中国の偉人

いぶし銀の魅力!士会から学ぶ人生を豊かにする3つの視点

こんにちは。起業に向け準備中のケンイチです。好きな時代は幕末時代と古代中国史。今回は中国古代の春秋時代に生きた士会の生き方を紹介します。

士会イントロダクション!

古代中国の宰相だった士会(しかい)。

中国の春秋時代において、自らの正義を貫き通し、不遇時代に耐え、その結果君主や為政者に抜擢された。

数々の戦いに勝利し、宰相となり、古代中国の晋国の法整備を行なった人物だ。

士会は不遇な状況にあっても、誰も見ていないと思われる状況でも
常に自分を磨き続け、正義を貫き、決して慢心しない人物だった。

士会の人格に派手さは無いが、彼の魅力はまさにこのいぶし銀とも言える生き方だ。

彼の生き方から現代人がぜひとも学びたいことは次の3点だ。

  1. 目先の利益にとらわれず正義を貫き通し行動すること
  2. 不遇であっても誰もみていないと思えても、常に自分を磨き続けること
  3. 一つの分野・仕事に慢心せずに、謙虚に勉強・努力を重ねることでより広い分野で結果を出し組織や他の人に貢献出来ること。

彼の生き方から得られる教訓は決して小手先のテクニックではなく、生き方である。

それ故に実行は簡単ではないが、彼のような生き方をすることは現代人の人生をきっとより豊かにしてくれるであろう。

士会の生涯と人柄

士会の生涯

士会は中国古代の春秋時代の晋の国に生まれた。

晋国は現在の山西省に西周時代から春秋時代にかけて存在した国である。

春秋時代(紀元前770年〜403年)は日本人にはあまりなじみが無い時代だが、

  • 儒学の創始者である孔子や斉の桓公の覇業を助け、
  • 管鮑の交りで知られる管仲や、
  • 現在でもビジネス本等に登場する孫子の兵法で知られる孫武

が生きた時代である。

また日本の戦国時代のように、多くの国々が互いに争い覇権を競い合っていた厳しい時代でもあり、戦いの中で上記のような様々な人物が活躍した。

士会もその春秋時代を彩る人物の一人であり、貴族の末子として生まれ、数々の戦いで晋国に貢献し、時の君主に認められ、宰相まで上り詰めた人物である。

また江戸時代の3倍近い700年前後続いた晋国の長い歴史の中で最高の宰相とも言われた。

士会は自分の出世より自分の生き方に筋を通し、自分が所属する国のために貢献することに情熱を注いだ人だった。
その功績は戦場のみならず、政治家としても当時の第一流の人物だ。

士会の最初に記録された事績は、城濮の戦いと言われる当時の超大国である楚と晋の戦いに従軍した時だ。

士会は勇気を示し、当時の君主である文公車右(※)に抜擢されたことである。

※戦場で君主の戦車に同乗し、戦いの指揮をとる君主を守りぬく戦士、その国で最も武芸に秀で、勇気を持つとされる人物が選任される職

その後も政変での亡命等を経験しながらも晋国に戻り、優れた軍才を示し続ける。

晋が歴史的敗北を喫したヒツ(「必」に旁の「邑」)の戦いにおいて巧みな指揮により傘下の自軍を無傷で退却させる。

ヒツの戦いの相手は当時中華最強とされた南方の楚軍だったが士会はその追撃をかわし続けた。

その手腕は春秋五覇(※)にも数えられる楚の荘王にも認められた。

※春秋時代に覇業を達成させたとされる五人の君主を指す言葉、斉の桓公や晋の文公などが挙げられる

ヒツの戦いの4年後に宰相に就任し、法整備を行ない「范武子の法」と呼ばれる法を定めた。

派手な人格や権力で他者を圧倒したり、権力者にへりくだって自分の生き方を変えるのではなく、常に正義を目指し、不遇に耐えながら、自分の能力を磨き続けた。

その結果、時の為政者や君主に認められ、軍事面、行政面で多大な功績をおさめた人物だった。

士会から学ぶ3つのこと

1)道理を通して、地位を捨てて亡命を果たした士会の正義

まだ下級貴族だった士会は紀元前621年に君主の襄公が死亡したことにより、宰相の趙盾から秦国にいた晋の公族である公子ヨウ(「擁」の手編を外した文字)を迎えに行く使者として派遣される。

公子ヨウを君主として迎えるための使者であり、士会は公子ヨウを説得し、晋に向うように促す。しかし、本国では宰相の趙盾が心変わりし、他の公子を君主として擁立していた。

晋に向っていた公子ヨウの一行は趙盾指揮下の兵に攻撃され、秦に逃げ戻った。

公子ヨウへの使者であった士会は宰相と晋の卑劣な行ないに激怒した。

彼は何食わぬ顔で新しい君主にひざまずくことによしとせず、自分が迎えに行った公子への筋を通し、自国の卑劣な行ないを批判して晋国での貴族の地位と授かった土地を返上して、秦へと亡命した。

このとき下級貴族である士会の存在は宰相の趙盾や晋の上層部にそこまで重要視されていなかったが、国人は士会の正義の通し方を賞賛し、後の名声に繋がった。

春秋時代でも亡命は今まで築き上げてきた地位を手放し、場合によっては命を危険にさらす行為である。

しかし、士会は正義を通すためにあえてそれを行なった。

そしてその筋通った行動は同時代の人々に賞賛され、彼が後の君主に信用され抜擢されて行く一因となった。

現在でも命を取られることはほぼ無いとはいえ、正義を通すことは大変難しい。

自分の得になることは一切無い、地位を捨て、自分や家族を危険にさらす行動はもしかしたらすぐには褒められないかもしれない。

ただ、筋を通して自らの正義に基づいて行動すれば、必ず見てくれている人はいること、正義を通し生きることの大切さを士会の生き方は我々に訴えかけているのかもしれない。

2)不遇な時代を耐え、磨いた能力を認められる

母国の卑劣な行ないを批判し、秦に亡命した士会は秦の君主である孝公に暖かく迎えられた。

一族に生きる場所を与えてくれた秦と孝公に対して士会は恩義を感じる。

そして孝公は士会と話すうちにその軍才に気付き、重要な作戦会議、戦争には士会を召集するようになる。

晋の宰相趙盾には能力を認められることはなかった士会だが、秦では大いに重用された。

士会はそして卑劣な行ないをした母国ではなく、自分を暖かく迎えてくれた秦の孝公のためにその能力を使うことを決めた。

士会の立てた作戦により秦と戦いを行なった趙盾の軍は連戦連敗を喫する。

このように亡命先でその能力を認められた士会であったが、晋国に居た時は一次君主の護衛官にはなったものの、軍事的采配をとる位置には抜擢されなかった。

しかし、だれも見ていない、注目していない中でも士会は情報収集・勉強を重ね、軍事的才能を磨き続けた。

もし彼が晋国時代にそのように能力を磨いていなかったとしたら、会話の中で秦の君主に認められることは無かっただろう。

現在に活きる教訓として、決して優遇されない、誰も見ていないという立場にあっても能力を磨き続けなければならない、磨き続ければ必ず誰かが見つけてくれるということである。

3)一つの分野の実績に慢心せず、勉強を重ねる

秦国で軍才を認められた士会は、母国である晋の策略と晋の上層部からの秦の孝公への嘆願により、晋に再び引き抜かれる。

そしてその後も能力を磨き、戦争で実績を挙げ続けた士会は宰相に抜擢される。しかし周王からもてなしを受けた時に典礼を知らなかったことで恥をかく。

軍事的功績から名声を得、位人臣を極めた士会だったが、知らなかったことを素直に反省した。

帰国後の士会は今までの軍での功績にあぐらをかくこと無く、勉強・研究を重ね政治面で晋国の法整備を行なうまでに至った。

士会は晋国の最上位である宰相になったあとも知らないことを素直に恥じて、勉強する謙虚さを失わなかった。また軍事的名声に満足するのではなく、ことなる分野で勉強を重ね、能力を磨いたことが晋国に新たな優れた法がもたらされる結果につながった。

一つの分野や仕事をおさめたからといって満足するのではなく、違う分野の勉強・仕事をしていくことで組織により貢献することができる、士会の生き方はそう現代人に教えているのかもしれない。

士会がわかる書籍

士会の業績は宮城谷昌光氏の「沙中の回廊」で読むことができる。彼がどのように考え、どのように自分を鍛えながら、古代春秋時代という激動の時代を生き抜いたかを知ることができる。

士会の生き方が我々に伝えているのは、目先の利益や権力者によって行動を変えるのではなく正義を通すことの大切さ、誰も見ていなくても自分の能力を磨き続けることの大切さ、地位を得た後も自分の業績に満足せず次々と学び、業績を残して行くことの大切さであろう。

彼は一見、日本の織田信長や坂本竜馬のように派手な活躍をするわけでない。

時代も中国の春秋時代というややマイナーな時代だ。

しかし、天才性を見せる織田信長や坂本竜馬のような偉人とはまた違ったいぶし銀の魅力を士会は示している。

彼が随所で見せる筋の通し方、自分の磨き方、そして仕事に対する姿勢は現代人の生き方にも必ず参考になる部分はでてくる。

小手先のテクニックではなく、生き方の部分なので、彼のように実行するのは難しいが、士会のような美しい生き方をした人物がいたことを知り、一部でも彼のような生き方をすることは我々の人生をより豊かにするだろう。

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