こんにちは。
偉人ライターのえいじです。
今現在でも幅広い所で信仰されている日蓮聖人。
その生き様・歴史を知る事で、尊敬の念を抱き、自分の人生においての考え方などを学ぶ事ができます。
私が日蓮聖人から学んだ事は、人に教えを広める為には自身の行動で示し、信念を変えずに一途に突き進むべきだという事を学びました。
会社での地位が高くなっても、態度だけ大きく怠けた行動をしていては部下も付いて来ないと思います。
考え方も同じで、都合の良いように意見を変えていては周りの人間は不信感を抱いてしまいます。
信念を曲げずに進んでいくと妨害される事もあるかもしれませんし、その考えを受け入れない人も出てくると思いますが、結果的に賛同してくれるはずだと思いました。
日蓮聖人だけではなく、その他の歴史上の偉人達も日蓮聖人と同じような境遇だった人も多いと思います。
その当時は受け入れられない出来事でも、現在に伝わる歴史としては称賛される働きをしていた話が多々あると思います。
私自身は、日蓮聖人の歴史を通じて一途に物事を成し遂げる気持ちを学ぶことができました。
日蓮聖人の生涯の軌跡
1222年(貞応元年)2月16日(旧暦)、日蓮聖人は安房国長狭群の東条郷片海(現在の土地で千葉県鴨川市)に生を受け、幼い時は善日麿という名で呼ばれていた。
1233年(天福元年)、日蓮聖人が12歳の時に清澄寺に向かい師である道善房のもとへ入門し、1238年(暦仁元年)に出家して是生房蓮長の名を与えられる。
1245年(寛元3年)に比叡山定光院に住し、俊範法印に就学する。
1246年(寛元4年)に三井寺、1248年(宝治2年)に薬師寺と仁和寺、更に高野山五坊寂静院、1250年(建長2年)に天王寺と東寺と各地で遊学した後、1253年(建長5年)に清澄寺に帰山する。
清澄寺に帰山した年の4月28日の朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、同日の正午に名を日蓮と改め、清澄寺の持仏堂で初説法を行います。
1254年(建長6年)に清澄寺を退出し、鎌倉にて辻説法を始める。
1258年(正嘉2年)に実相寺にて一切経を閲読。
1260年(文応元年)7月16日に立正安国論を著し、前執権で幕府の最高権力者である北条時頼に送り、
立正安国論が健白されてから40日後、念仏批判に恨みを抱いた他宗の僧らにの手により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れた。
これを松葉ヶ谷法難と言います。
1261年(弘長元年)5月16日、日蓮聖人に反感を持つ者が日蓮聖人を陥れようと有りもしない事柄を作り上げられ、幕府に捕らえられて伊豆に流される。
これを伊豆法難と言います。
1264年(文永元年)、伊豆流罪が免じられた後に説法をするために弟子と歩みを進め、東条の松原の大路を通りかかると、その地の地頭で念仏を信仰している東条景信に襲われ、弟子が討ち取られて日蓮聖人も額に傷を負わされてしまう。
これを小松原法難と言います。
1272年(文永8年)、幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場で処刑されそうになりますが処刑は中止になり、その後に佐渡流罪になる。
これを龍口法難と言います。
処刑されなかった理由は諸説あると思いますが、光を放つ物が飛んできて処刑人の刀を折り曲げ、目を眩ませたるという現象が起こり、兵士を恐れさせたのが原因で処刑は中止になったという話です。
1272年(文永9年)2月に流罪先の佐渡にて開目抄を述作、翌年の4月に観心本尊抄を述作し、7月8日に大曼荼羅御本尊を初めて書き顕示する。
1274年(文永11年)4月8日、佐渡流罪より赦免され鎌倉に戻った日蓮聖人は、平頼綱から蒙古襲来の予見を聞かれ、日蓮聖人は「よも今年はすごし候はじ」と答え、同時に法華経を立てるよう幕府に三度目の練暁をおこなうも幕府は聞き入れなかった。
同年5月17日、波木井実長の招きで山梨県にある身延山に入り、身延山久遠寺を開山し、法華経を末法の世になっても伝えていくために弟子や信徒の育成に務め、大勢の弟子や信徒と共に法華経の講義や唱題修業に精進した。
1282年(弘安5年)9月8日、持病のある体を癒すために身延山を下山し、常陸へ向かうも容態が悪化して武蔵国池上宗仲邸にて休息をとる。
その地で命の限りが僅かなのを予感した日蓮聖人は、本弟子6人を定めて法華経流布に精進する事を命じる。
同年の10月13日、享年61歳、池上宗仲邸にて入滅する。
上記が私の知る上での日蓮聖人の生涯です。
日蓮聖人の人柄
私が思う日蓮聖人とは、とても頑固な心情を持った人物だと思います。
決して悪い意味ではなく、自分が信じている事に対しての一途な気持ちがあるということです。
信心を広める為、自分の人生の全てを賭ける姿には尊敬してしまいます。
自分の意見が少数派だったとしても考えを曲げる事なく、不当な罪を受けても世の中を見捨てない姿勢はとても真似ができません。
言葉だけではなく、行動で示している日蓮聖人の人柄に弟子も着いて来るのでしょうし、現在で言う理想の上司といった人柄なのではと思います。
この一途な頑固さは、歴史に名を残す偉人に共通する性格なのかもと思っています。
日蓮聖人の魅力的なエピソード
私が日蓮聖人に関心を持ち始めたのは、親しい友人から聞いた話がきっかけです。
私自身は無宗教で友人が宗教に携わっていたのですが、友人の話では「日蓮聖人が打ち首の刑になり、処刑させる間際に日蓮聖人の体が光り輝き、処刑人や立会人たちを怯えさせて処刑を免れた」という話でした。
後から調べてみると、友人の話は龍口法難の事なのだと思いました。
このファンタジーのような話を聞いた時に興味を持ち始め、自分で調べたり友人から詳しく話を聞いたりするようになりました。
龍口法難以外にも、ファンタジーに思えるような話が要所要所で伝えられていますので、そういった目線で日蓮聖人という人物を知るのも違った楽しみ方の一つだと思います。
日蓮聖人に関する観光スポット
私自身は宗教を信仰している訳ではなく、日蓮聖人を教祖とする宗教団体は様々あるとは思いますが、観光スポットという観点から紹介する場所は静岡県富士宮市にある大石寺です。
大石寺は日蓮正宗の総本山で、防犯上で一部立ち入れない所もありますが、それ以外の境内の散策や見学などは自由にできますし、木々の緑が溢れる自然が豊かな所なのでリフレッシュ効果がある観光スポットだと思います。
近くに富士山が拝めますし、歴史を感じさせる建造物もありますので、目で楽しめる絶景スポットにもなっています。
最近では、色々な神社を参拝する方も増えてブームにまでなっていますので、お寺の方にも脚を運んでみるのも楽しめるかと思います。
まとめ:日蓮聖人は革新者だった
日蓮聖人について私の知る限りの事を書いてきましたが、一人の偉人の歴史を調べてみると他の歴史上の偉人と共通する部分が見えてきました。
共通点としては、革新的な考えを持った人物は受け入れずらく、権力など力に淘汰されてしまうという所です。
織田信長も家臣に裏切られ、坂本竜馬も幕府に追われるなど、革新的な生き方をしている人間は危険と隣り合わせの人生を歩んでいると思いました。
日蓮聖人もその中の一人なんだと思います。
誰にでも出来る訳ではない事を成し遂げようとしているので、そういった生き方をしている人間は偉人として語り継がれますし、その人物に魅力を感じてしまうのだと思います。