日本の偉人

豊臣秀吉の生涯・言葉から学ぶ!リーダーに欠かせない3つのポイント

画像出展:Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/)

こんにちは。普段はサラリーマン、日本史、とくに戦国時代が好きで、歴史をビジネスに活かしているナインと申します。  今回は僕が見てきた中でもこれ以上に大出世を果たした人物はいないと思う豊臣秀吉から、私たちビジネスマンが学ぶべき事を紹介を語ります。

豊臣秀吉とは

豊臣秀吉は貧しい家の出身ながら、戦国武将になり、関白、太政大臣と経て、日本で始めて全国統一を成し遂げた偉大な人物である。

織田信長の冷えた草履を懐で温めておき、そのことで織田信長に気に入られたことが武将へのきっかけとなったのは有名な話なので皆さんもご存じのことだろう。

その他、人の懐に入ること、人の心を掴むことがとても上手かったという面もある。

そんな、豊臣秀吉の性格を例えて良く用いられるのが『鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス』の句だ。
この句から読み取れるように、豊臣秀吉の魅力は物事に対し、どうしたら良いのか、どうすれば良いのかをしっかりと考え実行する所である。
そして、そのことからぜひ我々ビジネスマンが学びたい部下を育てる3つのポイントがある。

  1. 自分の置かれている状況を理解し考え、その時に何が1番大事かを考えること
  2. 個々の特性を生かし、互いに競い合わせ努力させること
  3. 自らが先頭に立ち、時には大胆に行動し、自分自身が引っ張っていくこと

豊臣秀吉の生涯と人柄

1)豊臣秀吉の生涯

尾張国中村、現在の愛知県名古屋市中村区に生まれた豊臣秀吉だが、生年については定かになっていない。
秀吉の父が、足軽又は農民だったと考えられており、身分があまりにも低かったため、家族の出生記録が残されていないのである。
一説によれば1537年2月6日と言われているが、他にも有力な説があるため現在も詳細は謎のままである。

そんな秀吉は1598年8月の病没まで、62年の波乱万丈な人生を歩んだ。
秀吉の生きた時代は戦国時代と呼ばれ、名だたる武将が皆、天下統一を目指していた時代である。

織田信長の冷えた草履を懐に入れて温めたことで武将の道が始まったのは有名な話であるが、身分制度が厳しい時代に、身分の低い秀吉が武将の道に進むためには戦で武功を上げるしかない。

しかしこのエピソードは、後に智将と呼ばれた秀吉は戦にて武功を上げるより、自分にあった方法を考えた結果ではないかと私は考えている。

身分の低い自分が、トップに立つ武将に気に入られるため、一目置かれるため、武将への道を進むにはどうしたら良いか、自分の置かれている状況を考え、ベストな策を打つ。

このエピソードはそんな秀吉の冷静な分析、判断があったからこそではないだろうか。
そんな冷静な判断力があった秀吉は、そこから信長の元で数々の武功を上げ、いくつもの歴史に残る出来事を成し遂げていくのである。

そうして着実に地位を上げていった秀吉は、忠誠を尽くした織田信長の没後、信長の悲願でもあった天下統一を果たしたのである。

2)豊臣秀吉の人柄

高松城水攻築堤の図

天下統一を果たした秀吉は、戦よって死者を出すことをとにかく嫌ったことで有名である。

そのために、やむを得ない場合を除いては、水攻めや兵糧攻めを行い、戦に挑んでいた。

この2つの戦術であれば、味方はもちろん、相手方も敵将が責任を取り、切腹をすることで、その他の者は死なずに済むからである。

その他、秀吉は人の懐に入ることが天性の才能と言えるほど上手だった。
それは敵味方関係なく、気難しい人物が相手でも、いとも簡単に入り込んでしまうほどである。
そのため、家臣たちの扱いも素晴らしく、現代の私たちも見習うべき点が多い。
秀吉は身分が上がってからも、必要であれば下の者たちにさえ頭を下げ、腰を低くさせていたのである。

また、身分の低かった秀吉には昔から仕えてくれている家臣がいなかったこともあり、若い家臣たちを早く育てなければいけなかった。
例をあげると、分が悪い者どおしに一国を半分ずつ与え、国内で競争をさせたのである。
与えた国における全ての事を争うように競わせ努力させることで、秀吉は武将たちを手なずけ、育てていったのである。

そんな秀吉だが、時には大胆な行動に打って出たこともある。
それが歴史に残る『中国大返し』である。
本能寺の変にて信長を自害に追い込んだ、明智光秀を討つために岡山県から京都府までの大移動を10日ほどで行ったのである。
この戦で秀吉が明智軍に負ければ天下統一の道も、蓄えてきた財宝もすべて失ってしまう。

それでも秀吉は、全てを投げうって、この戦にかけることを判断したのである。
蓄えていた財宝をすべて兵士たちに分け与え戦に発ったのである。
そして、無茶とも言える秀吉のこの大胆な判断が功を奏し、明智軍見事を討ち破り、それを足掛かりに、その後、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いにて打ち破り、見事天下統一を果たしたのである。

結果的に大胆な判断をしたことにより、投げうった財宝に対し、お釣りが出るほどの財宝を手に入れたのである。

豊臣秀吉の生き方・名言から学ぶこと

豊臣期大阪図屏風の大阪城・城下

1)秀吉の人生を物語る『一歩一歩、着実に積み重ねていけば、予想以上の結果が得られるだろう』

秀吉の天下人への道の始まりは信長の草履を温めたことである。
草履を温めることで天下人への道が開けるとは、昔も今も容易く考えつくことではないだろう。

しかし、この出来事は現代を生きる我々ビジネスマンにとっても、重要なことであり、今後のビジネスにとっても活かせるヒントである。

この言葉から読み取れることは、言葉通りに、ひとつひとつ着実に物事を進めていけば、いつか大きな成果へと繋がるだろうという事だけではない。

この言葉には秀吉の人生が物語られており、どれだけ小さなことでも目を向け、行動することによって大きく道が開かれるということも伝えてくれているのだと私は考えている。

2)人を育てるうえで欠かせない『人の意見を聞いてから出る知恵は、本当の知恵ではない。』という秀吉の言葉

時には競い合わせるように家臣を育ててきた秀吉。

ただ争わせたのではなく、競わせることで、各々の家臣たちがライバルには負けられないと自分たちで勝つ手段を考えるように仕向けたのである。

自ら考え、努力することが、教えることよりも成長の幅が大きいと秀吉は考えたのではないだろうか。

それは現代にも言えることで、誰かに答えを教えてもらった者と、自分で考えて答えを導き出した者では、どちらが今後大きく育つかは言うまでもないだろう。

今の時代、ネットで調べればいくらでも答えやヒントはでてくるが、一つ一つの物事、直面している課題に対し、自分で考えることで導き出せる答えに勝るものはないというのが、私が秀吉の言葉から感じたことである。

3)リーダーとして『いつも前に出ることがよい。そして戦のときでも先駆けるのだ。』という秀吉の言葉

家臣たちに様々な姿を見せてきた秀吉。
戦において、人の死を嫌い、敵であっても一人でも多く生かそうとする姿。
忠誠を尽くした君主の敵討ちに大胆な判断を下す姿。

人の懐に入るのが上手く、家臣のコントロールもできたというだけではなく、こういった先陣を切って軍を引っ張っていく秀吉の姿に家臣たちはついていき、家臣同士で努力し合い成長していったのだと私は考えている。

これは現代における会社や、プロジェクトチームなどにも言えることである。
自分がリーダーであるならば、自らが率先して事を進めていく姿、何かを発案する姿に部下たちは影響され、さらにはリーダーである自分についてきてくれるのではないだろうか。

会社のトップ、プロジェクトリームにおけるリーダーの立場に今現在いるのであれば、ぜひ取り入れていきたい行動である。

豊臣秀吉をしのぶ

豊公誕生之地碑(名古屋市中村区中村公園)

出生も謎があり、身分も低かった一人の男が、後に天下人へとのし上がる。
世界中を見てもここまでの大出世を果たした人物はいただろうか。

奇想天外な発想と言ってしまえばそれまでだが、信長の草履を温めることから始まった秀吉の武将の道は、どんな小さなことでもチャンスはあると言ってくれているかのようである。

名家の出ならまだしも、身分の低さから昔から仕えている家臣がおらず、自ら若い家臣を育て上げ、天下統一果たしたことも、ビジネスマンとして、部下や後輩を育てる上でのヒントが数多く残されている。

リーダーとは何か、トップに立つ人間とは何か、日本初の天下統一を果たした豊臣秀吉だからこそ学ぶべき姿がある。

一つ一つの出来事に様々な説もあるが、歴史として今回ご紹介させていただいたことは記録に残っており全て事実である。

今では考えることも難しいほど天下統一という偉業は想像を絶する苦難の道であっただろう。

しかし、それを成し遂げた人物の生きざまを皆さんには是非覚えておいていただきたい。
小さなことでも豊臣秀吉の行ってきた出来事は我々ビジネスマンにとって、今後の糧、ヒントになることである。

私だけではなく、皆さんにもそうであって欲しいと願うばかりだ。

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)