日本の偉人

「小泉八雲」の生涯・人柄から学ぶ!洋の東西を経めぐった流転の文化人による数奇な一生

racoondog
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こんにちは。偉人ライターのracoondogです。今回は私が大好きな小泉八雲です。

小泉八雲は、非常に感受性の優れた人で「日本」のよさをいち早く、しかも的確に見つけ出した外国人である。

今でも「日本人よりよく日本のことをわかっている外国人」をたまに目にするが、まさにその先駆け。

内にいてはなかなか内のことはわからないもの。

しかも当時は文明開化の真只中、日本の「原風景」は急速に失われていっていた。

彼は「西」と「東」の境目でその生を受け、ヨーロッパからアメリカへわたり、さらに日本へ。

まさに洋の東西を渡り歩いた人物。

しかも家庭の不遇などから一時は物乞い同然にまで身を落としましたが、どうにか彼なりの勤勉さ、篤実さなどで素養を高め、感性を研ぎ澄まし、「日本」というのはいわば彼の人生の集大成である。

元日本にあった「潔さ」「相互扶助」「自然への畏敬」「武士道」など、当時も廃れつつあったものが彼の著述にはあまりにありありと生々しいまでに描かれている。

そこに見る「日本の美」いや、「人間の美」「自然の美」といったものに今一度触れてみるのも悪くないだろう。

小泉八雲の生涯と人柄

洋の東西を経めぐった流転の文学、教育者。その数奇な人生

「東」と「西」の境目で生まれたその人生の始まり

小泉八雲は、1850年現ギリシャ領レフカダ島で英軍医チャールズ・ブッシュ・ハーンと地元の令嬢ローザ・カシマティの駆け落ち同然の恋の間に生まれる。

小泉八雲の英名パトリック・ラフカディオ・ハーンのファーストネーム「パトリック」は彼の洗礼名。

ただ、小泉八雲は近代化された欧米文化をひどく嫌っていたため日本ではこれをあまり用いない。

「ラフカディオ」は小泉八雲の生まれたレフカダ島にちなんで。

そして「ハーン」家はアイルランド・ダブリンに脈々と続く名家であった。

間もなく、ローザは幼きハーン(小泉八雲)を連れてダブリンに移り住む。

が、父チャールズは軍医の任務で世界中を転々。

馴れない北国の風土、言語も全く通じることなく、母ローザは無聊のうちに神経衰弱となってゆき、単身故郷レフカダ島に変えることを決心。

ハーンは父方の大叔母ブレナンに養われる。

ちなみにこの頃のハーンは食事中テーブルの下に隠れて悪さをするという意外な悪戯好きな一面があった。

無聊な家庭環境下にあった彼なりの寂しさの表現だったのだろうか。

ローザはダブリンに帰ってくる様子は全くなく、チャールズはこれ見よがしに三下り半を突きつけ、密かに意を通じていたかつての恋人と結婚。

ハーンはこの父のことを終生非常に嫌悪しており、「ほとんど優しくされたことはなかった」と記憶している。

それに対してどうしたことか非常に母思いで、彼はこの頃の母性像を終生追い続けることになる。

ハーン(小泉八雲)最初の心霊経験「顔なしジェーン」

なお、この頃、ハーンは自邸である奇怪な現象に遭遇している。

家政婦がどうしたことかその日振り向いた時顔がない。

「のっぺらぼう」のようにただじっとこちらを向いている。

それからほどなくしてこの家政婦は亡くなったという。

キリスト教的な生き方にどこまでも叛骨的なその少年時代

長じたハーンは地元のカトリック系寄宿学校に預けられる。

が、ただ厳しく言いつけられ何の疑問もなくすべては「神」として日々片づけられるその生活がハーンにはどうしてもあわなかった。

ことごとに反抗するようになり、ある時はわざと「今の僕の望みは女の子を好きなことをすることだ」などと教師の前で平然と言ってのけたりしていたようだ。

失明、そして、破産……。ハーンのその遥かなる「流転」の人生はこうして始まった。

15歳の時「ジャイアントストライド」という遊具で遊んでいて、その縄目がハーンの左目を直撃、失明する。

ちなみに彼はその瞳を恥じ、写真には常に左向きで写っている。

ハーン16歳の時、既に父は病死しその後見役となっていた大叔母ブレナンが事業化に騙され破産。

ここからがハーンの激動「流転」の人生の始まりである。

「自由の国アメリカ」をなけなしから生きる

ほぼ単身なけなしの状態で移民船に乗り、アメリカへ。

ニューヨークから遠縁を頼って汽車に乗るも行き着いた先では厄介者。

屈辱を感じたハーンはなんとかシンシナティで物乞い同然から仕事をはじめ、やがて地元新聞社の記者になる。

そうしてる間にもよほどの勤勉家で向学心の塊であるハーンはわずかな仕事の合間を見つけては図書館に通いつめ、あらゆる分野の書物を片っ端から読破し、独自の素養を身に着けてゆく。

ちなみにハーンはこう言っている。

「蟻こそが最高の生き物だ」

お人好しのハーンはその一方である独り身のクレオール女性と結婚するも間もなく破綻、さらには「不景気屋」なる食堂をなけなしの資金から開業するも共同出資者に持ち逃げされる。

ハーンは後に、

「あの頃の私は本当に本能のままに生きていた。以後、私はこういう自分を厳しく律すべき大変な鍛錬を要した」

と語っている。

新聞社を転々、南部のニューオリンズに移り、やがてフリーとして西インド諸島マルティニーク島を訪れ、その自然さながらの文化に感銘を受ける。

アメリカに戻ると、今度は当時まだ維新となって間もない「日本」に仕事の口を見つけただちに汽車に乗り、太平洋を渡ってこの国へ到来する。

そして「日本」

小泉八雲旧家

横浜から松江に入り、そこで紹介された松江尋常中学校(現松江北高校)の英語教師に就任。

まだ「開花」の色に染まらぬ松江の風情がよほどハーンにあったのだろう。

彼はここで多くの同僚、教え子などに恵まれ、「原日本」の美しさに惚れぬき、ついに生涯の伴侶「節」と出会い、結婚する。

ハーン40歳。

が、ここで落ち着かぬのは生来の「流転」の血が騒ぐのだろうか。

「松江の冬は殺人的に寒すぎる」

として、知人を通じて熊本に転居。

火鉢と着込み以外になんらの防寒のなかった当時の日本は西洋人には相当こたえたようである。

が、熊本とは人とも町とも折り合えず、人知れず手紙などで「ぶうたら」こぼしていたようである。

教師連からは厄介者の村八分状態。

ただ、生徒たちには非常に支持されていたようである。

次に神戸に移転。

そして、次は東京。

東京帝国大学文科大学の英文科講師となる。

授業は生徒たちに大変に評判。

それをよく表したある生徒の感想をここに。

「やがて胸のポケットより虫眼鏡様の一近眼鏡をとり出て、之をその明きたる一眼に当てゝ、やゝさびしく、やゝ羞色あり、されど甚だなつかしき微笑を唇辺に浮べつゝ、余等の顔を一瞥されし時は、事の意外に一種滑稽の感を起さゞるを得ざりき。

突如その唇よりは朗かなれど鋭くはあらぬ音声迸り出でぬ。英文学史の講義は始まれる也。

出づる言葉に露よどみたる所なく、洵に整然として珠玉をなし、既にして興動き、熱加はり、滔々として数千語、身辺風を生じ、坐右幽玄の別乾坤を現出するに及びて、余等は全然その魔力の為めに魅せられぬ。

爾来三年の間余は一回としてその講義に列するを以て最大の愉快と思はざるはなかりき」

小泉八雲の人柄に迫る


小泉八雲記念館

大学側の一方的なやり方に立ち上がったのは……

私も彼の講義録なるものをいくらか目を通したが、非常に「マメ」、「系統だって」いて、一切の「手抜かり」を感じさせない。

イギリスの古代から当時までのあらゆるめぼしい文学を掘り起こし、それを「単位と出世だけ」目当てでまだ「基礎的な英語もまともに喋れない」ような水準の学生ら相手に施していた。

やがて、もう「お雇い外国人はいらない。教師は日本人だろ」と、いきなり手紙でクビをたたきつけられ、本人は烈火のごとく激怒して学部長室に詰め寄ったもののどうにもならず、一年浪人の後に当時まだ建学精神に燃える早稲田へ。

ちなみにこのクビ騒動を聞きつけ、いち早く結託して留任運動を起こしたのはほかならぬ彼の教え子たち。

その中には後の世に実業家、歌人として名をはせた川田順、日本近代演劇の火付け役ともなった小山内薫などが含まれている。

早稲田においても北原白秋、若山牧水、石橋湛山といった大変な逸材を教えていた。

ちなみに帝大でハーンの後任として教壇に立ったのがあのイギリス帰りの夏目漱石。

よほど生徒らは前任が恋しく、この後任が小癪に思ったようで、当初はかなり苦労したようだ。

実際漱石がここの教師に就いて半年ほどで一人自殺者が出ている。

「藤村操の巌頭之感事件」

日本中で社会現象にすらなっている。

が、どうにか彼なりの洗練された英語術でやがて生徒らも慰撫されていったようである。

彼も書生なんかには結構面倒見はいい。

小泉八雲の晩年

日本を愛し、日本に没する

やがてハーンは日本に帰化。

妻節の家系から姓は小泉、名は八雲と名乗る。

この八雲は神代にスサノオノミコトの

「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る」

という歌に由来するといわれる。

無論、スサノオノミコトは出雲の国に由来が深い。

54歳にその代表的著作『怪談』を著す。

その年の9月狭心症で発作を起こし世を去る。

子に長男一雄、次男巌、三男清、長女寿々子。

彼は急速に近代化されつつあった当時の日本に何を思ったのだろうか。

小泉八雲は、小ささ・弱さ・美しを愛した生涯・人柄だった

小泉八雲はその生い立ちから「小さきもの」「弱きもの」を非常に慈しみ、愛した。

そして、「美しいもの」これに徹底的にこだわった。

小泉八雲の性質を如実に顕すエピソードがある。

大久保に住んでいた頃、家の裏の瘤寺に立派な杉の木が生えていた。

だが、それが邪魔になり、金になるというので住職が切り倒そうとしていた。

八雲は普段からその杉を大変愛でていたので、それを見とがめて「なぜそんなことを」とやめさせようとしたが、住職はやめない。

八雲はその様に甚く失望し、西大久保に引っ越してゆくことになる。

杉の木は杉の木である。

ただ、そこにまるで違った見え方がある。

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