日本の偉人

「どうしようもない私が歩いている」没落と漂泊の天才歌人!種田山頭火

racoondogさん(男性・40代前半)

種田山頭火

まったく派手さがなく、何の成功をしたというよりはほぼ没落の一途。

ただそんな中で我々がしがみつかなければならないものをどんどんとそぎ落とし、ついには一つの境地にまで達してしまったような。

実際彼の歌う句というのはあまりに素晴らしい。

朴訥として、全く何の衒いもない。

彼が生前語っていた句論だが「その下手さがないと味が出ない」そうだ。

はっきり言って人生もそのままだ。

あんまり衒いがなさ過ぎて、おかげでどこにもそこにも引っかからないが、だからこその味わいなのかもしれない。

本人も何度も死にたがったようだが、結局生き切った。

本当にこの人には「お疲れ様」というほかはない。

最近またこの人が脚光を浴びつつあるようだが、それも世情を反映しているだろう。

ただ彼の生き様には不思議とそういったものを受け入れるおおらかさがある。

彼は生前「救い」を求めたが、死後これほど多くの人に「救い」を施すとは思ってもみなかっただろう。

そして私も「山頭火さんに感謝」

種田山頭火「どうしようもない 私が歩いている」

偉人かというときっと本人も「そんな大それたもんじゃない」と恐縮するだろう。

思想、というものを残したわけではない。

当時の文壇でものすごい脚光を浴びたわけでもない。

立身出世とはまったくもって真逆の人生。

むしろ、みじめもみじめ、なんでこんなに俺は……。

実のところ自殺未遂もたびたび起こしている。

一家にもまた自殺者が何人かいる。

まあ、やることなすことうまくいったものというのはほとんどない。

金はない。

面目もない。

妻はいたが、帰る場所はない。

故郷を追われ、ただ流浪のままに。

それにも飽いて庵を結ぶが、それも落ち着かない。

居場所がない。

生きる意味がない。

死にたい。

でも死にきれない。

何があるのだ。

……。

ただ飲む。飲む。飲む。

ただその日その時の食う当てを行乞し、雨の日は天に向かって口を開ける。

そして、飲む。飲む。飲む。

ほろほろ酔うて木の葉降る。

それからふらふら。

そしてぐでぐで。

ごろごろ。

ぽろぽろ。

そして、

どろどろ。

……。

種田山頭火の生い立ち

種田山頭火。

1882年明治15年現山口県防府市の小村に出生する。

実家は地元でかなりの地主である。

駅までの約1.5kmを自家の土地以外を踏みしめずに行けたというほどだ。

が、この父親がいわゆる「散財者」であり、政治活動やいらぬ事業に手を出し、それに失敗しては芸者に手を出すといった具合で一気に家産は傾いていったらしい。

こんな家庭で母フサは山頭火11歳の時井戸に身を投げて自殺。

大人が「猫が死んだんじゃ。近寄るんじゃない」と怒鳴りかかったが、少年山頭火はそれを察してしまった。

母は自分を置いて行ってしまった。

山頭火は母を大変に慕っていた。

帰宅すると母と会えるまで探し回った。

……。

脆くも崩れ去ったその夢と現実

山頭火が俳句を本気で始めたのが15歳の時。

県下随一の山口尋常中学(現山口高校)で首席卒業、やがて東京専門学校(現早稲田大学)に入学するが、彼は突如これを中途のまま故郷へと引き返してくる。

といっても郷土の期待を一身に浴び旅立った名士の嫡男息子にその風はあまりに厳しい。

皆噂をする。

今の時代とは違って、しかも田舎。

いる場所なんてない。

いつの間にか東京で覚えた酒をただ浴びるように喉に掻き込む。

「海は濁りて ひたひた我れに 迫りたれ」

「大きな蝶を殺したり 真夜中」

針のむしろに居座り、いよいよ鬱勃とし、父はそれを知ってか知らでか「嫁取りをすれば心が変わる」と強引に縁談を押し進め、サキノを嫁にもらい、その年に長男健を授かる。

だが、その間にもいよいよ実家の家計は事業の失敗で火の車となり、ついに防府に残っていたすべての家屋敷を売り払っている。

文学のみがこんな彼を掬い上げる一筋の光。

彼は萩原井泉水が主催する『層雲』に投句し、やがて掲載されるようになる。その時に使った号が「山頭火」である。

されど現実は泥沼にひた走るばかりである。

あげくに父はあちらこちらにためこんだ借金のままただ一人で夜逃げし、残された山頭火らも彼の友人を頼って熊本へ移り住む。

が、生活の好転の兆しはない。とにかく貧しい……。

「雅楽多書房」なる古書店を開業、到底それでは心細かったので別棚に偉人の肖像画、複製画、絵葉書、ブロマイド、額縁などを仕入れて並べるが、家産をまともにやりくりするにはまだまだだ。

この時ばかりは山頭火も行商に出るなどして奮闘したが、そんな折、弟の二郎がふらりと訪れてきた。

彼は父の都合で養子に出された家に父の借金の踏み倒しから居場所を失い、ここに流れてきたのだという。

山頭火として何とかしてやりたかったが、一家養うよりももう手が回らない。

やがて、またふらりといなくなった二郎は間もなくして岩国愛宕山中で縊死したことが伝わった。

「暑さきは まる土に喰ひいる わが影ぞ」

愛すべきものをまた失ってしまった……。

山頭火もまたふらりと単身列車に乗り、行き着いた先は東京。

彼は背負うべきものを全く捨て、ここに来てしまった。

この時山頭火37歳。

しばらく日雇いの仕事などをしてしのいでいたが、大正12年9月1日南関東全域に空前絶後の大天地鳴動と火災が起こる。

関東大震災である。

山頭火は熊本の妻の家へと逃げ帰る。

うしろすがたの しぐれてゆくか

カルモチンと酒はやめられない。

やがて山頭火は線路の上に仁王立ちし、その身へと疾走するチンチン電車を受け止めようとする。

間一髪のところで電車は停まり、中から乗客らが逆上しているが、その中から現れた知人が「こいつは俺が何とかする」とそのまま禅寺へと連れてゆき、こうして彼の流々の旅が始まる。

あらゆる現実を置き去りにして……。

西へ、東へ、と気の赴くままに……。

その日、その時の食事は行乞に任せ。

見知らぬ人々のささやかな厚意に甘え。

ただ歩く、歩く、歩く……。

「どうしようもない私が歩いている」

我に何が残るのか。

「あるけばかつこう はしればかつこう」

「生まれた家は あとかたもない ほうたる」

やがて、同志としてその存在を認めていた尾崎放哉が小豆島で客中に病死したことを知った。

彼はこれを訪ね、その仏前に問うた。

私の旅は終わりそうにありません

私に帰るべきところはない。

ただ歩く、歩く、歩く……。

「まつすぐな道で さびしい」

そして、少し金がたまっては酒に換えて飲む。

「酔うて こほろぎと 寝ていたよ」

やがてはその書き溜めていたノートもすべて火にくべる。

余り余ったカルモチンを一度に服用しても死ねなかった。

「すべつて ころんで 山がひつそり」

やがて時を知り、「先生、死ぬ時ぐらいはポックリと死にたいものだ」とその年に脳溢血で死亡。

享年58歳。

太平洋戦争の足音迫る昭和15年10月11日。

「濁れる水の 流れつつ 澄む」

まとめ:種田山頭火の純粋無垢な美しさ

救いようのない人生だ。

が、なんなのだろう。

この身に迫るものは。

まさに「救い」。

いや、「魂の輝き」だろうか。

純粋無垢とした美しさが確かにそこにはある。

無論、そんなきれいごとでは済まされそうもないが。

人間は基本的に弱い。

この男にはその弱さを受け入れた一種の潔さのようなものがある。

そこからくる旋律。

本当に何をやってもうまくいかない。

生活資力が全くない。

死ぬこともできない。

だけど、彼は最後まで生き切った。

まさにそういったことへの仏からのご褒美なのだろうか。

彼にとって句はまさに心の酒。

そして彼の生前経めぐった各地において彼は今絶大な支持を集めている。

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