日本の偉人

杉原千畝の生き方・名言に学ぶ「人として当たりまえのことをする大切さ」

やすもとあき
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こんにちは。偉人ライターのやすもとあきです。今回は、6000人の命のビザを発行した外交官、杉原千畝の生き方・名言に学びましょう。「

 

第二次世界大戦においてナチス・ドイツによるユダヤ人の迫害および大虐殺が行われた。

1933年にアドルフ・ヒトラーが首相に就任すると、すぐにユダヤ人排斥運動が始まり、当時ドイツにいたユダヤ人は仕事を奪われ、財産は没収され、ユダヤ人に対する暴行や略奪も頻発した。

その後市民権まではく奪されたユダヤ人は、1939年第二次世界大戦が始まる頃にはもはや人として扱われず、ユダヤ人収容所であるゲットーへと追い込まれていった。

ゲットー内でもドイツ兵による暴行や銃殺が横行し、脱走しようとした者や、労働力の無い老人や女性、子供の大半は、やがてアウシュビッツなどの絶滅収容所に送られる。

ドイツの非人道的なやり方は世界各地に知れ渡っており、リトアニアのカウナスに赴任していた杉原千畝もそれを把握していた。

その杉原のもとに、ビザの発行を求める大勢のユダヤ難民がわらをもすがる思いで押し掛ける。

杉原千畝が発行したビザ

ドイツ軍に捕われればもう命は無いも同然。

ビザの発行は、経済力などの条件を十分に満たしていないと許可されなかったが、大半のユダヤ難民は着の身着のまま逃れてきた者達だった。

当時リトアニアを支配していたソ連から、カウナスから早々に退去するよう要求がくるなか、眼前に助けを求めて群がるユダヤ難民。

限られた時間のなかで、外交官杉原千畝は歴史に残る尊い決断をする。

 

杉原千畝の生涯・行動・名言

日本人の誇り—杉原千畝とは

杉原千畝(すぎはらちうね 1900年(明治33年)1月1日 – 1986年(昭和61年)7月31日)は、第二次世界大戦中リトアニアのカウナス領事館に赴任していた日本の外交官である。

ナチス・ドイツの迫害から逃れるため、ポーランドをはじめとする欧州各地から避難してきたユダヤ人に、当時の日本の外務省の訓令に反し、大量のビザを発行しおよそ6,000人もの命を救った人物。

俗に「東洋のシンドラー」とも呼ばれている。

 

杉原千畝の生い立ち

杉原千畝顕彰碑(早稲田大学)

杉原千畝は大変な努力家であった。

杉原の父は息子に医師になることを望んでいたが、杉原はそれを嫌がり、英語の教師を目指して勉学に励み早稲田大学に進学する。

しかし親の意思に反した進学だったため、仕送りも受けられず、アルバイトをして凌いでいたものの、やがて生活苦に陥る。

そんななか、外務省留学生試験というものがあることを知り、公費で勉強ができるとわかった千畝はその試験に向けて猛勉強を始めた。

そして見事合格する。

その後早稲田を中退し、1919年、日露協会学校(のちのハルビン学院)に入学する。

外務省の官費留学生として、当時重要視されていたロシア語を学ぶ。

その後同校の特修科を優秀な成績で修了し、1924年には外務省書記生として採用される。

1932年にハルビンの日本総領事館にいた杉原は、満州国の外交部に出向し、ロシア語の堪能さを買われ、対ソ連との北満州鉄道譲渡交渉を担当しその交渉において大きな成果を上げる。

このハルビン在職期に、さまざまな反ユダヤ活動や関東軍による事件を目の当たりにし、それらの非人道的な行いに疑問を抱くようになる。

 

そうした経験を経て1937年にはフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館へ、1939年にはリトアニアの在カウナス日本領事館へと赴任する。

そして第二次世界大戦が既に始まっていた1940年7月、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃れてきたユダヤ系難民が杉原のいる日本領事館に押しかけ、迫害から逃れるためにビザの発行を求める行列をつくる。

杉原は日本の外務省に難民の現状を伝え、要件を満たさない難民にもビザの発行許可を求めるものの、外務省はあくまでも訓令に従うよう指示するのみであった。

そして当時リトアニアはソ連の占領下にあり、各国の在リトアニア領事官や大使館に早々に閉鎖し撤退するよう求めていた。

リトアニアに居られる時間も限られているうえ、全難民に発給許可が下りないという状況で悩んだ杉原は、意を決して要件を満たしているか否かに拘らず全ての難民にビザを発行し始める。

のちに「命のビザ」と呼ばれるこのビザによって、およそ6,000人ものユダヤ人の命が救われた。

杉原千畝の生き方ー助けたい一心で決断・行動した

カウナスの旧日本領事館

苦学のすえ難関試験を突破し外交官になったことや、その後優秀な対ソ連のスペシャリストとして活躍したことだけでも尊敬に値するであろう。

そして無償で人を助けるということは、そう簡単にできるものではない。

戦時中の緊迫したなか、場合によっては自分や家族の生活、命さえも危険にさらされる可能性もあったのだ。

ソ連から早急に領事館を閉鎖し退去するよう迫られる一方で、目の前に連日群がるユダヤ難民。

「できる限り多くの人を助ける」決意をした杉原は、退去期限が過ぎてもカウナスに居座り続け、寝る間も惜しんでビザを発行し続けた。

ワープロさえなかった時代、ビザは手書きだ。

手を酷使したためペンが握れなくなるほど手を痛めた。

それでも、カウナスを去る当日、列車が出発するまでビザ発行をし続けた。

最後の「命のビザ」は列車の窓から手渡されたという。

当時のことを杉原は、人として到底見捨てることなどできなかったという風に述べている。

杉原千畝の名言

「大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです」

「私のしたことは外交官としては、間違ったことだったかもしれない。しかし 私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった」

古き良き日本の「当たりまえ」の行い

筆者が杉原を尊敬している理由は、ひとえに自身を顧みず無償で他人を救ったからである。

そして杉原ほど一般的に知られてはいないが、元日本陸軍の軍人、樋口季一郎、東条英機など、多くのユダヤ難民を救った日本人は他にもいる。

ユダヤ人だけではない。

過去をさかのぼれば、トルコ人の命を日本人が救ったエルトゥールル号遭難事件などもある。

日本でオスマン帝国の船が沈没した際、遭難したトルコ人を、民間の人達が自身も物資不足で大変ななか救ったのだ。

これをきっかけにトルコは親日国となった。

上記に挙げた人々はかつての古き良き日本の平均的日本人であったのだろう。

勤勉で真面目、そして目の前の困っている人を助ける。

当時の日本はそれが「人として当たりまえ」のことであったのだ。

 

もはや比べることさえ無理があるが、お年寄りに席を譲るか否かの議論が平然となされる昨今、私達はかつての日本人が「当たりまえ」にしていたことを改めてお手本とすべきではないだろうか。

 

杉原千畝記念館、岐阜県で偉人をしのぶ場所

杉原生誕の地といわれている岐阜県加茂郡八百津町には杉原千畝記念館があり、観光スポットとして有名である。

杉原が命のビザを発行したリトアニア領事官執務室の部屋を再現したものや、ホロコーストの惨状、杉原が救ったユダヤ難民がその後どうなったのかがわかる資料室もあり、見どころ満載だ。

お墓は神奈川県鎌倉市にある鎌倉霊園にあり、そこに杉原は眠っている。

2017年2月にはイスラエル官僚が墓参りをしており、官僚による参拝は初めてだったので話題になった。

映画 杉原千畝

2015年、唐沢寿明さん、小雪さんが主演した映画が公開された。

タイトルはそのまま「杉原千畝」である。私はまだ見ていないが「日本が誇る偉人」「支えた奥さんも素晴らしい」と評価が高いようだ。

 

杉原千畝まとめ

イスラエル訪問中の杉原千畝(左、右は四男の伸生氏)

今でも日本の文化、日本人の振舞いや行いは世界中で高い評価を得ている。

災害時の日本人のモラルの高さは海外のメディアでも取り上げられるほどだ。

これらみな、私達の偉大な「先輩達」が築き上げてきたものなのである。

その貴重な誇り高い文化を、これからも保っていくべきではないか。

別に偉業を達成しなくてもいい、日々の生活のなかで、困っている人や弱い人がいたら助ける、手を貸す。

それを心掛けようではないか。

かつてはそれが当たり前だったのだから。

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