日本の偉人

『越後の龍』『軍神』と呼ばれた上杉謙信は意外にも恋愛と家出がお好き!?

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こんにちは。歴女ライターのjokerです。
今回は越後の龍“上杉謙信”をご紹介します!

『越後の龍』や『軍神』などと呼ばれ、戦国最強の武将として神がかった印象の多い上杉謙信だが、知れば知るほど人間くさい魅力があることに気付かされる。

潔癖なまでのストイックさと、献身的であり、誠実な姿や、何があっても決してぶれることなく自分の信念に突き進む姿には、現代の日本人が忘れたものを思い出させてくれる。

そんな反面、恋愛物の物語を好んだり、和歌や琵琶を嗜んでいたり、文化人だった一面もあるのだ。

鬼神のごとき戦の活躍からは少しずれた印象があることも、個人的に上杉謙信に魅かれるポイントだ。

そして、家出をしたり、突拍子もない行動を取ることが多かったとされる謙信だが、そこも興味がつきないポイントである。

かの有名な上杉四天王と呼ばれた上杉家家臣たちが、謙信に振り回される様子を想像すると、クスっと笑えてしまう。

それでも、謙信の揺るがないカリスマ性や、上に立つ者としての威厳なんかも想像すると、興味がつきない人物である。

ぜひ、他とは違った視点から上杉謙信という人物を想像して、自分なりの上杉謙信像を立ててみてはいかがだろうか。

私が書いた記事が、その手伝いとなれればこんな幸せなことはない。

上杉謙信のプロフィール

1530年2月18日生まれ、新潟県出身であり、AB型だったと言われている。

身長は約156センチ。

当時の平均身長が約159センチなので、やや小柄だったといえる。

大の酒好きであった謙信は、長年の飲酒が要因のひとつとなり、脳卒中、または脳溢血で急死する。

ちなみに、謙信は騒がしい場があまり好きではなかったらしく、ひとり縁側に座り酒を飲むことがとても好きだったとされている。

酒を飲むときのつまみは、味噌や梅干しといった極々質素なものである。

こういった塩分の高いものを食べていたことも、死因のひとつとされている。

享年49歳であった。

上杉謙信の人柄

戦国最強の武将のひとりとしても名があがるのが上杉謙信である。

『越後の龍』や『軍神』などと呼ばれており、何とも常人離れした雰囲気だが、より深く謙信について知ることができれば、上杉謙信ほど人間くさい人物はいないであろう。

上杉謙信は生涯独身を貫いた武将としてよく知られているが、実は恋愛物の物語が好きでよく読んでいたといわれている。

そして、和歌や琵琶といったものを嗜んでおり、その腕前は見事であったと評されている。

恋歌を読んだときには、周りを驚かせるほどの上手さだったとされている。

そして、生涯独身であった謙信だが、恋多き人であり、そのどの恋も悲恋であったとされている。

その悲恋を経験したが故に生涯独身を貫いたという説があるが、どれも実証のない話である。

上杉謙信は戦国武将のなかではとても珍しい人物であった。

生涯独身を貫いたという点でも、当時からすればとても珍しいことであったのだ。

そしてその他に、領土的野心が全くなかったとされているのである。

領土的野心、つまりは自分の領土を広めてやろうという思いを持たない人物であったとされている。

これは戦国武将では特に極めて珍しいことである。

どの戦国武将も大なり小なり、自分の領土を広めることを考えているものだが、この上杉謙信という人物は、決して野心で戦をすることはなかったのである。

謙信の数多い戦の主な理由は、他の武将からの救援要請がほとんどであったとされている。

当時の人からすれば、何ともトリッキーな不思議な存在であったのではないだろうか。

謙信といえば、毘沙門天を強く信仰していたことでも有名である。

自軍の旗印にも毘沙門天の『毘』の文字を掲げており、自身を毘沙門天の化身と思うよう家臣たちにも言っていたとされる。

ちなみに、毘沙門天とは武神のことである。

上杉謙信、辞世の句

『四十九年一睡夢

一期栄華一杯酒』

【意味】
四十九年の我が生涯は一睡の夢に過ぎなかった。

この世の栄華は、一杯の酒に等しい。

この句は、謙信が亡くなる一ヶ月前に詠んだものだとされている。

この句からは『越後の龍』や『軍神』として恐れられ、戦国最強とも言われた上杉謙信ではなく、ひとりの人間としての謙信の素顔が見える気がして、個人的にとても興味深い句のひとつである。

上杉謙信という人物は、人間離れした逸話なども数多く残っているが、とても繊細な人物だったのではなかろうか。

ライバル武田信玄との違い

上杉謙信と言えば、ライバルである武田信玄の存在も無視できるものではないだろう。

長年に渡り戦い続けた甲斐の領主であるのが武田信玄である。

あえて、両者の戦いではなく、武田信玄と上杉謙信という人物の違いを注目してみよう。

謙信も信玄も、お互い戦上手で有名である。

だが、その戦い方や考え方、価値観などは全く相容れない存在であったとされている。

後生では、ふたりの間に友情めいたものがあったとされているが、実は謙信は信玄をかなり嫌っていたのではないかとする説もあるのだ。

嫌っていた理由とは、信玄のやり方が許せなかった、理解できなかったとされているのである。

信玄は実父を追放し家督を相続した経歴があったり、謀略を駆使して敵を貶めたりする行動が、謙信からしたら許せず理解できない点だったのではとされている。

利益をまったく考えてない数々の戦が、謙信が信玄を本当に嫌っていた証拠だとする説もあるほどだ。

まさしく、価値観や考え方の違いからくる嫌悪感だったのだろう。

その一方で、友情エピソードにも事欠かないふたりであるのも事実だ。

謙信が信玄に塩を送るという有名なエピソードや、信玄の死を聞いた謙信が号泣し、3日間喪に服すというエピソードまであるのだ。

そんなふたりの違いがとても面白いことをご存じだろうか。

謙信は直感タイプで天才肌気質があったのに対して、信玄は熟考タイプで慎重な性格だったとされる。

ここだけ見ても全く真逆である。

そして、謙信は戦国きっての戦術家であるのに対して、信玄は戦国きっての戦略家であったとされている。

謙信には、天才的なまでの戦うセンスと実力があり、対する信玄には、策を練るセンスとそれを実行できる統率力をもっていたのだ。

そんなふたりが12年間という長い間戦っていたのである。

まとめ:僧に近い異色の戦国武将・上杉謙信

上杉謙信という人物は、戦国時代においてはとにかくレアな武将であったのだ。

どちらかというと、武将よりも僧としての色が濃い人物であった。

幼小期を寺で過ごし、僧としての教育を受けた謙信にしてみれば、自分は僧になりその道を進むのだと思っていたのではなかろうか。

しかし、家督を継いだ兄には力がなく、そんな中で謙信に白羽の矢が立ち、そして類いまれな天才的な戦うセンスを持っていた謙信が家督を継ぐことになるのだ。

謙信は、仏門に生きる自分と武将としての立場の葛藤があったのかもしれない。

事実、謙信は一度だけ家督を継いだ後、仏門に入るため家出をしたことがあるのだ。

それでも、これと思ったものに対してはストイックなまでに突き進み、理想に対しては献身的であり誠実であった。

決してぶれることなく自分の信念に突き進み、生涯戦い続けたのだ。

謙信は、天皇や将軍に筋を通し、宗教勢力が武力や財力をもつことを嫌っていたとされ、この点に置いて見ると、かの有名な織田信長と共通するところが見られる。

生涯のほとんどを戦い続けた上杉謙信は、70回の戦歴の中でも敗北がたったの2度しかないことから、戦国最強の武将として名があがることが多く、どこか人間離れした雰囲気だが、深く知ればとても人間みの溢れた人物であったことが伺えるのである。

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