日本の偉人

水玉の世界「前衛の女王」草間彌生さんの人柄・名言から学ぶ!今を自分らしく生きる力

こんにちは。 在宅で記事作成のお仕事をしている猫村希苑です。
学生時代は美術館学芸員を目指して勉強していました。 今でも美術鑑賞、ワークショップに参加することが好きです。

 

そんな私が今回ご紹介したい偉人は、日本の芸術家「草間彌生」さんです。 「草間彌生」さんの作品と生き様から、自分らしさを周囲と共有して生きる方法についてまとめました。

  1. 幼少期から患っていた統合失調症による幻聴や幻覚と向き合い、不安や恐怖と闘うために描いていた絵画を、芸術に昇華させ、その後の長い人生の生きる糧とした。
  2. 日本で受けた表現への制約、理不尽な扱いから息苦しさを感じ、自分の表現の場を求めてアメリカに渡り、ひどい経済状態の空腹と寒さの中でも自分の信じる芸術で創作活動を続ける。
  3. シルクスクリーン作品「無限の綱」を通して同じ芸術家から共感を得、アメリカで草間彌生さんを認めてくれる人間関係から命をつなぎ、さらなる表現を開花させる。
  4. 「前衛の女王」という名声はあっても経済状態は変わらなかったが、苦しい状況にある人たちのために(ベトナム戦争の終結や自由や人権を訴える)ヌードパフォーマンス「ハプニング」を行い、ニクソン大統領に公的書簡「Open Letter to My Hero Richard M. Nixon」を送った。
  5. アメリカでの良き理解者でありパートナーだったジョゼフ・コーネル死去により、体調を崩し日本で入院しても、小説を書いて生きることと創作することを続けた。

では、詳しくご紹介します!

草間彌生の生涯と人柄

1)「草間彌生」さんの生い立ち

1929年3月22日、長野県松本市で種苗業を営む裕福な家庭に生まれ、2017年12月現在は東京を拠点に創作活動を行っている。

草間彌生さんは1957年に芸術家としての活動拠点を一度アメリカ合衆国に移し、1960年代には「前衛の女王」と呼ばれるようになる。

草間彌生さんが芸術家として最も活躍した1960年代のアメリカではベトナム戦争がはじまり、セクシー女優マリリン・モンローが死去、黒人公民権運動家マルコム・Xやキング牧師が暗殺され、中国では文化大革命が起った。

世界では「愛と平和と自由」を叫ぶ、人権運動が盛んな時代であった。

日本では、東京大学で学生による社会文化運動だけ目立。

何故なら経済の高度成長期真っ只中で、皇太子徳仁親王が誕生し、日本は裕福な時代であったからだ。

そんな時代背景の中、1968年、インスタレーションを映像化した自作自演作品「草間の自己消滅」という短編映画が、第4回ベルギー国際短編映画祭入賞、第2回アン・アーバー映画祭銀賞受賞、第2回メリーランド映画祭入賞した。

1962年から親しくしていた前衛映像作家でアーティストのジョセフ・コーネル氏との交流が映像創作に大きな影響を与えていた。

渡米したばかりの頃の草間彌生さんの作品は水彩画が主流であったからだ。

ジョセフ・コーネル氏との出会い、NYで表現を探求するアーティスト達との交流から表現方法に布を用いたソフト・スカルプチャー作品も手掛け始め、1964年には、現在でも展覧会会場で見られるような、電飾やミラーボール、鏡を用いた彫刻作品を空間表現するスタイルが確立する。

1967年、ベトナム戦争への抗議活動のため、ボディーペインティングでヌードパフォーマンスを行う作品「ハプニング」をウォール街や国連本部前で行った。

1968年にはヌードパフォーマンスだけではなく、当時のアメリカ合衆国大統領ニクソン氏に公開書簡「Open Letter to My Hero Richard M. Nixon」を送っている。

内容は、「暴力を使って暴力を根絶することはできません。優しく、優しくしてください、親愛なるリチャード。あなたの雄々しい闘争心をどうか鎮めてください」と英語で訴えかけた。

「草間の自己消滅」が第四回ベルギー国際短編映画祭で入賞を果たした年には、「俺たちに明日はない」のミュージカル脚本も手掛けている。

1973年、アメリカでの良き理解者であった親友の死をきっかけに体調を崩し、日本へ帰国。

1980年代後半から1990年代にアメリカで行われた回顧展で再び世界から注目を浴びる。

2016年4月に米誌タイムの「世界で最も影響力がある100人」に選ばれ、同年11月には皇居でノーベル賞受賞者とも肩を並べて文化勲章が授与された。

2)「草間彌生」さんの人柄

自分の中の情熱に向き合い、生きることそのものを創作活動に注ぎ込む。

一つのことに一生懸命取り組み、常に「今からだ」という気持ちで闘い続けてきた女性である。

 

草間彌生さんの生き方・名言から学ぶ3つのこと

1)名言に見る「困難にあっても、自分を信じ奮い立たせ強く生きる力」

  • 「私は人の影響を受けたことがありません。自分自身の芸術を信じているからです」
  • 「私はこの水玉一つで立ち向かってやる。これに一切を賭けて、歴史に反旗をひるがえすつもりでいた」

 

草間彌生著、集英社新書「水玉の履歴書」に書かれている。

幼少期から患っている統合失調症の影響で幻覚や幻聴とともに生きてきた草間彌生さん。

統合失調症は、現代の発達したカウンセリング治療や投薬などで治すことのできる精神病と言われるようになったが、発症のメカニズムは解明されていない。

草間彌生さんが発症した1930年代では不治の病であった。

幼少期、実家の花畑でスケッチをしていると植物が人の言葉で語り掛けてたり、見るものすべてに網目や水玉模様が浮かぶ、幻聴と幻覚の世界に苦しんでいた。

しかし、自分の内側からあふれ出す恐怖と生死をかけて闘い、生きるために幻聴や幻覚の世界を芸術に昇華させた。

眼に映り、心で感じるものがすべて恐怖の対象ではなく、花を美しいと感じ、その心の動きと自分の見ている世界を描き、絵を通じて自分の価値観を多くの他者と共感できるコミュニケーションを確立できた。

草間彌生さんが死に物狂いで昇華させた芸術が、彼女自身を奮い立たせ生きる力を与えたのだ。

誰かと同じことをできるだけが生きる方法ではない、自分自身を認め、他者と関わることを恐れなければ、自分を見失わずに強く生きられる。

そんな、強い気持ちが伝わってくる名言。

 

2)「飢えと貧困の中で生き抜く力」と生かされる人間関係

「『無限の網』は自分の生命や宇宙、私の思想も無限であることを表現している。」

 

映像作家ダグ・エイケン氏から2009年に受けたインタビューで草間彌生さんが応えた言葉。

「無限の綱」とは、1960年に制作されたシルクスクリーン作品である。

アメリカに渡り、シアトルからNYへ拠点を移した頃は、公園のハトと落ちているパンくずを拾って食べたこともあるくらいひどい経済状態であった。

自分の信じる芸術を頼りに、知人のいないNYで創作活動をするも、孤独と飢えで自殺も考えた時期であった。

寒さと飢えで眠れない夜は絵を描いていた草間彌生さん、ある朝不思議な体験をする。

部屋中が編み目で覆われ、その編み目は窓の外から遠くまで続いていたのだ。

おびただしい水玉は全宇宙に存在する生命体を構成する粒子のようで、永遠や無限大を感じたことから「無限の綱」が描き出されていた。

草間彌生さんが患っていた統合失調症の見せた幻覚と言ってしまえば、それだけである。

しかし、病気すら自分の生きる糧に変え、創作への希望に変えたのは草間彌生さん自身であった。

「無限の綱」は画家で彫刻家のフランク・ステラ氏が買い上げ、長いこと彼の居間に飾られた。

同じ芸術家から共感を得られた草間彌生さんは、ひどい貧困の中、芸術家たちとの人間関係で命そのものをつなぎ、刺激を受け、新たな芸術表現を開花せたのである。

 

3)名言に見る「どんなに打ちひしがれても自ら希望を見出す力」

「理不尽な状況に打ち勝つということは、追い詰められた状況に打ち勝つということでもあり、人間として生まれてきたからこその試練なのです。

だから、私はいつも自分の全人格をもって苦しい状況に立ち向かってきました。

そういうことに巡り合ったのも、人の世の運命なのです。」

 

草間彌生さん著書で集英社新書「水玉の履歴書」に書かれている言葉。

アメリカに渡る前、草間彌生さんは日本でも画家としてとても注目されていたのである。

300点近い作品を展示する個展は何度も開かれ、そのたび絵は売れ、1955年には美術雑誌「みづゑ」で作品「芽」が表紙を飾るほどであった。

しかし、京都市立美術工芸学校で日本画を学んだ時に、伝統を継承する技術者として、決まりきった価値観の中でしか表現されない美術界を息苦しく感じるのであった。

なぜなら、絵を描く行為そのものが、自分の内側から湧いてくる恐怖や不安と闘う術であり、自分自身を癒す行為でもあったからだ。

自分らしさを表現できる場をアメリカに求めたのは、生きるために必要な選択であり、希望を見出し困難に立ち向かうことそのものが生きることだと自分を奮い立たせたからである。

 

草間彌生さんから苦境にあっても希望を見出す力を学ぶ

この記事では、

  • 草間彌生さんの芸術家として全盛期だった1960年代にアメリカで製作された絵画や版画、映像、ボディーペインティング、コンセプチュアル・アートなどを中心に、
  • また、草間彌生さんが病気や困難を生きる糧にしたかを紹介してきた。

ここでは、帰国後の活動についてここで触れたい。

親友であり、パートナーであったジョゼフ・コーネル氏の死去により、体調を崩し、日本で入院生活を送っていた時も、いくつか小説を執筆し、うち1983年角川書店から「クリストファー男娼窟」を出版し第十回野性時代新人文学賞を受賞しているのである。

「クリストファー男娼窟」は、NYで男娼をしながら大学を出る黒人男性が主人公の小説。

男娼をしている主人公なので、書かれている性描写やエロティックな場面もあるが、そういった場面でさえ、自分の持っているものすべてを使って、人種や貧困という状況であっても目標や希望を見出し、生きる力に変えた姿が描かれている。

草間彌生さんの芸術作品を美術館や巡回展で見たことがあっても小説は読んだことがないという方、今、生きることを難しいと考えている方におすすめの一冊。

一文読むごとにイメージがしみ込んでくるような文面で、小説家の書いた文章とは違う読みやすさがある。

2017年現在、88歳という高齢でありながら毎日朝から10時間は創作し続けている草間彌生さんの生きる力となった水玉の世界に触れて、今を自分らしく生きる糧が何か、ご自身の内面と対話し、苦境にあっても希望を見出す自分自身の力に気づいてほしい。

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