ここに氷山がある。
ただ、ご存じだろうか。その陸の上に見えるものの数倍~数十倍~数百倍という見えないものがその水の下に眠っている。
私たちは判断する。ただ、その判断は何を見て決めたのか。私たちはすべてを見たのか?
「明智光秀」
誰もが一度は聞いたことのあるその名。しかし、世間の評価とはどうだろう?
そして、あなたの評価は?
「裏切り者」として歴史の烙印を押し付けられた者。
しかし、私たちは明智光秀の何を見たのか。私たちはその姿をじかに目にしたこともない。まず私たちは触れねばならない。
- 戦国の乱世に突如彗星のように現れたその男は何をなしたのか。
優れた軍事的・政治的手腕と目下の者らへの慈しみ。数百年の時を越えて密かに慕われ続けたある男の物語を。
- いったい明智光秀はどこの誰だったのか。
- 何が彼をあの男に引き合わせ、何が彼をああさせたのか。
いまだ真実を語りつくせていないその彼方に。
次第にその暁光は姿を現しつつある。
大いに語ろうではないか。
明智光秀の生涯と人柄
1)明智光秀の生涯
明智光秀は、その“有名さ”にかかわらず前半生についてはおおよそ「不明」。
しかし、近年の調査で次第に明らかになりつつある。
戦国大名朝倉氏の支配する越前(福井県)に勤めていたがやがて出ていく。
当時尾張(愛知県西部)から美濃(岐阜県南部)進出を果たし勃興著しかった織田傘下に入る。
その最初のうちは、信長と足利義昭二人の主君の下に仕えていた。
京における政治、そして各地転々と戦を任され活躍。
京、本圀寺において三好一派の乱入から将軍を守りきる。
「金ケ崎の退き口」では殿軍の一将を任される。
比叡山焼き討ち。
今堅田においては船団を率いて来襲し、一向一揆勢に勝利する。
さらに比叡山の麓、“坂本”の城主となり、復興に尽力する。琵琶湖に面した水城を建造するなど、軍事・政治両面において優れた功績を積み重ねていった。
一方、文事にも熱心で、「連歌」や「茶会」に造詣深く、「公家」との親交も深かった。
“古今伝授(日本にただ一人の和歌の秘伝継承者)”の細川藤孝とは娘玉(のちのガラシャ夫人)を通じて姻戚関係を結び、またかなり深い交友関係だった。
やがて丹波丹後(現京都府と兵庫県のそれぞれ一部)の攻略に成功し、当地を細川と分け合う形で拝領され、福智山(現福知山市)亀山(現亀岡市)の基礎を築く。
かなりの民政家としても知られ、地元(滋賀県大津市坂本・丹波地方各地・福井県福井市東大味、など)では今なお絶大な支持を集める。
後に主君織田信長に反旗を翻し、「本能寺の変」にて倒す。
その後、天下の形成をうかがうも羽柴秀吉などの連合軍に対し、「山崎」にて敗北を喫し、敗走中小栗栖の藪の中で“落ち武者狩り”の手にあい、命を落とす。
死後、南光坊天海(江戸幕府初期の重鎮)などとして生存したとする説もいろいろある。
2)明智光秀の人柄
目下に対しては非常に篤実で面倒見がよい。
どうしても世間一般には“裏切り者”としてのイメージが先行しがちだが、現存する西教寺の寄進状には堅田合戦で亡くなった味方の名前を列記し、一人ずつの供養米を進呈したことが記されている。
また妻、妻木氏が流行り病で亡くなった際にはその看病に付き添い、死後は大変な悲嘆にくれた。このことからか、後代の物語では大変な“愛妻家”として描かれることが多い。
あの松尾芭蕉も
『月さびよ 光秀が妻の 話せむ』
と詠っている。
「山崎の合戦」からの危難にあっても、誰一人身内に裏切る者が現れなかった。
彼の越前時代の領地であった東大味では、彼の死後から現代まで通じて「あけっつぁま」と信奉を集め続けた。
豊臣・江戸時代と世間に“裏切り者”としての負い目のある中、彼らは一部落にすぎないもののそれを譲ることはなかった。
ただ、かなりプライドは高く、繊細で、受けた仇に対しては恐るべき執拗さを見せた。
彼をいったん裏切り(黒井城の戦い)、その報復として侵略された丹波波多野氏などの領地ではその壮絶な戦物語とともに数々の“地獄”という言葉が残されている。
また不要と見なしたものにも容赦はなかった。
丹波各地で寺社などから石を大量に略奪し、城の石垣などに用いている。
寺社すべてが不要ということではなく、彼の攻め込んだ時に何らかの敵対行動を取ったものか。あるいは当時寺社と言えばみずからの権益のために地元にいろいろと税金をかけたりしているところも多く、「新しい街づくりの邪魔だ」と見なしたのかもしれない。彼はそういったことに関してはものすごく厳しかった。
「楽市楽座」にも何のためらいもなく、地元の商業発展に大変な貢献をしたかなりの辣腕政治家である。
一方で、河川の治水事業においても能力を発揮し、福智山では暴れ川として有名だった“由良川”を鎮めた。当時川の氾濫に対処して植えられた“明智藪”という竹林は今でも残り、地元の誇りとなっている。
明智光秀から学ぶ3つのこと
1)“砕石同然”から這い上がった戦国武将
彼は後に自らの書状に“砕石同然”、すなわちその辺に転がってる石ころ同然、から這い上がったと記している。
古来より美濃の名門土岐源氏系の一族という説があるが、とにかく、織田家に仕えるまでには彼なりの“鬱積したもの”がうかがえる。
信長に特に気に入られたその能力と人柄というものもまた、そう平凡なものではなかったろう。確かに、残された彼の画像からどちらかというと“おとなしく”て“常識的”な風も感ぜられるが、ほかの羽柴秀吉や柴田勝家、滝川一益、荒木村重などといった一癖も二癖もある独特の同僚たちの中にいてなお彼は異彩を放っていたのだろう。
2)本能寺の変を起こしたのはなぜか?その明らかになってきた理由
確かに彼は主君信長への恩顧の思いは並々ならぬものがあったろう。
“変”の起こる1年前の書状には「信長様への奉公を惜しまなければ、皆目をかけられ、ちゃんと立身できる」と記している。
ただ、そういった蜜月はいつまでも続かなかった。
一般的にその原因として知られているのが“怨恨説”と“野望説”
“怨恨説”として一般的に知られているもの
- 甲斐(山梨県)武田家討滅の軍を興している最中、信長によって寺の欄干に頭をぶつけられた
- 安土城で徳川家康を饗応しようとして、腐った馳走をふるまってしまい、信長に罵られ、現領地を召し上げの上、今から向かう地で自分の領地を切り取って来いと命令された。
- 丹波八上城攻略の際に光秀は母を人質に差し出し、和議の調停に安土へ走ったが、信長に一方的に反故にされ、人質の母が殺された。
- 元旦の酒席で下戸(酒が飲めない)の光秀に信長が酒を強要し、「俺の酒が飲めんのか」と槍を突きつけられた。
など、いずれも後代に作られた物語にはそう記されている。が、信ぴょう性のある一級の歴史資料には記されていない。
ただ、南蛮宣教師ルイス=フロイスは「光秀が信長から虐待を受けている」という巷の噂を日記に記している。
“野望説”は光秀自身の“天下取りの野望”からとするもの
また、ほかにも豊臣秀吉や足利義昭などによる“黒幕説”など諸説紛々。
いまだその答えは解決を見ない。
ただ、最近“変”の直接的な原因の一つとして光秀配下の重臣、斎藤利三の存在がクローズアップされている。彼は元稲葉一鉄の家来だったらしいが、光秀が引き抜いたという形でそのまま傘下に入り、功を重ねている。
利三は四国の有力大名長曾我部氏と姻戚関係にあり、元織田家と同盟関係にあったが、長曾我部家が「四国統一」に本腰を入れだしたことに警戒を募らせ、織田家側から一方的に破約・侵攻という動向があった。
これに対し、光秀は自分が織田家と長曾我部家の橋渡しをしたという自負があり、なおも自分の家来の姻戚家に攻め込むとあって“居てもたまらず”といった説である。
ここでも光秀の部下への面倒見の良さ、そして、篤い主従関係というものが垣間見れる。
また、“変”後の書状として「足利義昭」を京に招き、幕府体制の復活をほのめかす文言も発見され、にわかに注目を集めている。
もちろん、戦国の“方便”ということは差し引いて考えた方がよいが、彼の“変”後の統治プランというものが垣間見れる興味深い資料である。
3)もし明智光秀が天下を取っていれば
歴史を語るうえで魅力的な談話の一つ。いわゆる“if”である。
丹後(京都府北部)一国の細川藤孝や大和(奈良県)の筒井順慶が味方し、あるいは秀吉連合軍の中で裏切りが出、“山崎”が明智方の勝利に帰していたならば、その後、柴田勝家や滝川一益、織田信雄などとの争いに勝ち残り、中原に覇を唱えていたとするならばどうなっただろう。
彼は元の室町幕府体制のような地方分権的な統治を志した節がある。おそらくは中国に毛利、山陽に宇喜多、四国に長曾我部、紀伊(主に和歌山県)に雑賀衆などの諸勢力、北陸の上杉、関東の北条などを適度に温存した一種の合議体制を敷いたのだろうか。
信長が夢想し、秀吉が起こしたあの朝鮮半島での惨劇はあったのだろうか。
そして、彼の在世当時のあの“篤実な治世”のままなら、下の者にとってみれば織田や豊臣や徳川と比べてどっちがありがたい社会になっていただろうか。
庶民から見ても優秀・人格者だった明智光秀
最近だいぶ改められてきたとはいえ、まだまだ「明智光秀」への風当たりはきつい。
確かに“裏切り者”というのは動かしようのない事実であるが。
ただ我々のような一庶民の目線からすると、ひとつひとつが“丁寧”で、約束は“きっちり守ってくれる”し、ものすごく“面倒見はいい”し、今までずっと厄介だった“旧勢力の弊害を取り除いてくれ”て“治水・経済・街づくり・建城・文化”どれを取っても優秀で、“百姓は生かさず殺さず”みたいなこともなかった。
歴史を上からだけで語られても。
だって政治家なんだもの。
圧倒的大多数で社会を支えている下から見て“痛かったら”何の意味があるのやら。
後北条氏だって大名同士のやり取りでは恐るべき“裏切り者”だったのかもしれないけど、下々には本当に優しかったからね。税金はものすんごい安くて、「俺も治められるなら北条のところに治められたい」なんて当時のお百姓たちがささやいていたらしい。
いかがであろう。
“水色桔梗(光秀の旗印)”の見方は少し変わっただろうか。
歴史というのはともすれば一方向から偏りがち。
いろんな方向から見ればまた、違った見え方がある。
そして、「研究」「発見」は日々新た。
また今日にも世界をひっくり返すような“何か”がどこかで発表されるかもしれない。