日本の偉人

山川健次郎:汚名返上!賊軍と呼ばれた会津藩士が明治時代に東大総長?

こばです。最近、50代に突入。今回は山川健次郎を語ります。

明治という新時代から昭和まで、朝敵、賊軍の汚名を着せられた会津藩白虎隊士、山川健次郎。
健次郎は、逆境に屈せず兄弟と共に郷里会津の無念と汚名を晴らすため懸命に努力し、日本人初の物理学者となりついには東大総長にまでなった。

教育者になってからは国のために、世界に通じる学者を多く育成し貢献するも決して武士道を忘れず、生涯信念を貫き通し遂に死後郷里会津の汚名を返上することを成し遂げた会津武士である。

現代社会で日本伝統の武士の魂を失ってしまっている男性たちに是非一読していただきたい。

今生きている時代がいかに幸せかを知り、どう生きるべきかの参考となるでしょう。

山川健次郎の信念を貫いた生涯

旧会津藩出身というだけで世間から白い目で見られた明治時代に、
当時最高学府と称された東京帝国大学の最高権力者(総長)になった人物が旧会津藩士の山川健次郎(以下、健次郎)である。

山川健次郎は日本初の物理学者であり、近代日本を代表する多くの学者を育成した教育者だ。

有名なホラー小説『リング』に登場する貞子の母山村志津子のモデルとなった御船千鶴子「千里眼事件」では、物理学の大家で冷静な現実主義者として実験に参加した人物である。

健次郎は、1854年(嘉永7年)会津藩国家老職であった父山川重固の次男として生まれ、江戸、明治、大正、昭和を生き抜き1931年(昭和6年)76歳で亡くなるまで信念を貫いた会津藩白虎隊士である。

生涯をかけて朝敵、賊軍の汚名を払拭するという信念を持ち、兄と共に「京都守護職始末」を執筆、自らは「会津戊辰戦史」を書き上げ歪んだ史観を正そうとしたのだ。

会津藩主松平容保の四男松平恒雄の娘節子が、皇室に入り秩父宮勢津子(後に節子に改名)妃殿下となる過程では、自ら奔走し会津藩出身者の皇室入りを実現したのだ。

また、アメリカ留学で「日本のために尽くす」という約束で学資援助を受けた恩を忘れず、多くの世界的に著名な学者を育成し、近代日本の発展に貢献した教育者である。

健次郎は、生涯を通じて信念を貫いた会津武士なのだ。

幕末京都守護職から一転!朝敵・賊軍と呼ばれた山川健次郎ら武士たち

明治維新における数ある戦いの中で、戊辰戦争は白虎隊士の「飯盛山の自刃」でも知られる悲劇の戦いである。

幕末の動乱のさなか、御所のある京都の治安維持を目的に徳川幕府より最も忠義厚き藩として京都守護職に任命されたのが会津藩主松平容保だ。

時の天皇であった孝明天皇は、会津藩の働きに対し会津藩主松平容保に感謝の書簡を送るほど絶大な信頼を寄せていたのである。

天皇の信頼厚き会津藩が一転して、朝敵、賊軍と呼ばれ新政府軍と戦わなければならなかった事情は「京都守護職始末」、「会津戊辰戦史」が世に出る昭和になるまで明らかにならなかったのだ。

会津藩開祖は徳川3代将軍家光の異母兄弟だった保科正之である。

会津藩の家紋は徳川家と同じ葵、徳川将軍家に対する忠義を重んじ幼いころから武士としての教育を叩き込んでいた藩である。

会津藩士族の子は、6歳から「「什(じゅう)」と呼ばれるグループで集団活動と「什の掟」を学び、10歳から藩校「日新館」で「日新館の心得」を学び武士としての心構えや誇りを常に植え付けられていたのだ。

京都守護職を任命された時、会津藩主松平容保も藩祖保科正之の定めた15ヶ条の家訓を守り続けていたのだ。

そのため家臣の反対を押し切って京都に赴任したのだ。

幼いころから教育されてきた徳川将軍家に対する忠義を重んじ幕末の京都で懸命に任務を遂行した会津藩は、多くの維新志士達に恨まれていたのだ。

大政奉還や江戸城の無血開城後も怒りの収まらない官軍となった維新志士達は、幕府が崩壊したにもかかわらずその矛先を会津に向けたのだ。

山川健次郎、運命の分岐点

戊辰戦争当時健次郎の年齢は15歳、自ら白虎隊に志願したが入隊できる年齢は16歳だったということが後に男爵にまでなる健次郎の人生の分岐点だったのだ。

健次郎が白虎隊として出陣していれば間違いなく飯盛山で自刃し、その後の人生はなかったのだ。

戊辰戦争後、健次郎はアメリカへ留学しエール大学で物理学を専攻、明治8年(1875年)5月22歳でバチェラーオブ・フィロソフィー理学士学位を取得し日本人として最初の物理学者になったのである。

帰国後は東京開成高校で教授補に採用され、後の東京帝国大学への組織変更によって26歳で邦人初の物理学教授となったのだ。

東京帝国大学で物理学を教え、明治26年40歳で理科大学長、明治34年48歳で東京帝国大学総長となるのである。

朝敵 賊軍の汚名を着せられた会津藩出身者が最高学府総長になることなど当時は考えられなかったことだ。

その後51歳で貴族院議員、52歳で東京帝国大学総長辞任、58歳で九州帝国大学初代総長、60歳で東京帝国大学総長復帰、61歳で京都帝国大学総長兼務、62歳で男爵爵位を授与するのである。

健次郎に芽生えた信念と決意

健次郎が日本人として最初の物理学者になれた背景には、逆境を覆し必ず会津の汚名を返上しなければならないという責任感があったのだ。

アメリカ留学中に届いた手紙で、戊辰戦争で負けた会津藩の人々の暮らしぶりを知ったからである。

戊辰戦争で生き残った会津藩の人々は、賊軍として現在の下北半島と岩手県の県境あたりにあった斗南藩へと移住させられていたのだ。

戊辰戦争の逸話「彼岸獅子の入城」で有名な兄の山川大蔵は、会津籠城戦においての軍事総督だ。

敗戦後は山川浩と改名し、斗南藩権大惨事となり事実上の旧会津藩の責任者となっていたのである。

移住先の斗南藩は、極寒の地で土地はやせ米も取れない場所にあった藩だ。

戊辰戦争で多くの男性が亡くなり未亡人や子供、老夫婦ばかりで働き手もいない悲惨な状態だったのだ。

健次郎は、飢えと寒さで老人や子供たちを先頭に次々と死んでいったことを手紙で知らされたのだ。

そして死んでいった藩士達の無念や生き残った人々の苦境を思えば絶対自分は負けたり逃げたりするわけにはいかないと必死で勉強し、日本人で初めて学位を取得できたのである。

強運の持ち主でもある健次郎

白虎隊に志願した時の年齢が15歳で入隊規定の年齢に達しておらず、自刃を免れたことは健次郎が強運の持ち主である根拠のひとつだ。

藩校日新館で秀才だった健次郎を藩の将来を担う人物と会津藩公用方や軍事奉行添役だった秋月悌二郎が、長州藩参謀の奥平謙輔と越後脱走計画を立て逃がれたことも強運の持ち主である理由だ。

奥平の書生となった健次郎が旧幕府側に理解を示す北海道開拓使だった薩摩の黒田清隆に出会い、汽船「じゃぱん号」でアメリカ留学に引率してもらい物理学者になれたことも強運がもたらした出来事だ。

留学先のアメリカで、残り1年で卒業という時に政府より帰国命令が出て費用が経たれたにも関わらず友人ロバート・モリスの伯母ハルドマン夫人が「大学を卒業したら、専心国のために尽くすこと」を条件に学資援助してくれたことも強運の持ち主と言える出来事だ。

厳しくも優しい教育者としての健次郎

健次郎が教育者として優れた人物だった根拠は、社会を導く人の意味「星座の人」と呼ばれたことだ。

「厳しく、神にも等しい人」と娘が語る通り、厳しくも優しく、広い心をもっていたことがうかがえるからである。

健次郎は、物理学を教える傍らアメリカの人種差別を否定し、日本の良さや武士道を厳しく説いたのである。

反面、成果を惜しみなく譲って教え子の方が有名になっても喜んでいるやさしい人物だったのだ。

著名な物理学者である田中館愛嬌や長岡半太郎、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹や朝永辰一郎らはみな健次郎の教え子たちである。

東京帝国大学総長時代に起きた七博士事件では、学問の自由を守るため、城を大学に、刀を信念に置き替えて外務省や文部省を相手に一歩も引かずに戦い続けたのだ。

事件解決後は潔くすべての責任をとって辞任を申し出るという行為はまさに武士道そのものである。

生き続けている会津武士の魂

日露戦争開戦時、健次郎が50歳で東京帝国大学総長に就任していたにもかかわらず「一兵卒として従軍」を志願したという逸話は、有事の際には年齢や立場にかかわらず武士道を重んじ、愛国心を持っていた証明である。

会津武士の鉄則である「卑怯な振る舞いをしてはならぬ」を貫いていた健次郎は、日露戦争終結とともに殉死した乃木希典大将の清廉潔白な生き方にも尊敬の念を抱いていたのだ。

乃木も健次郎を認めて、昭和天皇の皇太子時代の学問所委員に推薦したという逸話もあるのだ。

健次郎は、家の壁に会津藩祖保科正之の「会津藩家訓」と恩人である奥平謙輔の書だけを架けて常に武士道を忘れなかったのだ。

東京帝国大学総長就任後も旧会津藩士やその子弟達への援助や質素な借家暮らしを続け、自分のための贅沢は謹んでいたのである。

現代社会においては、自己犠牲の精神を持つ者は少なく自分の利益だけを追求し他人に興味を持たない風潮が主流となってしまっているのが実情である。

自己の利益を優先し、結果が伴うならあらゆる手段を良しとする競争社会において、会津武士の鉄則である「卑怯な振る舞いをしてはならぬ」は武士を尊敬する私自身のポリシーであり好きな言葉でもある。

国際社会の中で北朝鮮の脅威や政治家の退廃による政治離れが進む日本において、社会を導く広い見識や視野を持ち、厳しくも優しい武士道を重んじ生涯貫いた健次郎に私は尊敬の念を抱かずにはいられないのである。

会津若松市飯盛山の白虎隊記念館や日新館、会津鶴ヶ城などには健次郎が教育されてきた「会津藩家訓」「什の掟」「日新館の心得」などが展示されており見ることができるのだ。

星亮一著の山川健次郎伝(平凡社)や明治を生きた会津人山川健次郎の生涯(筑摩書房)などの書籍では山川健次郎という人物を知ることができるし、山川浩著の「京都守護職始末」や山川健次郎著「会津戊辰戦史」では、戊辰戦争の真実を知ることができるのである。

会津武士の魂を是非一見、一読するべきである。

武士道は日本固有の思想。日本人として健次郎からも学びたい

武士道は日本固有の思想。世界からも注目される。

健次郎の兄弟は7人いたが、長男で兄の山川浩は男爵、長女二葉は従5位、三女操は明治天皇のフランス語通訳兼昭憲皇太后付女官、五女咲子(後に捨松に改名)は日本人初の女子留学生になるなど優秀な兄弟ばかりだった。

兄弟の誰もが健次郎と同じように、会津に対する責任感と朝敵、賊軍の汚名を晴らさずにいられないという信念で生きていたのだ。

会津の悲しみや怒りを生涯腹の底において、努力し見事に会津の無念を晴らした人達が山川家の兄弟だったのだ。

その中でも真の武士道を知り、日本人の教育に生かして近代日本の礎となる多くの優秀な人材を育てた健次郎は、生涯会津武士として生きた人物である。

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