フランスの偉人

人々に勇気と理性をもたらしたフランスの思想家ヴォルテール(フランソワ=マリー・アルゥーエ)

なか太郎(男性・20代後半)
私が大好きなヴォルテールは、当時の人々に勇気と理性をもたらした思想家。ここでは、ヴォルテールの人となり、偉業などをまとめてご紹介します。

“寛容”の人、ヴォルテール(フランソワ=マリー・アルゥーエ)

ヴォルテールことフランソワ=マリー・アルゥーエは1694年にフランスはパリの裕福な公証人の家に生まれた。

虚弱ながら幼いころから天才の片鱗を見せていた彼は、自由思想家たちが集うサロンによく連れられていった。

ヴォルテールが活躍した18世紀フランスはアンシャン・レジーム(旧体制)渦巻く負の時代で、貴族や聖職者たちの不正・圧政に民衆は苦しめられていた。

また、フランスではカトリックによる新教徒に対する迫害が公然と行われてもいた。

そんな時代にヴォルテールはフランスにはびこる不正・狂信・特権を批判し、宗教を超えた寛容の精神を唱え続けた。

たとえ国を追われようとも彼は自由を求め続け、その精神は後のフランス革命にも大きな影響を与えることとなった。

ヴォルテール、その自由思想

ヴォルテールが注目を浴びるようになったのは、詩人として風刺誌を書き始めてからである。

ルイ15世の摂政オルレアン公の奔放な私生活を風刺した詩を発表したかどで、ヴォルテールはバスティーユ牢獄に投獄される。

しかし彼は獄中で、悲劇『オイディプス王』を書き上げ、出獄した翌年に国立劇場で取り上げられ、大成功を収める。

文学者としての成功の一歩を踏み出したこの時から、彼はヴォルテールと名乗り始めた。

社交界に躍り出たヴォルテールだが、そこで身分社会の差別の現実を身をもって知ることになる。

ヴォルテールはとある名門貴族と些細なことから口論し、相手を打ち負かした。

数日後、友人の家で歓談していたヴォルテールの元に突然その貴族がやってきて、下僕たちに命じて彼に暴行を働いた。

ヴォルテールが殴られている間、友人たちは彼を助けようとはしなかった。

フランスにおいて文学者などは社交界の盛り立て役でしかないのだ。

自分を痛めつけた貴族に決闘を申し込んだヴォルテールだったが、まるで相手にされず逆に再びバスティーユに投獄されてしまう。

フランスに嫌気がさしたヴォルテールはその後、イギリスに亡命することになる。

イギリスでの生活はヴォルテールにとって驚きの連続だった。

イギリスには思想の自由があった。

商人や文学者だからといって身分的に軽視されることはなく、理不尽に投獄されることもない。

かのシェイクスピアの地で、ヴォルテールは多くの文学者と交流を持った。

イギリスでの滞在中、彼は叙事詩『アンリヤッド』を書き上げる。

これは16世紀のフランスを二分していた宗教戦争を終わらせたアンリ4世を称える詩で、ヴォルテールの自由思想はここに大々的に表された。

帰国してからヴォルテールはカトリック教会を批判する風刺文を書き、教会を激怒させる。

彼は再び国を追われ、ほとぼりが冷めては帰ってくることを繰り返した。

60歳を過ぎてからのヴォルテールはフランスとスイスの国境地方に土地を購入し、そこに移り住んだ。

自分への風当たりに合わせて両国を往き来できるからである。

1762年、ヴォルテールにとって衝撃的な事件が起こる。

フランス、トゥールーズでジャン・カラスという商人が死刑に処される。

ジャンは新教徒であったが、息子のマルクはカトリック教徒になりたがっていた。

ジャンはマルクに宗旨変えを許していたが、マルクはカトリックの証明書を入手できずに気を落としていた。

というのも、マルクは弁護士を目指しており、弁護士の資格を得るにはカトリック教徒でなければならないのだった。

元来陰気なマルクは人生に絶望し、自殺を決意する。

彼は家族が食事をしている間に戸口で首を吊って命を断った。

それを発見した家族が泣きくれていると、町の人間が集まってきた。

ところでトゥールーズという町は狂信的な人々の集う場所であった。

新教徒に対する過去の虐殺が記念日となっているぐらいで、そのような人々が新教徒であるジャン・カラスに反感を抱くのは当然だった。

人々は父であるジャンが息子のマルクを殺したのだと決めつけた。

マルクがカトリック教徒への宗旨変えを希望しており、父がそれに反対したから殺したというのである。

ジャン・カラスが息子を殺したという証拠は何もなかった。

それどころか、彼は殺していないというあらゆる物的証拠があった。

町が一体となりジャン・カラスの死を求め、判事はそれに応えた。

ヴォルテールが事件を知ったのはジャン・カラスがこの世を去ってからだった。

人々の狂信によって命を落としたジャン・カラスの名誉を回復することこそが自分の使命であるとヴォルテールは考えた。

彼はこの事件について世間の関心を買い、再審を促す。

周囲の反応は冷たかったが、彼はあらゆる人々に働きかけ再審を実現させる。

ジャン・カラスの死から3年、彼は無罪を言い渡される。

以上の出来事は「カラス事件」と呼ばれる。

ジャン・カラスは狂信に殺された。

しかしヴォルテールは彼の名誉を取り戻し、トゥールーズの狂信に勝利を収めた。

ヴォルテールの理性と勇気

ヴォルテールが立ち上がらなければジャン・カラスの名誉は回復されず、彼は罪人として眠り続けたであろう。

ヴォルテールの偉大な点は、宗教という大きな力に理性でもって立ち向かったところにある。

ヴォルテールは宗教を否定していない。

あくまで狂信を否定しているのである。

狂信とは、自らの信条に反するものは一切を認めないということである。

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」

ヴォルテールのこの言葉には、彼の生き方が現れている。

ヴォルテールの著書

上記のカラス事件について説明したものが『寛容論』、愚直なまでに神を信じる人々を非難した『カンディード』などが主な著作である。

両書ともに日本語訳も出版されている。

現代に生きる者としてヴォルテールから学びたいこと

カラス事件は単なる歴史上の一出来事に過ぎず、どこか我々の生活とは切り離されて感じられるだろうか?

そうかもしれない。

しかし周りを見渡せば、我々の近くにもトゥールーズの町民のような人々がいるのではないか?

もしくは、我々自身がトゥールーズの町民になってはいないだろうか?

自分を差別的な人間だと思っている人間は多くない。

しかしそれはトゥールーズの人々も同じだったのではないだろうか。

無自覚に差別的なことを行えるからこそ“狂信”なのであり、それを自覚することは難しい。

現代においては差別は宗教に限った話ではない。

人種、性別、学歴、収入…………数え上げればキリがない差別の要因に囲まれている。

彼があなたと違う国の人間だからといって、彼が非難される理由にはならない。

しかし現代ではそれが平然と行われている。

教室で、オフィスで、飲みの席で、軽い冗談のつもりで言われているのかもしれない。

その冗談に「待った」を言うことはとても難しい。

だがヴォルテールが成し遂げたことに比べればなんと簡単に思えてくるだろう。

理性と勇気があればそれは容易い。

ヴォルテールの生き方は我々に両方を与えてくれる。

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