文公イントロダクション!
“文公は19年の放浪生活にもめげず、諸国を巡り、チャンスをうかがい、遂に晋の君主として立ち、春秋時代最高の名君の一人とまで唄われた人物だ。
彼は即位した後、周王朝を助け、周辺諸国を守るために南方の超大国楚を打ち破り、周王朝の諸侯国から盟主として頼られた。
我々が学ぶべきはその覇業を成し遂げた時代よりも、その前の苦難に満ちた放浪時代にある。
文公のどんなに長い不遇にも心をおらず、耐え忍び、最後にチャンスをつかみ取った生き方は後世の人々に勇気を与えている。
現代人として文公から学びたい生きる姿勢は次の三点だ。
- どんなに不遇だと感じても、大志があるならば、心を折れずにチャンスを求め続けること
- 常に人材をもとめ、自分の周囲には優れた人が集まるように取りはからうこと、また彼らが成長出来る雰囲気を組織の中につくりあげること
- 秀才でなくても良いが、誠実であり、部下や周囲の意見によく耳を傾けること
これは現代人にも通じる大きな目標の達成の仕方、チームの育て方である。
文公の生涯と人柄
文公の生涯
晋の文公は中国古代の春秋時代の晋の君主の家に生まれた。
晋国は現在の山西省に西周時代から春秋時代にかけて存在した国である。
春秋時代は日本人にはあまりなじみが無い時代だが、儒学の創始者である孔子や斉の桓公の覇業を助け管鮑の交りで知られる管仲や、現在でもビジネス本等に登場する孫子の兵法で知られる孫武が生きた時代である。
また日本の戦国時代のように、多くの国々が互いに争い覇権を競い合っていた厳しい時代でもあり、戦いの中で上記のような様々な人物が活躍した。
晋国はそのような群雄割拠する諸侯国の一つだった。
文公は晋の君主として周王を補佐し、当時最強の超大国である楚の軍隊を打ち破った人物である。
本名は重耳であり、文公は諡(君主の死後に在位中の功績を評価して付ける名前)である。
つまり彼は40代も続いた晋国の歴史の中でもっとも優れた君主であったと評価されているということである。
文公の人柄
そんな文公であったが、若い時はぱっとしなかった。
文公の父は献公といい、周辺の国を征伐し晋を拡大した人物だった。
兄は申生であり、晋国の太子だった。
申生は非常に有能かつ孝子しても知られ、晋の大臣達から将来を嘱望されていた。
弟は夷吾といい、利発さを褒められ、父の献公からも愛されていた。
そんな兄弟に囲まれながら文公はあまり目立たない存在として晋の大臣達から捉えられており、仕えるなら申生か夷吾と思われていた。
ある家来が申生ではなく、文公の付き人に配属させられたことを嘆いたほどである。
しかし、文公は人材を愛し、有能な人材を求めて配下にしていった。
文公は本来であれば、兄である申生の配下として一生を終えるはずの人物であった。
しかし、父の献公は老いるに従い、判断力を失って行き、自らの子を君主にしたい妾の策略によって申生を殺してしまう。
自分の身にも危険が迫っていることを知った重耳は配下とともに異民族の国に亡命する。
その後19年に渡り諸国を放浪しながらも、晋国に帰国し62歳で君主として立つ。
驚嘆するべきは19年もの歳月敵国を放浪しながらも、君主になるという目標を捨てなかったこととそれに付き従った配下達である。
文公のもっとも重要な部下6名は他国の貴族から全員が国の宰相になれる能力を持っていると称されたこともあるほど、粒ぞろいであった。
19年の不遇な時代に耐える忍耐力と、有能な部下達を仕えさせ尚かつ19年もの間、離れさせずに行動を共にさせた人間的魅力が文公が40代に渡る晋の最高の君主となれた秘訣である。
文公から学ぶ3つのこと
1)文公の19年の不遇にも耐える驚くべき忍耐力
文公は父の献公によって暗殺者を派遣され、晋国から42歳の時に亡命した。
最初はすぐに帰れるように異民族の集落に逃げ込んだが、死角の魔の手が伸び始めたため中華東端の斉に移住する。
一方母国の晋では内乱が続き、弟達が次々と君主に立つ。
高齢になった文公は、自分より年下である弟達が君主になっているのを見て、一時は帰国を諦めかける。
しかし部下や妻の策略・励ましにより再び諸国を放浪し、帰国のチャンスをうかがうのであった。
当時の平均寿命から考えて亡命した42歳の時点でかなり高齢である。
それにも関わらず、文公は時にくじけつつも国に帰るという目標を持ち続けた。斉の後は一か所に安住することなく、曹、鄭、宋、楚、秦などを旅して遂に秦から帰国の支援をとりつけ、悪政をしいていた君主を倒し、晋に帰国した。
現代人である我々が彼から学ぶべきことは、もしも大きな目標を達成したいのであれば簡単に諦めては行けないということである。
文公の弟達やその子ども達は内乱に乗じて次々と君主にたった。
通常で考えれば、自分より年下のものが君主になれば、先に自分の方が寿命が尽きてしまうと考えるだろう。
しかし文公は違った。晋をおさめられるのは自分だけだと信じて諦めることをしなかった。
時には自分より年下のものが自分より重要なポジションに就くことは多くある。
しかし我々は腐らずに虎視眈々とチャンスをうかがう必要があるのである。
もしその仕事を達成したいのであれば。
2)配下は全員宰相クラス、文公の人材への執着
文公の配下には狐偃、趙衰などの一国の宰相クラスが務まる人材が多く居た(現にその多くは後に宰相になる)。
最初はあまり大臣達から重要視されていなかった重耳だが、なぜ彼の下にはこのように人材が多く集まったのだろうか。
一つには彼が人材を愛する人物だったからに他ならない。
また、集まった人材の中には貴族の次男坊、三男坊も居た。
つまり正統な継承権をもつ権力を持ったものではなく、冷や飯食いも含まれていた。
その中の先軫などは手の付けられない暴れ者とされていたが、後には天下最強で周王朝配下の諸侯国を次々に滅ぼしていた楚を撃退する名将にまで成長する。
後の宰相クラスが配下に揃った理由として、彼の中に人の成長を促す何かがあったことが考えられる。
配下の趙衰も最初は注目された人材ではなかったが、最終的には晋の宰相にまで出世する。
厳しい放浪生活の中でも腐らず、いつか晋の君主になると信じていた重耳の姿勢は部下にまで伝達し、彼らの成長を促した。
我々が文公から学ぶべきことは、自分の周囲に優れた人が集まるよう努力をするということである。
また集まってきた人が成長出来るように振る舞うということである。
もし文公が放浪先で一生定住を考えたり、部下と一緒に慰めの宴会ばかりする君主であれば彼らは成長しなかっただろう。
厳しい旅の中でも部下の成長を喜ぶ姿勢が、彼らに成長を促した。
もしチームを率いることになれば困難におののいたり、馴れ合いの飲み会をするのではなく、そのチームの各員が成長しようというモチベーションを得られる空気を作ることが大切である。
3)19年もの放浪に部下が付き従った文公の魅力とは
そして、そのような優秀な人材がなぜ文公を見限らず、19年も支え続けたのか。
その理由は彼を兄弟達と比較した時に見えてくる。
申生も夷吾も賢さの点では文公より評価が高かった。
しかし申生はその高潔すぎる性格のため、父の献公が妾にそそのかされて刺客を送った時に、父親を諌めるのではなく、潔く父のために死を選んでしまった。
申生の純粋さは我々の心を打つが、一国の太子としてまた多くの家臣の長としてその行動は、彼らの存在より父一人を優先させた偏った純粋さとも言えなくない。
また夷吾は即位後、秦との約束を破って攻め入り、秦の君主を激怒させ、大敗した。
一方で文公は放浪先の多くの国で信頼され、歓待された。楚の国を訪問した時に楚の王から将来君主になったらどうやって恩を返してくれるか聞かれた時には「楚と戦うことがあれば一度軍隊を退却させましょう」と約束し、後年その通りにした。
文公の際立った賢さはないが約束を必ず守るという性格は部下を惹き付ける一つの要因だった。
もう一つの大切な要因は部下の意見を聞き入れたことである。
衛を通った時に、食べ物を農夫に求めた。
農夫は器に土を入れて献じて文公を馬鹿にした。
しかし配下の一人趙衰が「土を手に入れるのは、将来この土地を手に入れることに通じるので有り難く受けとるべきだ」と伝えたところ、文公はその通りにした。
誠実かつどんな部下の意見も尊重するところが、有能な配下が文公を離れなかった理由である。
人を率いる立場になれば、賢さよりも誠実さと周囲の能力を活かすことが求められる。
長い不遇時代でも前を向きつづけた文公
文公の事績は宮城谷昌光氏の「重耳(上・中・下巻)」や十八史略という中国の歴史をまとめた本に詳しく記載されている。
文公は苦心して放浪し、晋の君主になりその後、周王朝の補助や、併合されつつあった中原諸国を救うために南方の超大国楚を打ち破り、360年間続いた春秋時代の中で優れた君主を指す「春秋五覇」の一人に選ばれる程の名君になった。
文公の生き方は後世の歴史人物にも大きな影響を与えた。
三国志の諸葛孔明も群雄の劉表の長男から、跡継ぎ争いに助言を求められた時に申生と文公の話を持ち出してアドバイスしている。
文公の長い長い不遇時代にも関わらず志を失わず、腐らずにチャンスを狙い続けた姿勢は後世の中々能力を認められなかったり、疎まれつつも大志を果たしたい人たちに勇気を与え続けてきた。
もし今あなたが現状に不満を持っていたり、正統な評価を受けれていないと感じていても腐らずにチャンスを狙い続けて欲しい。
19年命の危ない敵国を放浪しながら心が折れなかった文公のことを考えるとたいていの困難は小さく思えるはずだ。