小学生のころから日本史に始まり世界史までいろいろな本を読んで楽しんできました。
今回は、津田梅子の生涯・彼女の遺した志をご紹介します。
津田梅子の概要
津田梅子と言えば、かの津田塾大学の創立者である。
彼女は現代でいう「おひとりさま」のキャリアウーマンだ。
結婚して家庭に入ることが当たり前の時代で、表舞台でキャリアを形成することがなぜできたのか。
今の時代も女性の「結婚」と「おひとりさま」という人生が比べられる中で、それよりもずっと前に生きた彼女の「結婚をしない」という選択をした人生を紹介する。
ターニングポイントは…
- 6歳からの11年に渡るアメリカ留学…当時では珍しい高等教育を受ける機会を得たこと
- 帰国・伊藤博文との再会…
- 自分自身のみの学びだけに満足しない…日本の女子高等教育の重要さを意識し、その確立を目指したこと
であった。では順に見ていこう。
津田梅子の生涯と人柄
1)津田梅子の生涯
1864年、士族・洋学者の津田仙の二女として現在の東京都新宿区に生まれた。
当時、政府軍参謀として活躍した黒田清隆は、訪米した際に見聞したアメリカの女性たちの教育レベルや地位の高さに感銘を受け、日本の女子留学を提案していた。
その制度を受け、1871年12月、梅子はわずか6歳という最年少で、他の4人の少女たち、欧米視察に向かう岩倉使節団と共にアメリカに渡る。
アメリカに渡った梅子は学校へ通い、1882年、10年間の留学に加え、自らの意思で1年間のアメリカ留学の延長を選択し、高校卒の資格を得た。
同年に日本へ帰国するが、幼いころからの英語に囲まれての生活で、日本語は母語ではなくなってしまっていた。
故郷であるはずの日本で、言葉も文化もわからない。
そんな中、帰国後の仕事も見つからない。
留学し、学んだ彼女たちでも、日本にはまだ高等教育を受けた女性の受け入れ態勢が整っていなかったのだ。
これは現代でも重なる部分がある。
学歴のある現代女性の受け入れ態勢は、果たして男性と同じく平等に整っていると言えるのか。
まだ課題は残っていると言わざるを得ないのである。
1883年、梅子は岩倉使節団のメンバーであった伊藤博文と再会する。
彼女は伊藤宅に住み込みをしながら、英語通訳と家庭教師を兼ねることになった。
翌年の1884年には家族子女を対象とした桃夭女塾の英語教師として働き、さらに翌年には華族女学校の英語教師を務める。
しかし梅子はその職のみでは満足せず、周囲に「結婚」をしきりに勧められる中24歳で再びの渡米を決め、ブリンマー大学で生物学を専攻し、日本女子として初めて科学論文を書き上げた。
現職に満足せず、向上心を持ち生きることは、人生を豊かにするための一つの手段である。
1992年に帰国してからは再び華族女学校の教授に戻った。
1898年には女子高等師範学校教授も兼任。
1900年には在米中からの夢であった日本の女子高等教育向上のための私塾、女子英学塾を開校した。
雇用される立場から、自らの志と「日本女性の自立」のために津田梅子は独立した。
2)津田梅子の人柄
アメリカで成長した梅子は日本の結婚観を受け入れられず、「結婚してこそ」の女性の人生を拒んでいた。
女子英学塾での梅子の授業は少人数制の個性を大切にするというスタンスを持った先進的なものだったが、教え方は厳しく、生徒からは鬼教師とも考えられていた。
津田梅子から理念・名言から学ぶ
1)教育理念…「男性と協同して対等に力を発揮できる女性」の育成
世の中は男性だけで構成されているわけでも、女性だけで構成されているわけでもない。
男性・女性どちらもが日本で活躍するためには、力を発揮できる女性が今よりも増える必要がある。
仕事・家庭・教育などの場面で、男性だけでは難しいこと、女性だけでは難しいことは必ずある。
しかし男性が女性と、女性が男性と対等に協力して、仕事や家庭、教育に当たれた時には、日本の社会はもっと進化できるということに気づかなければならない。
2)「環境より学ぶ意思があればいい」…道は自分で切り開ける
現代女性でも、今の職や職場、家庭環境について何かを諦めていたり、不満に思いながらも立ち止まり、歩を進められないでいる人は多い。
心の底では仕事や家庭でもっと高められるものがあると思っていても、「誰か」や「何か」のせいにしてしまうことは忙しい現代女性のことを考えても仕方がないものはある。
しかし、せっかくなら自分の納得のいく女性としての人生を送りたい。
諦めているのが自分の気持ちによるものなら、ほんの少しでも自分の意思を持って前に進み、挑戦する勇気を持つことで成し遂げられるものはあると津田梅子は体現している。
3)「高い志と熱意を持ち、少数だけでなく、より多くの人々との共感を持てれば、どんなに弱い者でも事を成し遂げることができるでしょう。」…成功の秘訣
独身女性でも、結婚している女性でも、自分自身で志を持ち、周囲の人々と協力しながらこの日本という社会で生きていくことは、女性としての人生を作り上げるための選択肢の一つである。
津田梅子のように自分自身を確立し、自分はこうしたいのだと自分の人生にとって大切な部分は曲げない。
意固地になるのでも、卑屈になるのでもない。
ただその志を実現するのに1人では難しいなら、誰かに協力を求めるのは必要なことだ。
自分自身の考えや気持ちを共有してもらい、自分も共有すること。
これを意識して今の生活に生かすと、仕事も、家庭も、人間関係も、不思議とうまくいくのではないだろうか。
津田梅子をしのぶ
津田梅子は生涯独身を貫き、64歳で亡くなった。
彼女は自分の夢と日本の女性の将来を思い続けた人である。
今や日本の女性は仕事において雇用されること、結婚し家庭に入ることだけが選択肢ではない。
梅子が生きていた時代よりははるかに選択肢は広がっただろう。
1人の女性として、私もいつも考えている。
自分の求める人生で、何か目標は持てているだろうか。
たまに休憩しながらも、退くことなく仕事や家庭、人との関係で「もっとこうしたい」という気持ちは実現できているだろうか。
「おひとりさま」という選択肢も悪くない。
結婚しないという選択肢は、孤独とは違うのである。
今、私は前職の経験を活かしながら独立するための準備をしている。
梅子のように、人生で出会った人からアドバイスをもらったり、サポートを求めたりする機会はぐんと増えた。
要は人脈を大切にしながら自分の目標に向かって進んでいるわけである。
自分の目標を定め、達成するために学び、実現するために行動すること。
かつて梅子が生きた人生は、現代でも通じる。
結婚適齢期と言われる年齢になって、周囲から結婚をせっつかれていたり、周囲が結婚して焦っている女性は多い。
そんな時、女性としての気持ちも、仕事への情熱も、友人や家族との関係も、時にはぐちゃぐちゃになってしまうこともある。
けれどそんな時、津田梅子という1人の女性を思い出してほしい。
今よりもっと昔、もっと女性の人生の選択肢が狭かった時代にこんなバイタリティあふれる女性もいたんだぞ、と。
「自立」している女性ならば、結婚している女性も、結婚していない女性も、何かを成し遂げられる成功者になれる。
津田梅子は志と信念を曲げずに、いち日本人女性としての人生を生き抜いた。
彼女の遺志は今も津田塾大学と名を変えた教育現場で受け継がれている。
物凄く、感銘を受けました。
ありがとうございます。
私は助産師をしています。
まだまだ自分は二の次、三の次とすることが美徳とされる、日本の母親像に苦しむ方を沢山見てきました。
日本の女性が自分の人生を生きれるような社会や価値観を築いていきたいです
あいちょ様
コメントくださりありがとうございます。
あいちょ様の助産師として、そして津田梅子さんの意志を継ぐ方として、今後のますますご活躍を祈念いたします。