イギリスの偉人

エリザベス1世の生涯・人柄と功績:自分よりも国の幸せの為に生きた生涯

こんにちは。偉人ライターの平安衣重三郎です。

女性君主でありながら、男以上に国を愛し「賢君」であった女王エリザベス1世。

しかしそうなるまでは、相当な努力だけでなく、辛酸をなめることも多かったのだ。

それは父母の時代からの「負の遺産」のせいでもあって、彼女にはどうすることもできなかった。

また多くの敵にも遭遇し、打ち勝つのに時間もかかった。

特に2人の「メアリー女王」は、彼女にとっては避けて通れない存在であった。

姉メアリーと、スコットランド女王のメアリーである。

彼女達との戦いは、国同士、君主同士、そして女同士の戦いでもあった。

2人の「メアリー女王」は既婚者であったが、残念ながら生涯エリザベス1世は独身であった。

決して、彼女とて結婚したくないわけではなかったのだと思う。

1人の女として、男を愛し愛されたかったことであろう。

だが、この点を「負けた」と言って彼女を指差すのは酷であろう。

彼女は様々な状況から結局「国」と結婚したのであって、そのおかげでイングランド(のちのイギリス)は発展していったのである。

彼女の犠牲があったからこそのものであることを理解するべきである。

恋も政治も波乱万丈!エリザベス1世の生涯、人柄と功績

エリザベス1世は、イングランド及びアイルランドの女王である。

1533年に生まれ、1558年に女王として即位。

1603年に死去するまで未婚の女王として国を統治し続けたのである。

その為、彼女はヴァージン・クイーンとも呼ばれた。

イギリスの歴史を語るのに、偉大な女王である彼女を抜きにすることはできない。

しかし、彼女は生まれた時から女王になる未来があったわけではなく、むしろ絶望的な状況が多かった。

輝かしい女王になるまでの彼女の道のりは険しかった。

そもそも彼女は生まれた時から苦難が始まった。

父王ヘンリー8世と王妃アン・ブーリンとの間に嫡子として生まれた彼女であった。

しかしヘンリー8世のプレイボーイぶりは激しく、彼は6度も結婚していた。

結局アン・ブーリンは男子に恵まれず、女子のエリザベスしか生めなかった。

アン・ブーリンも、彼の多くの結婚生活の流れの1人に過ぎず、次の王妃となるジェーン・シーモアに彼の興味が移ってしまうと、冷遇されていった。

加えて、真偽はともかく母アン・ブーリンが反逆・姦通罪等おぞましい罪に問われる事件が発生。

しかも、その罪で処刑されてしまったのだ。

王とアン・ブーリンとの結婚生活は、わずか2年で終わってしまった。

母を失った王女エリザベス

王女エリザベスは母を失い、一時メアリーと手を組むが…

2歳8ヶ月という赤子の時に、母を失った彼女の身分は大変不安定なものとなった。

一時は嫡子の扱いを受けていたエリザベスは、庶子とされた。

尚、これは彼女の侍女にされたメアリー王女も同じである。

ちなみに、この間もヘンリー8世は離婚を繰り返しており、6度目の結婚で、キャサリン・パーを王妃とした。

これほどの相手をコロコロと変えた王であったが、結局男子はエドワード6世にしか恵まれなかった。

しかも、エドワード6世も15歳と短い生涯を終えている。

では次の王はエリザベス…とはならなかった。

エリザベスの姉にあたるメアリー王女が即位した。

といっても厳密にはメアリーの前に、ジェーン・グレイがイングランド史上初の女王と即位している。

しかし正統な王位継承ではなかったので、なんと9日間で彼女の治世は終わった。

メアリーは自らこそが正統な王位継承者として、ジェーン・グレイを処刑した。

そもそもヘンリー八世の遺言では、エドワード六世、メアリー、エリザベスが、王位継承者として名を連ねていたのだ。

メアリー女王時代、腰を低くしたエリザベス

メアリーは女王となるも、彼女はカトリックで、エリザベスはプロテスタント。

両者は宗教的にも相容れないものであった。

その事もあり、メアリー女王には多くの臣下が「エリザベスがいる限り」王位は安泰ではないと進言した。

エリザベス自身、無実の罪で幽閉されたりと苦難の日々が続いた。

またメアリー女王は、プロテスタントに対する宗教的弾圧の手をどんどん強めていった。

ハットフィールド・ハウスとエリザベス

ところで、若かりしエリザベスが多く過ごした場所は宮殿ではなかった。

ハットフィールド・ハウスという貴族の館である。

そもそもこの館は高位聖職者の為の邸宅であったが、父王ヘンリー8世の宗教改革を期に王室のものとなった。

また姉メアリー王女も住んでいた時があった。

ちなみに、のちメアリーが女王として即位するものの、のち死去すると、その報を聞いたのがこのハットフィールド・ハウスだったのである。

場所としては、ロンドンから行く場合は、キングス・クロス駅からファースト・キャピタル・コネクト鉄道を使って、ハットフィールド駅を目指す。

駅を出るとグレントエヌロードの通りがあるので、そこを行けばすぐに目的地である。

ついに王座を得たエリザベス

メアリー女王に結局子が生まれることはなかった。

しかも女王は健康が悪化し、ついに卵生腫瘍により、死が間近となった。

仕方なくメアリーは、次の王位をエリザベスが継ぐことを認めたのである。

メアリーにとっては受け入れがたい最期だったのである。

そして、メアリー女王が死ぬと、エリザベスは晴れて女王に即位した。

また彼女の戴冠式での情緒的で人々を惹きつける言動から、大衆に絶大の支持を得た。

これでやっと彼女は幸せになった…と言いたいものだが中々現実は厳しいものである。

メアリー女王時代のプロテスタント弾圧の法を廃止したが、当然国内には反カトリックもいた。

それは貴族や聖職者といった、女王の近くにいる者達とて同じである。

しかし全てを滅ぼすわけにもいかず、彼女は現実的に実現可能性の高い方法を取った。

それが、イングランド国教会の体制の確立である。

そこに深くは触れないものの、妥協し得る部分は妥協し、核なる部分だけを取捨選択する手法であったと言える。

エリザベスは誰と結婚するべきだったのか?

エリザベスが女王となるまで、王座についた多くの者達が王位継承問題を引き起こしてきた。

というのも、皆世継ぎに恵まれなかったからだ。

そうなると、王位継承争いは絶えず国が乱れてしまう。

その為貴族らは国の安定の為、エリザベスに強く結婚を望んでいたのである。

とはいえ、エリザベス女王にとって、夫を迎えることは多くのリスクを伴うことであった。

現代のイギリスの女王エリザベス2世の如く、夫が王配(王の配偶者)におさまるわけではない。

もし、エリザベス1世がどこぞの国の王族と結婚すれば、その夫が共同統治者となり、自身の権力も制限されてしまうのだ。

とはいえ結婚によるメリットがあるのもこれまたしかり…。

その為、彼女は多くの男性と恋をしている。

例えば、レスター伯ロバート・ダドリー。

エリザベス女王の寵臣であり、10年以上恋の駆け引きは続いた。

しかし彼には妻がおり、その妻が不可解な死を迎えたのちも、彼は別の女性と再婚している。

彼に夢中な女王でも、さすがにそんな男を夫に迎えるわけにはいかなかった。

という具合に、彼女の恋愛は上手くいかなかった。

それは政治的にも、男女の関係としても。

彼以外にも、エセックス伯ロバート・デヴルーやウォルター・ローリー卿等がその恋人として一時宮廷で幅を利かせるも、夫となり得る人物には結局巡り会えなかった。

スコットランド女王メアリーとの対立

この時代、多くの「メアリー」という人物がいるが、姉メアリー女王とはまた別人である。

しかも当時のスコットランドのメアリー女王も実はイングランド王位継承権を持っていた。

その為、彼女は王位を主張したのである。

また、初めメアリー女王の方が優勢であった。

というのも彼女が初めフランス王フランソワ2世の王妃であった事が大きい。

フランスとの同盟もあって、軍事的にもイングランドは苦しめられた。

しかし、フランソワ死後、メアリー女王はスコットランドに帰って夫ダーンリ卿と再婚するが、次第に夫婦関係は冷め、ついには彼をを爆殺するにまで至る。

これで一気に国内での彼女の人気は失墜した。

爆殺の実行犯はボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンと言われ、彼が女王の夫となる為にダーンリを殺したと考えられた。

さすがにスコットランドの貴族も、そんな悪逆な女王はとっとと退位させ、幽閉した。

ところが、メアリー女王はそれでも諦めず、イングランドへ亡命し、再起を図ろうとした。

とはいえ、イングランド王位を主張する女王が国内に居ては、エリザベス女王は気が休まらない。

結局19年も幽閉されたメアリー女王は、最期はエリザベス女王によって処刑されてしまった。

罪はエリザベス女王廃位の陰謀を企てたことだが、その真偽は定かではなく、決してエリザベスとて本意ではなかったのである。

貴族や臣下達から「神に選ばれた女王」を殺すことを迫られたが、最後まで彼女は拒否し続けたが、結局は処刑に至ったわけだ。

苦労だらけの彼女を労いたい

さてエリザベス女王は、人が歩まないような人生を過ごしてきた。

しかも、一つだけでもかなり濃厚な出来事ばかりなのに、それが立て続けに起きている。

これだけの出来事に耐えうるには、よほどの精神力が必要だ。

しかし、彼女は恋多き女性ながらも、夫を結局置くことはなかった。

夫の支えが欲しいと思ったこともあるだろうか、女王としての立場上難しかったのだ。

そもそもその女王という立場がとても難しいという事がその苦労を増していた。

男の王であればすんなりいくものも、女であるが故に…という事が多かったのだ。

しかも、父王ヘンリー8世は6度も結婚をしたが、当然のことながら子を生むのは女性の役目だ。

勿論、ヘンリー8世は自分は腹を痛める必要がない。

しかし、エリザベス女王がもし夫を置き、もし子を作ろうとしたならば、それは自分自身が行わればならない。

父には、妻を変えれば世継ぎに恵まれる可能性があったが、彼女はそうではないのである。

生理的な問題にも、女性の王は不利な状況であったのだ。

このように、様々な点から彼女を労いたい気持ちが湧いてくるのだ。

まとめ:語りつくせないエリザベス1世の人柄と功績

ここにあげただけでも、彼女の人生は大変込み入った波乱万丈なものであった。

とはいえ、ここまで言っても彼女を語りつくすことはできない。

例えば、スペインの無敵艦隊との戦いである「アルマダの海戦」も重要な出来事である。

この海戦に関して、大勝利とはいえないまでも、当時の無敵艦隊がイングランド軍を打ち破れなかったことは、世界史的にも衝撃的であった。

世界地図の勢力が変わる出来事に、エリザベス女王の名声は一気に高まったのである。

同時に、偉大な女王としての彼女の治世は、全てが完璧とはいえないものの、評価は大変高いものとなった。

結局、これほどまでに大事件が連続して起こる人生では、結婚をする余裕はなかったのかもしれない。

それだけ国に尽くしていたのだから…。

彼女が「国と結婚した」と言われるのは、彼女の人生からも明白である。

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