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アーネスト・サトウの生涯・言葉に学ぶ!明治維新の回想を読めば、幕末がクリアに理解できる

あんじぇりか
あんじぇりか
こんにちは、偉人ライターのあんじぇりかです。私は明治維新が大好き。今回はアーネスト・サトウについて語ります。(歴史初心者の方、中高生にもオススメな偉人さんです。)

アーネスト・メイソン・サトウとは

アーネスト・サトウは、幕末に日本に赴任したイギリス外交官である。
19歳で来日し、通訳官として横浜のイギリス公使館で働いていた。

外交官の仕事は現地の情報収集が主だが、サトウの来日後1週間で生麦事件が起き、
以後、薩英戦争、四国艦隊下関砲撃事件など、様々な幕末の出来事を見聞きして回想録に書き残している。

この回想録を読めば、明治維新の全貌がわかると言っても過言ではないほどの、わかりやすさである。

日本ではまだあまりポピュラーではないアーネスト・サトウだが、彼の業績をぜひしっていただきたい。

アーネスト・メイソン・サトウの生涯と人柄

アーネスト・サトウの生涯

アーネスト・サトウは、1843年イギリスロンドンの生まれで、ユニバーシティカレッジ在学中に、日本について書いた本を読んで興味を持ったことから、
日本と中国への外交官試験を受けて合格、通訳官として19歳で文久2年の明治維新真っ只中の日本に赴任した人である。

日本に着任後、わずか半年で日本語をマスター、以後、薩摩弁も理解でき、薩英戦争、四国艦隊下関砲撃事件など、歴史的事件に立ち会い、維新の志士たちとも交流した。

サトウはその後、鹿鳴館時代に日本在住イギリス公使となったが、その後の日英同盟にも影響を与えた人物だと思う。

サトウはかなり長生きをして、日本研究の先駆けとなり、キリシタン研究などの著書も多く、貴重な日本の文書なども収集し、その後大英博物館などに寄付されている。

イギリスのデボン州で隠居生活を送り、1929年86歳で死去。

アーネスト・サトウの人柄

サトウが直筆した「敷和」

サトウが、19歳で大学を卒業したのは飛び級であったし、日本語の読み書きを覚えるのも早すぎなので、この人は天才的な才能を持ち、また努力を惜しまない勉強家でもあったと思う。

そして名前のサトウも日本名のようで覚えやすかったのもあり、サトウさん、サトウさんと、伊藤博文や井上聞多をはじめ、日本人の知人が増え、自身も佐藤または薩道愛之助などと名乗って署名していたのである。

回想録には、西郷隆盛についての記述もあり、「小さいが炯炯とした黒ダイヤのような目」という描写と、サトウが西郷のファンのようになって情報交換をするさまが出てくる。

こういう具合に、当時の日本について、野蛮な国であるとかいう偏見もなく観察していて、とても分かりやすい描写であるのも、いかにサトウが優秀な人であるかがわかると思う。

また、サトウの論文「英国策論」が、翻訳されて維新の志士の必読書になっていたということからは、サトウが知らぬ間に彼の意見が維新の志士の行動をリードしていたことになるのではないだろうか。

アーネスト・メイソン・サトウから生き方・言葉から学ぶこと

ここでアーネスト・サトウの名言・言葉を踏まえつつ、彼から学びたいことをまとめたい。

アーネスト・サトウは薩長土へ惜しみなく情報提供した

「イギリスの議会制度は、京都における侍階級の指導者連中、ことに後藤象二郎などが大いに興味を持った問題であった。日本の新政府の基礎を代議制度の上におくことが、彼らの希望だったからである」

サトウは、よく考えれば明治維新の志士たちと同年代で、当時の最先端の先進国からやってきた人である。
そして幕末の志士たちといっても、幕府を倒してその後どういう新政府を作っていけばいいのかという青写真を明確に持っている人は一人もいなかったと言ってもいい。
そこへサトウのような人が、薩摩や長州、土佐などへ赴き、色々な重要人物に出会い、情報を惜しみなく与えてくれたというのは、天の配剤ということになるかもしれないと思う。

アーネスト・サトウの言葉・行動からわかる、日本を尊重する姿勢

「当時の私たちは一語も英語を知らぬその国の人間を相手にして勉強したのだ。文章の意味を知る方法は、小説家のポーの『黄金虫』の中の暗号文の判読について述べているのと、ほとんど同様のものであった」

サトウは日本の文化を尊重し、理解できるようにひたすら研究し著述を残した日本学研究の先駆者でもあるのだが、彼の属した日本駐在イギリス大使館はその影響を今に伝えているようで、ヒュー・コータッツィ氏など、後輩には日本研究者も多く排出し、イギリスでの日本についての理解を広めたり、もちろん日英関係にも大いに役立っているのは間違いのないところである。

以前見たテレビで、東京の英国大使館を紹介したものがあったのだが、玄関に最初のイギリスへ留学した日本人の写真が飾ってあったのである。
それは若き日の伊藤博文と井上馨の写真であった。

サトウの業績が現在の日本駐在イギリス大使館に伝わり、後継者たちが続いているといるということは、日本人としてもとても嬉しいことではないだろうか。

「伊藤(博文)には、英語が話せるという大きな利点があった。これは、当時の日本人、ことに政治運動に関係している人間の場合にはきわめてまれにしか見られなかった教養であった」

サトウの回想録やサトウについて書かれた本を読むことで、彼の明治維新当時の足跡を知り、業績を広めることで、サトウが明治維新にいかに深く関わったかについてを、もっと日本でもイギリスでも広く知れ渡るようにするべきではと思うのである。

アーネスト・サトウのゆかりの地・書籍

サトウの回想録「一外交官の見た明治維新」は、岩波文庫のロングセラーであるが、これは色々な意味でとても面白く歴史ファンでなくても必読本である。

正直に言えば、昔の人の手紙などを読んでも、漢文や候文では実感がわかないのだが、この回想録は翻訳でもあり、内容もイギリス人に向けて書かれている解説が、現代人の私たち日本人から見てもとても分かりやすく、当時の有様が本当に鮮やかに目に浮かぶような感じさえするのである。

土佐の殿様、山内容堂に会ったときの様子は、「容堂は身の丈高く、少しあばた顔で、歯が悪く、早口でしゃべる癖があった」「彼は確かに体の具合が悪いようであったが、それは大酒のせいだったと思う」と、大酒のみで有名な容堂公についてじつに率直な感想が述べてあるのである。

生麦事件から鳥羽伏見の戦いと、幕末の有名な出来事に多く立ち会っているうえに、もてなされた先で出た日本料理、狂言などについての著述も興味深く、
何度読んでもおもしろいのである。

また、サトウの上司であるハリー・パークス公使、同僚のミットフォード、ウィリス、ポンチ絵のチャールズ・ワーグマンなどの仲間もユニークで興味は尽きない。
アーネスト・サトウ、いつかは大河ドラマに取り上げられるべきではないかとさえ思うのである。

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