ギリシャの偉人

プラトンの描いたソクラテスの生き様と死に様

てっこ(女性・20代前半)

ソクラテスの生涯

ソクラテスは、ギリシャの都市国家アテナイ(アテネ)に生まれ、アテナイに死す。

ソクラテスはB.C.399年に毒杯を仰ぎ、70年の生涯に幕を下ろした。

アテナイ市民らによる民主的な裁判で下された判決だった。

大罪を犯した訳でもない彼は、なぜ死ななければならなかったのだろうか?

ただのおじさんだった?市井のソクラテス

今でこそ、ブッダ・孔子・キリストと並び四聖のうちに数え上げられるソクラテス。
だが、おそらく当時のアテナイ市民にとっては、変な事をやっている市井のおじさんに過ぎなかった。

道行く人を掴まえては「正義とは何だろうか?」「善とは?」「勇気とは何かね?」などと問う。

訊かれた側は「戦いの場で命を惜しまないことでしょう」などと答えるが、「しかしそれは勇気の一例であって勇気そのものではない」と、ソクラテスはあくまでも本質を問おうとする。

自分は知らないから教えてもらえないか、と。

知っているつもりで得意げに答えた人も、追及によってついには答えに窮してしまい、知識人であるはずの政治家や詩人でさえ、公衆の面前で鼻を挫かれた。

そんな大人気ないような奇矯な振る舞いをしていた訳だが、彼の意図は何も、皆に恥をかかせる事ではなかった。

ただ「ソクラテス以上の知者はいない」という、当人にとっては信じがたい巫女の神託が本当かどうかを自らの手で検証する為だったという。

少なくとも、彼の問いに十分な答えを出せた者はいなかった。

そこで彼は、自分も知らない事だらけだが、他の人より賢いとすればそれは「自分が何も知らないという事を自覚している」という一点にあるのだと言った。

また彼は無知を暴くというだけではなく、対話によって相手の知を導き出すという事も行った。

その概要とは、講義や書物に書かれた文章のように一方的に自分の知識を教授するのではなく、相手が自身の理性の力によって新たな認識に至れるよう手助けするというものである。

彼はそれを母親の職業である助産師になぞらえて「産婆術」と称した。

ソクラテス、真逆のソフィスト

スパルタとのペロポネソス戦争の頃からアテナイの評議会ではデマゴーグ(煽動政治家)が現れるようになり、民主制の中においては弁が立つほど指導的な立場に成り上がることができた。

そのような政治的背景から、相手を説得するための弁論述を教えることで報酬を得るソフィストという職業知識人が重宝された。

ソフィスト達は地中海各地のギリシャ植民都市からアテナイを訪れた。

様々なポリスを巡り、広い知見を持っていた彼らは必然と言うべきか、相対主義的な考え方をする者も多かった。

プロタゴラスの「人間は万物の尺度である」という思想に代表されるように、個人本意の主観主義は絶対的な真理や徳、普遍的な価値を否定し、それらは存在しないか知り得ない、あるいはさほど重要ではないとした。

そんな詮なき事よりも当面必要なのは、世間的な成功を得る術である。

自分の思うままに政治を動かす為の弁論、及び相対主義に欠落していたのは徳と真理であり、それらはソクラテスが最も重視していたものだった。

ソクラテス、裁判にかけられる

問答をふっかける事により様々な人の恨みを買ったソクラテスは、ついに裁判に訴えられてしまう。

罪状は、「国家の認める神々を信じず、若者を堕落させた」というもの。

前半については、ソクラテスが自身の心の内でダイモン(鬼神)の声が聞こえると周りに話していた所為であったが、これは良心の声であり、むしろ彼は神々に対して崇敬の念すら抱いていた。

後半の理由については、ソクラテスが街中で知識人の無知を暴いていくのを面白がった青年たちがそれを真似したからである。

裁判は二段階で、原告・被告の弁論の後、まずは有罪か無罪かの投票が行われ、有罪なら次に刑量の決定が行われる。

自分の弁明の番になるとソクラテスは、彼に対する批判が的外れであることや、告発者の訴えの矛盾を丁寧に指摘していった。

さらには、自分の行いは神に与えられた使命だとし、これを放棄することは神命に背くことである、よって従来の姿勢を変える事はできないとまで断言した。

500名の陪審員による投票の結果、ソクラテスは有罪になった。

被告として刑量の提案を求められると彼はこのように答えた。

「自分は何も不正を行っていない。むしろ人々に善良で賢くなるよう促すという国家の為になる事をしたのだから、それにふさわしい処遇は迎賓館での饗応だ」と。

これには一同唖然とし、しおらしさの欠片もない態度に反感は決定的なものとなった。

そして票決により、刑量は原告の主張した死刑となる。

友人・クリトンの説得

原告側も陪審員たちも、当初はこのような結末になるとは思っていなかったのではないか。

目障りなソクラテスが裁判を機に反省し大人しくなればいいと期待していたくらいで、信念を曲げず、死すら恐れずに堂々と弁論を展開するとは予想していなかっただろう。

彼の友人は資金面などの協力を申し出て、脱獄を手助けしようとした。

法はそれほど厳格ではなく、ポリスから出て行きさえすれば処刑は免れられたのである。

だがソクラテスはその提案を退けた。

自分は今に至るまで、移住する自由があったにも関わらずほとんどをアテナイで暮らしてきた。

それは即ち国家の法律に同意してきたという事であり、それをここに至って破るのは不正義に違いなく、自身が今まで説いてきた善き生き方に反するものである。

彼の固い信念により友人は逆に説得されてしまい、引き下がるしかなかった。

論理的かつ倫理的な思考とその実践が、この最期に集約されていると言っても過言ではないと思う。

自らの信義の為に死を選んだ、まさに四聖に列せられる所以である。

ソクラテスは変な人(良い意味で)

美徳や正義を重んじ、こんな生き方を貫いた彼だが非の打ち所のない聖人君子という訳ではなく、兵役で戦場に出たこともあれば、酒も呑むし(しかも酒豪)、所帯持ちで (しかも恐妻家)、美少年好きである。

そんな俗っぽさと類まれなる哲学者というギャップがまた、面白くて親しみやすい。

真面目なのかとぼけているのか分からないカマトト賢者ぶりや、人心の退廃を憂えていたり。

かと思えば自分の身の上に関しては飄々としている、明瞭なようで謎めいた、そんな多面性も彼の魅力である。

現代における哲学の意味

プラトンは数々の著作で、時には自らの思想を託す存在としてソクラテスを登場させた。

師の処刑に直面したプラトンの民主制に対する懐疑は、今の時代においても切実である。

独裁者も間違うが、民衆も感情に流されて選択を誤る。

真実や合理性よりセンセーショナルな言葉に耳目が集まるのは今も昔も変わらない。

原始的な感覚を刺激する情報の中でいかに誠実な議論ができるか、いかに良識的な判断ができるか。

文献の中のソクラテスは二千年の時を越えてもなお、アイロニカルな言動で私たちの生き方を問い直している。

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