

性格はひょうきんでお調子者という面もあったが、人の話を素直によく聞き、勉強熱心であった。

借金完済と民を食べさせるには何をすればいいのか常に考え、結果を出すために必要な行動を惜しまなかった。

上杉治憲の魅力は、隷属的な関係で得る権力ではなく、同じ信念を抱き生きることを共感する関係を築きながらリーダーシップを発揮したところ。

現代の親子関係、上司と部下の関係でも学びたい、上杉治憲の人づくりの3つの視点だ。

  1. 藩主という立場だからこそ、率先して民に今後の働き方の方向性と労働の喜びを共感すること
  2. 身体的、知能的能力に差があってもだれ一人切り捨てず、その人に合った仕事を与え社会参加と達成感を与えたこと
  3. 古い慣習にしがみつき、クーデターを起こし、民を顧みなかった家臣には厳しい処分を下し、お人好しで優しい藩主ではなく、民の命を預かる責任ある立場で判断を下せる変革型リーダーシップ

では、詳しくご紹介しよう!

 

上杉鷹山(治憲)の生涯と人柄

1)上杉鷹山(治憲)の概要

1751年9月9日に現在の東京にあった武家屋敷で日向国高鍋藩6代藩主の次男として生まれ、1822年4月2日山形県で亡くなる。

母方の祖母が米沢藩の第4代藩主上杉綱憲の娘だった縁から8代藩主上杉重定の養子になり、米沢藩立て直しのために10歳から藩主としての教育を受け、19歳で米沢藩9代藩主となった。

上杉治憲が生きた江戸時代中期から後期は徳川幕府への参勤交代が藩主に義務付けられ、士農工商などの身分制度が明確な社会。

政治的な武家同士の付き合いのため、豪華絢爛な大名行列や贈り物をしあっていた。

しかし、収支を詳細につける習慣はなかった。

そのため、財政難に陥っている藩主は少なくなかった。

そんな中、飛びぬけて米沢藩が貧乏だった理由は初代藩主上杉景勝から始まる。

関ヶ原の戦いで敗れた石田三成と親しくしていたことで徳川家康から疎まれたことが大きい。

120万石から30万石減らされ、江戸から離れた米沢へ追いやられたのだ。

更に財政を悪化させたのは、収入が激減したにもかかわらず武家同士の付き合いや行事を減らさず、家臣への情からリストラもしなかったため、借金を抱えていくことになる。

上杉治憲が藩主となった時、代々受け継がれた借金と利息は現代の金額で200億円に達していた。

上杉治憲は1767年、大倹約令を発して、今までの藩主ができなかったリストラを実行し、自らも木綿の下着を着用し、食事も一汁一菜の倹約に努めた。

そして収支の詳細を帳簿に付け、「会計一円帳」を作成。

誰も知らなかった実際の借金額、収入と支出を明確にした。

収入を増やすことが必要と考え、1772年、古代中国の籍田の礼を模し上杉治憲自らが最初に鍬を入れて開墾し、その後1万3千人の武士を総動員させて耕し、収入を30万石から51万石に増やすことに成功する。

リストラの実行、律令制を無視した武士の農作業に対して一部家臣からクーデターを起こされるも、下級武士や農民の支持を得て、若干23歳の若さで藩主として首謀者と黒幕を処刑し、加担した上級武士を隠居させた。

勢いがついた改革は次に殖産興業を起こす。

女性と子供でできる養蚕と機織り物、障害のあるものや高齢者には負担の少ない錦鯉の養殖業を与えた。

この他に和紙、製塩、製陶、木彫りの工芸品も興した。

その際、誰もがやりやすいマニュアル化した作業方法を指導した。

1775年大阪の商人から利息なしの借金をして蝋燭づくりの資金を得て漆、桑、楮の植樹を行い、原料を収穫、蝋燭製造販売、6,700両の収益を得た。

ところが、西日本でハゼから作った安い蝋燭が出回り、米沢藩の蝋燭がすぐ売れなくなる。

この失敗から、養父の実子へ家督を譲り改革に専念する。

1776年、「学問は国を治めるための根元」という考えを実行し、藩校「興譲館」を創設。

政治や経済に役立つ「実学」を家臣の子弟に無料で学ばせる。

1782年から1788年の大飢饉が日本各地で起きた時、米沢藩では一人の餓死者仕事を求めて江戸(東京)に移り住む出羽の国(山形)出身者もいなかった。

それは、米沢藩内の民を養える備蓄米を上杉治憲が政策として行っていたためである。

大飢饉の経験から米沢にある動植物82種類を食材とした場合の特徴と調理法を記した「かてもの帳」を1802年に1575冊発行、藩内で配布した。

上杉治憲は1822年に亡くなるが、翌1823年米沢藩が抱えていた借金と利息はすべて完済する。

2)上杉鷹山(治憲)氏の人柄

ひょうきんでお調子者な一面があったが、人の話を素直によく聞き、勉強熱心だったと言われている。

幼いころから民の苦労を知り、自らの立場で学び、何ができるか考えられる人格に育てられていた。

成人した上杉治憲は、何かうまくいかないときは、まず自分から動き、賛同してくれる人間の輪を広げていく、そんな人物だったと言い伝えられている。

 

上杉鷹山(治憲)から学ぶ3つのこと

1)理想や考えは押し付けるのではなく人の心に浸透させる

「種火の隣に炭を置けば隣に火が移り、燃え広がる。

これによって活気が広がる。」

上杉治憲が19歳で米沢藩藩主になるため籠に乗り米沢に向かう道中での言葉。

家臣が炭に火をつけて暖がとれるようにしようとしたとき、財政難の米沢藩を考えた上杉治憲が、

むやみに炭を焚かずに、種火一つの周りに炭を置けば、時間がかかってもその火は自然と燃え移り暖が取れる

と諭した。

この時、若輩者で米沢生まれではない自分が行う改革が時間がかかっても家臣や民の心に受け入れられるまで揺れることなく辛抱強く待つ気持がくみ取れる。

 

2)すがりつくことも恥とは思わない強いリーダー

「稼ぐに貧乏追い付かず」

失敗に終わった蝋燭産業でしたが、大阪商人へ藩主であり領地の殿様であった上杉治憲が、「自分は貧乏だけれど民を養うために利息なしで借金させてほしい」と手紙で懇願した言葉の一部。

城の外から出ることがなく、大名行列は豪華絢爛な藩主が当たり前の時代で、自分よりも格下である商人に見栄を張ることなく「貧乏だから助けてほしい」と拝み倒す潔さは、他人を見下さない心が読み取れる。

利益は出なくても、商人にとっては地方藩主へ手を貸すことで誇らしいことと、その土地の民の役に立てた達成感はあったのではないだろうか。

リーダーとは上に立って指示命令するだけでなく、円滑な人間関係のパイプ役になることで多くの人間に利益をもたらす役割も担うもの。

人を見下していてはできない。

3)悩むより行動、やるからには結果を出すための折れない心

 

「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬ成りけり」

 

上杉治憲の有名な言葉。

「どんなことでも強い意志を持ってやれば必ず成就する」というやる気が何よりも大切だという意味。

この言葉は武田信玄の「為せば成る 為さねば成らぬ成る業を 成らぬと捨つる人の儚さ」を言い換えたと言われている。

意味は「強い意志を持って取り組めば必ず実現できる。

しかし、取り組まなければ何事も実現できない。

最初から無理だと諦めてしまうところに、人の弱さがある。」

やる気がないばかりに出来ることも諦めがちな人の本質を説いた。

米沢藩の借金返済を藩主として実現するために、失敗があってもその都度希望を見出して目標達成のために諦めなかった。

その折れない心は、米沢藩で生きる民と希望と目標を共有して、藩主と民が仲間として絆を深めたことが、人の本質である弱さを上回った力になったからではないだろうか。

 

上杉鷹山(治憲)ゆかりの地・観光地

世界的に有名な1789年のフランス人権宣言よりも少し前の1785年、上杉治憲が家督を養父の実子に譲った際に申し渡した藩主の心得「伝国の辞」で民の権利について上杉治憲氏が説いた内容について紹介したい。

 

「一、国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我(藩主)の私物ではない。

一、領民は国(藩)に属しているものであり、我(藩主)の私物ではない。

一、国(藩)・国民(領民)のために存在・行動するのが君主(藩主)であり、“君主のために存在・行動する国・国民”ではない。

この三ヶ条を心に留め忘れることなきように。」

 

律令制を重んじた政治が、民を搾れば搾るほど油が良く出る「ゴマ」という認識だった時代、上杉治憲は「伝国の辞」で民は借り物であり、より良いものとして元の持ち主に返すものだと説いている。

また、自分は民の父親や母親という立場であると考え、民を食べさせ富ませることに尽力した。

江戸時代中期から後期の時代には大変稀な考えであった。

「伝国の辞」の3か条が、火種となり多くの民にじわじわと燃え移り、政治改革を成功させ借金完済を実現させた。

また、大飢饉の経験を生かして1802年に発行した「かてもの帳」は昭和16年、活字を書き換えて戦時中再度配布され再び米沢市民の食糧難救っている。

上杉治憲のともした種火は、伝統工芸品のお鷹ポッポや特産品の米沢織の他に、今でも米沢に住む人が互いを敬い助け合う心の中で燃え続けている。

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