中東の偉人

サラディンの生涯・人柄に学ぶ!東西文明身内も入り乱れた世に許しを以て裁断した英傑

じぇむず
じぇむず
歴史は地球のビックデータ。
こんにちは。ヒストリカルライターじぇむずです。
私の筆名はベルギーの叛骨の画家「ジェームズ・アンソール」から取っています。
身内も含めほぼ全部に「お前は間違ってる」と言われても「いいもの」を譲らず国民的画家になった男です。
今回はサラディンを語ります!

今、世界中で顕在化しつつある「不寛容」の潮流。

我々人類の中に確実に存在する「同調バイアス」。

「同じ」を分かち合い、同調する「居心地の良さ」。

そして、異種なるものを幻影として大きくも小さくもさせる論理。

「許す」ということは容易ではない。

そして、「流される自由」とはそこにいかな辛苦が付きまとい、もっともらしく、うらみの言葉を並び立てようとも、ただ手を放すだけでいい。

ただ、今から800年前、そこに可能性を投じた男があった。

無論、きれいごとは言わない。
そこから生じるあまたの跳ね返りもあった。
歴史はなおも繰り返された。

十字軍が収束されるのはそれから百年以上も経ってからの話である。

ただ彼は示した。彼を受ける者もあった。西にも東にもあった。

「許す」ということは容易ではない。

そして、「流される自由」とはそこにいかな辛苦が付きまとい、もっともらしく怨言を並び立てようとも、ただ手を放すだけでいい。

許せば済む、という話ではない。

ただ、我々は本当に吟味をしたのか。我々は知っているのか。正しい道を歩んでいるのか。

過去を見る。今を見る。未来を見る。

日常を見る。世界を見る。宇宙を見る。そして自分を見る。

それが歴史じゃないのか。それが真理じゃないのか。

まず、見よう。

サラディンの生涯と人柄

1)サラディンの生涯

本名サラーフ・アッ=ディーン。

1137年頃現在のセルジューク朝治下イラク北部ティクリートにクルド人長官の子に生まれまる。

当時のアラブ世界は各部族・宗派・王朝が入り乱れ、生き馬の目を抜く離合集散と興亡があった。

さらにはここ1世紀近く、西側による大々的な十字軍遠征は繰り返され、その置き土産ともいえる植民王国(エルサレム王国)はまた“いずれその好機”を虎視眈々と覗っていた。

***

そんな激動の時代のうねりの中にあってサラディンは次第に頭角を現し、やがて一国(アイユーブ朝)の王へとのし上がる。

200年近くにわたり全9回の十字軍史上において分けても「花」と称されるほどに精強を誇った第三次十字軍の侵攻に対し、サラディンは従来何かと我欲保身に走り、足並みの揃わなかったアラブ側を一つに糾合、十字軍との死闘を重ね、やがて勝利。

その圧倒的武勇もさることながら、死後800年以上経った今なお、アラブ世界ではムハンマドに次ぐ英雄として尊崇を集め、また敵対したはずの西側諸国においても認められ、再評価されつつある。

日本からほど遠いと言われるアラブから今世に何を求められているのかを検証してみよう。

2)サラディンの人柄

サラディンを表す言葉は、「寛容」

  • 西も、東も、
  • アラブ人も、クルド人も、トルコ人も、ペルシャ人も、フランス人も、ベネチア人も、シチリア人も、ドイツ人も、イギリス人も、
  • シーア派も、スンニ派も、キリスト教も、ユダヤ教も、
  • 教皇も、国王も、大臣も、将軍も、代官も、傭兵も、神父も、聖騎士団も、市民も、百姓も、漁師も、ベドウィンも、
  • 老いも、壮年も、若きも、幼きも、男も、女も、

みんながみんなただその「生」に安逸し、放縦し、諦めていた。

彼らにとってすべての「生」であり、「死」であった。そしてその連続こそが「歴史」だった。

弱肉強食。昨日の友は明日の仇。敵の敵は友。聖戦。搾取。略奪。虐殺。差別。憎悪。憤怒。欺瞞。馴れ合い。矛盾。野望。狂信。保身。絶望。悲しみ……。

ただ、サラディンはそこに「許し」を与えた。

これはごく一個の人間の一生をかけて行った「政治実験」であり、また数々の「奇跡」の物語である。

サラディンが英雄とされる逸話の数々

1)少数民族クルドの一少年が一国の王に推戴される

現在、クルド人は知る人ぞ知る「世界最大の国を持たざる少数民族」。人口2500〜3000万人。

主にイラン・イラク・トルコの国境地帯に盤踞する。あるいは、これをご覧になっている頃には「悲願」は達成されているかもしれない。

彼はその生まれ、幼くして叔父のシール・クーフが激情から殺人を犯し、一族もろとも祖国亡命の憂き目に。

そこへ手を差し伸べた人物がある。

ザンギー朝始祖ザンギーである。
ザンギーはかつて戦敗走の折にサラディンの父アイユーブに助けてもらった恩義があり、彼らを匿うこととする。

やがて何度と押し寄せる歴史の波濤にあってサラディンは彼らとともに転々とし、成長してゆく。

1163年、ザンギーの息子ヌールッディーンの帷幕にあったサラディンはついに野心をむき出しにしたエルサレム王国からエジプトを守護するため、父アイユーブ、アラブ一の猛将として名を轟かせていたシール・クーフらの出征に同伴。

やがて運命の変転によりエジプト宰相の地位に推され、結果としてアイユーブ朝の祖となってゆく。

2)アラブ世界の悲願「聖地エルサレム奪還」

やがて、主ヌールッディーンから領土的野心の嫌疑をかけられ、その仲は急速に悪化してゆく。

1176年ヌールッディーンが病没すると、その幼息のサーリフが即位し、ついに“裏切り者”サラディン討伐の軍を興すも、その動乱に乗じたエルサレム王国の軍事的躍動により、シリアはザンギーの血統ともども流動化する。

サラディンは“守護者”としてダマスカスに無血入城を果たし、エルサレム王国の動向は沈静化。

こうして力を蓄えたサラディンは攻勢を強め、1187年ついにこの地を解放。第一次十字軍以来100年近くの悲願がここに達される。

そして、この時取った彼の行動が歴史に彼の名をいまだに不朽となす発端となる。

『彼はキリスト教聖地を尊重、将来巡礼者に対する不干渉などを確約して無血開城を成功させ、なおも敵方からの身代金の納入のなかった捕虜たちまでをもすべて放免した。

それどころか孤児や寡婦には「彼自身のポケットマネーで」補償金を付けた。』

3)「花」の第三次十字軍との死闘と、死守

これで歴史は落ち着くということはない。西側にも誇りがある。野心がある。そして、大いなる「夢」がある。

イギリス軍獅子心王リチャード1世。フランス軍尊厳王フィリップ2世。神聖ローマ帝国赤髭王フリードリヒ1世。

一世界の時代を彩る英傑が綺羅星の如くに大軍を引き連れ、まさにそれは海となって押し寄せてきたのだ。

一時はアッコンを奪われるなど、苦杯をなめることも度々あったが、サラディンはエルサレムを敢然と死守。

1192年にリチャード1世との間に和平協定を締結させ、ついに彼らは勝利した。

4)巨星墜つ!この死にざまぞまさに“大王”

1193年、十字軍撤退の翌年にこの人は病にて息を引き取っている。まるで燃え尽きるかのような最期だった。

生前より至極公明正大で知られた彼には葬式代くらいの私費しか残らなかったと伝わる。私に倹を詰め、万事公に資する。まさに首領の鑑としかいうほかはない。

彼はこうして伝説的英雄となった。

サラディンが遺したもの

1)サラディンにまつわる外せない逸話の数々

サラディンと言えばエルサレム無血開城だが、彼のまだ若いころ後代を彷彿とさせるある出来事が起こっている。

1154年ダマスカス攻囲戦中の守勢長官父アイユーブと攻囲側司令叔父シール・クーフが互いに連絡を取り合い、無事「無血開城」を成功させている。

やはり、彼はその先人たちを見たのであろうか。

彼は敵にも敬意を払うことで敵味方を問わず敬慕の対象となっているが、第三次十字軍との戦いにおいても陣中病身の敵将リチャード1世に見舞い品を送り届けている。

エジプトで宰相に推された時、その理由は首脳部の中で、一番若く、経験が浅く、弱そうだったからだといわれる。

イタリアのダンテが『神曲』でムハンマドについては「地獄の最深部で頭を切りき咲かれて苦しんでいるのを見た」と表現している。

それに対し、サラディンについては「哲人たちに囲まれて座したる“智者の師”を私は仰ぎ見た」と絶賛している。

2)その影を追ったある男の物語

彼の死後七百年以上も経ったイラク、ティクリートの貧家にある一人の男が生まれた。彼の名はサダム・フセイン。彼の幻影は今なおあの共和国上をさまよっている。

彼は当然に同郷であるこの偉人の影を慕い、やがて麻の如く乱れた同国内に台頭し、首領の地位を預かる。

国内を統制し、粗野なる野望のままに周辺諸国への侵攻を繰り返し、やがて滅した。

わけても北部クルド人への度重なる弾圧は峻厳を極め、国境に生き場を失った彼らの絶望的なたたずまいを今なお以て筆者は忘れがたい。

「それでも許した男」と「そこまで自分一色に塗り込めようとした男」。

彼らの生涯は生じて死せるまであらゆることが好対象となる。

ただ、忘れてはならない。この両者はともにわれらと同じ「人間」なのだ。

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