日本の偉人

聖徳太子の生涯・理念から学ぶ、日本の生き方と未来

画像出典:wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/聖徳太子)

こんにちは。大学で古代の歴史と文化財を専攻しているモノスケです。今回は聖徳太子について語りたいと思います。

聖徳太子の概要

聖徳太子は、飛鳥時代の天皇家の一人で、用命天皇の第二皇子である。
推古天皇の摂政として政治を助け、古代日本の国づくりに尽力した。

当時大陸から入ってきたばかりの仏教を厚く信仰し、大陸式の政治方式を次々に取り入れた。
また、一部の豪族が利を得ることが無いように天皇中心の国家を作り上げた。

その生涯はまさに日本の礎を築いたといっても過言ではないであろう。
現代人が学ぶべき聖徳太子の政治・精神とは

  1. ひとりだけが得をしない
  2. みなで考える、和をもって貴しと成す、日本的精神の礎
  3. リスクを負いつつも、新しいことを取り入れる先見の目

では詳しく書いていきたい。

聖徳太子の生涯

聖徳太子は、574年2月2日に用命天皇の第二皇子として生まれる。
母は欽明天皇の皇女穴穂部間人皇女。

良く知られた聖徳太子という名前は、死後に付けられたいわば送り名であり、当時は厩戸王(うまやとおう)ないし厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれた。

これには馬小屋の前で、母である穴穂部間人皇女が産気づき、聖徳太子を生んだからとされる。

聖徳太子の生まれた時代は、日本が大陸から倭と呼ばれていた時代で様々な豪族が力を持ち、争いが起こるなど、国家としては不安定な時代でもあった。

日本に仏教が入ってきた時代でもあり、仏教の受容、排斥を巡っての豪族間の争いは大きいものであった。

特に仏教を排斥する物部氏と、受容する蘇我氏の二大豪族の対立は決定的となり、国家の運営に大きなみぞが生まれた。

この二大豪族の争いは激化の一途をたどり、聖徳太子の父である当時の天皇、用命天皇ですら手をつけられないほどであった。

結局、両者の溝が埋まることは無く、用命天皇は587年崩御してしまう。
その後、皇位継承を巡って両豪族はついに武力衝突した。

この闘いに聖徳太子も蘇我氏側として参加し、四天王の像を作り、「この闘いに勝ったら四天王を祀る寺を建立する」と約束し、見事この闘いで物部氏を打ち破った。

四天王寺

その後、崇峻天皇が即位するも意見の対立により蘇我馬子に暗殺される。

次に即位したのが推古天皇であり、聖徳太子は摂政として政治に参加した。
その主な活躍は

  • 四天王寺や法隆寺の建立
  • 十七条憲法の制定
  • 遣隋使の派遣

など大陸式の政治方式や仏教等の外来文化を取り入れたことだった。

また、当時アジアで最大の力を誇った「隋」にも臆することなく、対等な関係での外交を行い、日本のアジアでの地位を確立させた。

そして聖徳太子は、住処を政治の中心地である飛鳥から斑鳩(いかるが)に移した。

これには蘇我氏との不和、より海外の情報を取り入れるため港(現在の大阪)に近い場所を選んだ、など様々な理由が見受けられる。

そして622年、斑鳩宮で聖徳太子は亡くなる。
49年の人生であった。

聖徳太子から学ぶ、現代に足りない大切なこと

1)十七条憲法…礼の精神・私利私欲の抑制etc

聖徳太子の政策のひとつに十七条憲法の制定が挙げられる。
これは聖徳太子の目指した国つくりの理想である。

誰もが聞いたことのある「和をもって貴しと成す」は有名な一文である。

その他にも噛み砕いていえば、仏教信仰の奨励、礼の精神、私利私欲の抑制、職権乱用の防止など、国づくりの根幹に関わるものばかりが載せられている。

聖徳太子の見てきた豪族同士の争いは国を混乱させ、政治の停滞を招いた。
そんな時代を生で見た聖徳太子だからこそ考え出した国のあり方なのであろう。

この十七条憲法に書かれた言葉こそ、現在の日本に足りない要素なのではないか。

政治家の腐敗や企業の不正問題は毎日のようにニュースに流れる。
私利私欲に走り、履き違えた自由は全体を滞らせる。
まさに聖徳太子が若かりしころの状態なのではないだろうか。

十七条憲法から現代日本人が学ぶものは多いだろう。

2)聖徳太子の先見性と先達に学ぶ精神

聖徳太子は当時入ってきたばかりの仏教を取り入れた。
現在にも残る四天王寺や法隆寺はその代表的なものである。

仏教の受容は大陸文化の流入であり、当時日本が大陸の国々と対等な関係を持つために必要であった。

寺の建立などにより、日本の文化的な技術は飛躍的に向上した。

これにより、大陸の大国から見ても「東の小国」ではなく、対等な関係を築く礎となった。

やはり国の文化レベルは国全体のレベルとして外国人に見られてしまうのだろう。
これは現在でも変わらないもののひとつだ。

聖徳太子を偲ぶ場所

法起寺

聖徳太子のことについて知りたいのならば、やはり本人が活躍したその地に足を運んで見ることだ。

幸いにも聖徳太子は多くのものを後世に残した。
その代表的なものが寺院である。

有名なものは奈良県斑鳩町の法隆寺である。
世界最古の木造建築として有名な法隆寺は、聖徳太子が飛鳥から移り住んだ斑鳩宮の中心地であった。
古代日本の仏教を肌で感じられるスポットである。

法隆寺

当時、聖徳太子がどのような思いで国づくりに尽力されたか感じるものがあると思う。

また、近隣の関係する寺院として法起寺、法輪寺があげられる。
斑鳩観光の際にはぜひ巡りたいスポットだ。

斑鳩には聖徳太子が取り入れた大陸からの文化が至るところに見受けられるので、ぜひ古代の大陸文化にも触れていただきたい。

そして、もうひとつの寺が大阪の四天王寺だ。
こちらは聖徳太子が物部氏との戦いの際、四天王に勝利を誓願し、その戦勝の約束に建立された寺だ。

七夕の四天王寺

法隆寺とは違い、戦火や災害などにより飛鳥時代の建造物は焼けてしまい、残ってはいないが、巨大な伽藍は必見である。

建物は新しくとも、飛鳥時代の古い寺の様式を守って造ってあるため、当時の姿に近いのは、むしろ四天王寺かもしれない。
法隆寺と合わせて巡りたいスポットだ。

近隣を訪れる際にはぜひ立ち寄り、聖徳太子とその時代に思いを馳せて見てはいかがだろうか。

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