日本の偉人

毛利元就、成り上がるだけでは無い。将来のことも考えた名将

おこめさん(女性・30代前半)

毛利元就は戦いにおいてとてもよく作戦を練っている、頭の良い人物であったと言える。

「自らを窮地に追いやったと失策」を流言として使い、それらしく晴賢に信じさせるところに元就のセンスと頭のよさを感じる。

晴賢の遠征中に間隙をついて城を占領する漁夫の利を得るようなことをしたかと思えば、暴風雨の中、厳島に上陸する無茶なこともする。

勇敢に戦い、3000の兵で7000の兵を打ち破り、総大将を討ち取る、変幻自在の元就の戦ぶりに感服するばかりである。

また、息子や家臣達に人として大切、協力することの大切さを教えていることも素晴らしいと思う。その考えが、子々孫々と伝わり、明治時代には徳川を倒す原動力になったと私は考える。

何百年も先に大きな影響を与えたと考えると、これほどの人物はなかなかいないのではないだろうか。

私は特に「百万一心」の言葉が好きである。

人として、社会で生きていく上で人との協力は欠くことができないものだと考えるからだ。

それを上手く文字を使い、現在にも素晴らしい言葉として残ることが素晴らしいと思う。” “みなさんは毛利元就という人物をご存知だろうか。

戦国時代に安芸(現在の広島県西部)の山の中の一豪族から、周辺の豪族を倒し、さらに強勢を誇った大内氏、尼子氏を倒し、一時は中国地方の全土に加え、西は北九州の一部、東は播磨(現在の兵庫県西部)にまで領土を広げた、広島の英雄である。

いわば、下克上の典型的な例として挙げることができる人物である。

どんな人物だったのか、紹介していきたい。

もはや孫?毛利元就71歳で息子ができた

元就は、戦いで領国を拡大する一方で子作りにも励んだ。

誕生したのは、なんと、男子が9人、女子2人の合計11人である。

しかし、これは当時としてはそう多い数ではなく、自分の領国を安定させるためである。

しかし、最後の子、九男秀包が生まれたのが1567年、元就が71歳の時だった。

元就の精力に驚くばかりである。

その時、元就は喜ぶというより、苦虫を噛み潰したような顔をしていたそうだ。

ちなみに秀包が生まれたとき、すでに長男の隆元は死んでいた。

秀包は、他の兄姉にとって、子どものように年齢が離れた弟だったので、複雑な気持ちだったと想像できる。

秀包は1579年に、兄である小早川隆景の養子となったことからも推察できるだろう。

これだけ多くの子どもを作るだけでなく、子ども達への訓示も行っている。それを紹介していきたい。

元就とサンフレッチェ広島

というサッカーチームが広島にある。

(数年前まではJ1で強豪チームだったが、今は残念ながら残留争いをしている・・・。)

このチームの名前の由来は実は元就の「三本の矢の教え」にあり、チームロゴに三本の矢を見ることができる。

サンフレッチェとはイタリア語で、「三本の矢」という意味がある。

広島には束ねた三本の矢は折れないという元就の有名な逸話がある。

というより、元就といえば、三本の矢といわれるくらいの知名度の高さだと思う。

簡単に説明を加えたい。

元就は、兄弟仲の悪かった長男隆元、次男元春、三男隆景を呼び、兄弟で毛利の家を守り立てていくことを話する。

それぞれの人物を紹介すると、隆元は無難に国を治めていく器量があった。

元春は勇猛果敢な性格で、隆景は思慮深い政治家だったといわれる。

それぞれに長所があり、それがプライドの高さとなり、いがみ合ってしまったのだろう。

まず、隆元が矢を1本手にして折ると、簡単に折れた。

次に元春が2本を手にして、力を少しこめると、これまた折ることができた。

今度は隆景が3本を折ろうとすると、これを折ることができない。

他の二人も挑戦したが、これまた折ることができなかった。

ここから、3人の兄弟を三本の矢に例え、それぞれ毛利の家のために、兄弟力を合わせることが大切だと教えた。

しかし、これは創作だったと言われている。

この話に関する肖像画が残っており、3人の息子は全て歳の近い少年として描かれている。

隆元と他二人は年が離れており、さらに隆元と隆景は大内家に人質に出されていた。

(彼らの隆の字は大内義隆の一文字をもらった。)

さらに隆元は食当りによって早死にしているのだ。

また、これは中国の「西秦録」という本に記された故事であるとも言われている。

信じるかどうかはあなた次第である。もう二つ、元就の教えを紹介したい。

百万一心

これは、元就が居城である吉田郡山城を拡張工事する際に、人柱の代わりに使用した石碑に書かれていた言葉である。

この言葉は、百の一画を除いて、「一日」。

万の字を分解して「一力」とし、縦書きで「一日一力一心」と読めるように書いてある。

意味は、「日を同じようにし、力を同じようにし、心を同じようにする」ことで「人々が皆で力を合わせれば、何事も成し得る」ことを意味する。

昔は、工事の無事を願うために、人柱を用いることが慣例とされていたが、元就は人命を尊び、皆で力と心を合わせることの大切さを教えたと言われる。

遊ぶな、勉強もするな、国を守れ

元就は、息子達に、「毛利家には教養や娯楽は必要ない。大事なことは武略、計略、調略あるのみ」と教えている。

安芸の一豪族から身を起こした元就にとっては、自分の立場を羨み、妬む人物が多いと用心していたのだろう。

「わが毛利家をよかれと思う者は他国はむろん、当国にさえもおらぬと覚悟せよ。」との言葉からよく分かる。

元就も実際に、武略のみならず、計略をもって相手を弱体化させ、滅ぼしてきた。そのため、武略や計略の大切さを身を持って知っていたと考えられる。

また、長男の隆元が若くして亡くなり、跡を継がせようとしていた孫の輝元が幼いことから、輝元を補佐する吉川元春と小早川隆景に、毛利は天下を狙わないようにと伝えている。

毛利は関が原の戦いで西軍の総大将を務めてしまい、広大な領土を手放すこととなる。

周防、長門(ともに現在の山口県)の2カ国に減封されてしまうが、明治時代まで家名は残り、長州藩として倒幕運動の中心になっていく。

そこから、関が原での敗北があったものの、毛利の一族は国を守りきったといえるだろう。

そして最終的に徳川の幕府を倒し、関が原での屈辱を雪いだと言ってよいのではないか。

こうして国を守ることの大切さを教えた元就だが、当然苦しかった時代もある。

今度は元就が成り上がるまでのことを紹介する。

異母弟との家督争い

父、兄、甥の死後、27歳で家臣達の協力を得て、家督を相続する。

しかし、それに不満をもった、一部の家臣達が、尼子氏の協力の元、弟の相合元綱を担ぎ出す。

元綱は元就の暗殺を計画するも、それを見抜いた元就に先手を打たれ、元就派の志道広良に強襲され、命を落とす。

元綱はわずかの数の部下とともに抵抗するも、最後は体中を矢で射抜かれ、槍で刺されたという。

しかし、兄弟の仲は悪くなく、お互いが部下に担ぎ出された上で争いに巻き込まれたのだ。

このような悲劇を経験したからこそ、息子達に「三本の矢の教え」を説いたとも考えられている。

なお、元綱の子は毛利の別家を相続させている。

戦国三大奇襲の一つ 厳島の戦い

戦国三大奇襲といえば、織田信長の桶狭間の戦い、北条氏康の川越夜襲、そして、元就の厳島の戦いである。

いずれも寡兵を率いて、大軍を奇襲で倒すというもので、まさしく戦いの華と言えるだろう。

以下に元就の厳島の戦いの説明を加えたい。

陶晴賢をやぶった厳島の戦いは、日本戦史上、もっともあざやかな戦いだったといわれる。

元就は大内義隆の配下部将だった。

しかし、義隆は1551年8月に、部下の晴賢に反乱を起こされて殺されてしまった。

元就は晴賢を討つか、従うか決めかね、静観していた。

最初に晴賢の討伐を考えたのは、石見国(現在の島根県)の吉見正頼である。

その正頼から協力要請が届く。

1554年3月、晴賢が石見国に出陣したことを知ると、元就も出陣し、その間隙をついて銀山、己斐、草津、桜尾、厳島を占領する。

晴賢が正頼を破ると、勢いに乗って部下の宮川房長を総大将に7000名の兵に桜尾城にいる元就を攻めさせる。

しかし、元就はわずか3000の兵でこれを破り、房長を討ち取ってしまう。

晴賢との決戦が近づくと、元就は劣勢を挽回するために作戦を練る。

  1. 晴賢の大軍を狭い厳島におびき寄せ、奇襲をしかける。
  2. 宮ノ尾城を作り、これは「失敗だった。囲まれると逃げ場がない」と流言(ウソ情報)を流す。
  3. 元就は村上水軍の協力を経て、暴風雨の中、厳島に上陸する。
  4. 流言を信じた晴賢は2万の大軍で厳島に攻め寄せる。それに奇襲をかけ宮ノ尾城の兵とはさみ討ちにする。

大軍でだった晴賢の軍は統率がとれず、大混乱が起こり、先を争って海辺へ逃げる。あまりに大勢が一度に船に乗り込んだため、多くの船が沈んだ。

晴賢は海岸に落ち延びたが、逃げる船もなく、自刃して果てた。晴賢は7400人の兵が亡くなった。

元就59歳の戦である。

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