日本の偉人

広岡浅子の名言から学ぶ!現在にも通じる「九転十起」の精神

画像出展:Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/)

こんにちは。在宅ワークをやっているハートフル05です。特に好きな時代は幕末で、週末は幕末に関する本を読んだり、映画の動画を見たりしています。 学生時代は、大河ドラマをよく見ていました。 今回は、広岡浅子の生涯・人柄、名言などを紹介します。
(特に女性の皆さんにオススメな偉人です。)

広岡浅子とは

広岡浅子は、17歳で大阪の豪商鹿島家に嫁ぎ、男尊女卑が強い中にありながら、九州まで一人で行って炭鉱事業を立て直し、尼崎紡績、加島銀行、日本女子大学創立、大同生命創業に携わった人物だ。

その人格は豪快であり、英明だった。
特に炭鉱に行った時は、護身のためにいつも懐にピストルを入れていたそうで、 そんなところも肝が座った人物だと思う。

広岡浅子の名言といえば「七転び八起き」を超える「九転十起」であり、魅力は諦めないということだ。
そして、現代人としてぜひ学びたいのはその生き方の3つの視点だ。
それは…

  • 1)どんな状況でも諦めないこと。
  • 2)女性の特性を生かし、たおやかに成長していくこと
  • 3)銀行、日本初の女子大学、生命保険会社設立をした行動力

男尊女卑の考え方が強い当時の日本で、財閥の娘とはいえ、不当な差別があった。
そんな中、嫁ぎ先の両替屋を銀行に発展させ、女子大学、生命保険会社設立をした行動力を学んでいきたい。

広岡浅子の生涯と人柄

大同生命HPに掲載された広岡浅子肖像・広岡浅子の生涯を知ることができる

1)広岡浅子の生涯

広岡浅子は1849年10月18日、京都の豪商小石川三井家の次女として生まれた。
三井家は代々大阪の豪商加島屋に娘を嫁がせることになっており、生まれる前から結婚が決まっていた。

幼い頃から、花嫁修行のお花、お茶、お琴を習っていたが、浅子はそれが苦手だった。
それよりも弟が勉強しているそろばんや簿記に興味があったようである。

浅子は、17歳で大阪の豪商、鹿島家の広岡信五郎に嫁いだ。
嫁いだものの、信五郎がお坊ちゃまであまり仕事をしないので見かねて幕末の時代に両替商として傾きかけた加島屋を建て直し、明治維新を乗り越えた。

そして、炭鉱事業の立て直し、尼崎紡績(現ユニチカ)、銀行、生命保険会社、 日本初の女子大学の設立に携わり、やがて、浅子は大阪の広く世の中に知られることになった。
その結果、関西経済界の伍代友厚、当時の経済界の大物、渋沢栄一、 後の総理大臣、大隈重信と交流をすることになった。

2)広岡浅子の人柄

先にも書いたが、広岡浅子は七転八倒を超えた「九転十起」を信条にし、何事もあきらめず突き進んでいくという考え方で、頭が良く豪快な性格だった。
広岡浅子の考え方にお金儲けのためになく、みんなの幸せのためにという気持ちが常に持っていたと言われている。

夫とも当時で言う政略結婚であったが非常に仲が良かった。
しかし、なかなか子供に恵まれなかったので、自分の付き人の小藤に夫の側室になってもらい四人の子供を設けたが、これで加島が繁栄すると喜んだそうである。

今ではとても考えられないが、 当時、お金持ちの家では一夫多妻が普通のことだった。
おそらく、外の女の人に子供ができたら我慢ができなかったかもしれないが、実家から連れてきた小藤が側室になったのでまだ我慢ができたのかもしれないと思う 。

個人より家の繁栄が大事な時代だったのだが、もし私ならと思うととても耐えられないと思う。
自分に子供がなかなかできないから、仕事に専念したということもあったのかもしれないが、特に炭鉱の仕事で単身九州に乗り込んだとき、用心のためピストルを片手にいつも持っていたということはどれだけ腹をくくっていたのかと思う。

後に浅子の子供が生まれるが、女の子であったため婿養子をとって結婚させた。
この一人娘の、亀子の小学校時代の同級生、田村宜は後々、広岡浅子の片腕となり、海外に留学し日本女子大学の校長となる人物である。
そして、1919年(大正8年)、広岡浅子は69歳で腎臓炎によって東京で亡くなっている。

広岡浅子の生き方・名言から学ぶこと

1)広岡浅子が説いた「九転十起」

幕末の世の中がどうなるか分からない時代に、両替商をしていた加島屋は各藩の江戸屋敷の侍の借金の取り立てが出来ずに困っていた。
ところが、次男坊の嫁の浅子が、それぞれの江戸屋敷に何回も行き借金返済を頼み返済してもらったそうだ。

そのおかげで、幕末のせいで世の中が変わり各江戸屋敷の侍たちからお金を返金してもらうのができないかもしれない状態だったにも関わらず、官女が諦めずに何回も通ったので、各班の侍たちに返金してもらうことができた。

そのおかげで傾いていた鹿島屋は持ち直したのである。
おそらく、 浅子が普通の嫁と同じく裁縫、お茶、お琴だけ身につけて嫁いできたのなら、仕事をしない夫の代わりに、加島屋を立て直し、動乱の幕末を乗り越えることはできなかったと思う。

2)金儲けより、今よりも少しでもみんなが幸せになってほしいために人の役に立ちたい」

浅子は「金儲けより、今よりも少しでもみんなが幸せになってほしいために人の役に立ちたい」という気持ちに重きを置き、

炭鉱の事故の経験から、怪我や事故のために仕事が出来なくなった人たちに保険を作ったり、
女性でも勉強ができる環境を作ってあげたいと思って女子の大学を作ったりして、
具体的に色々な事業の設立をしている。

これは現代のビジネスマンにとってもとても大事なことで、金儲け主義に走るとやがて先が見えてくると思う。

私のつたない体験であるが、生命保険のセールスマンがやってきたとき、知り合いのセールスウーマンから引き継ぎで来られた若い男性のセールスマンが、自分の兄弟も障害者なのでという話をされた。
ありありと契約を取りたいと言う気持ちがにじみ出ていたので、今回はやめときますと言った。
すると、「自分が言っていることが嘘と思ってるでしょう」と逆ギレされたから保険料、が高かったということもあり余計嫌になった。

これからどんな時代が来るかわからないし、 自分の価値観を180度変えないとといけない時代が来るかもしれない中、一番大事なことは人の幸せを願って自分が何ができるかということを考え、実践していくことであると思う。
つまり、お金がある人はお金を使うだろうし、お金がない私たちは体は使ったり知恵を使ったりして自分は今他人のために何ができるか考えていかないといけないと思う。

朝ドラでの広岡浅子

私が広岡浅子を知ったのは、朝ドラからだが、久しぶりに良いドラマを見たと思った。
彼女が生きた時代は江戸時代末期から明治への変換期の真っ只中で、色々な情報、思想が錯綜して混乱している時に、女でも学問がしたい人は学問をしてもいいと、具体的に大学を使った作ったり、怪我や事故で仕事失って困っている人のために保険会社を作った人である。
私たちは壁が立ちはだかるとすぐに諦めてしまう。
しかし、そんな中でも彼女は身分制度の一番高い武士に、借金返済のため各藩江戸屋敷に何回も通って、一歩間違うと殺されそうになりながらも借金を返済してもらった。
それと、家業のひとつの部門である探鉱事業を一人で 九州まで行って、護身用のピストルを懐に作業員と一緒に働いたそうだ。
ただのお金持ちのお嬢さんではないように思う。
なぜかと言うとあさこは正妻の子ではなく、 父が50歳の時の子で、父亡き後、歳の離れた兄の義妹として迎えられた過去を持つからだ。
ドラマでは宮崎あおいさんが演じるはつ(史実では春)という姉がいたのですが、 嫁ぎ先の天王寺屋は幕末の混乱で没落して25歳の若さで亡くなったそうだ。
そのはつも正妻の子供ではなく、正妻の子は皆なくなり側室の子のはると浅子が慣例通り大阪の豪商に嫁いだということです。
そういうことで、夫に側室がいるということは当時の社会では別に取り立てて異常ではなかったのだろう。
それより彼女は、社会貢献のために頑張ろうと思ったのではないだろうか。

広岡浅子の偉業を振り返って

今回、自分の好きな偉人の中で、広岡浅子を選んで書かせていただいたのは、朝ドラの中で一番、感銘を受けた人物だったからである。
リアルタイムで見ていた時に、毎朝勇気をもらって「さあ、頑張ろう」といつも思っていた。
特に彼女の諦めない心、なんで世の中は不平等なんだろういう疑問をいつも持っているところが、自分にはないところで「仕方がない」と諦めていた自分に気がつかされた。
それと、ディーン・フジオカさんの伍代友厚がとてもかっこよくて、いつも目の保養になった。
最近、朝ドラの再放送があったのだが、それを見ても色褪せてなく出演者も製作の方もすごいなと思った。
何回も書いていますが、 男尊女卑の考え方が今よりもまだまだ強い時代の中、それも幕末の動乱期の中で、自分の生き方をまっすぐに貫いた方だったからだ。
私も女性の一人だが、できそうにないとはじめから諦めてやらなかったことはたくさんあった。
私の場合女性だからということもあるが、障害者だから車いすだからということが大きかったからだと思う。
ただ、浅子は、当時の豪商の家の出身だから、偉業がなしえたのかもしれないが、お金がなくても挑戦できることはたくさんあると思うので、 やっていきたい。

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