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諸葛亮孔明の偉業・人柄・名言を学ぶ!中高学生向けにまとめ

おこめ
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こんにちは。偉人ライターのおこめです。この記事では、

  • 諸葛亮孔明の生涯
  • 人生、功績を少し掘り下げる
  • 孔明の人柄
  • 孔明の名言や知略
  • 孔明ゆかりの地・本

をまとめています。

 

諸葛亮の魅力は、知的でクールなところは勿論、自分に厳しく、律儀に義理堅く生きる所。

また、諸葛亮は、結婚相手を見た目でなく、才能で選んだという。
一人の女性としてとても好感が持てます。

孔明の特に有名な名言や、人生の教訓になりそうなものもまとめているので、参考にしてもらえると嬉しいです。

諸葛亮孔明の生涯


https://www.travel.co.jp/guide/article/16243/

181年〜234年。
中国後漢時代から三国時代にかけての政治家であり軍師。

身長は8尺(約184〜192cm)と言われ、かなりの長身であったようだ。

黄巾の乱によって中国全土が乱れ、各地に大名が割拠し、皇帝の力が失われていた時代に生まれ、中国を統一するのではなく、3つの国に分け、戦乱を終わらせようと考えた。(天下三分の計)

手押しの一輪車に乗り、白い羽で作った扇を持つ場面が漫画等で多く描かれる。

後に蜀皇帝、劉備に仕え、天下三分計を実現させる。

諸葛が字、亮が名に当たるが、私たちの間では渾名の孔明の方が親しみやすいと思う。

このような武将は三国志に多くの武将が登場するとはいえ珍しい。

いかに日本人に愛されてきた人物か感じ取れると思う。

孔明の功績

https://4travel.jp/travelogue/11189931

伏竜と言われる秀才さ

孔明は、幼い頃、早くに父を亡くし、叔父に育てられる。

成人してからは、農業を営む傍ら、司馬徽に師事して学術を学ぶ。

孔明は、秀才が多い学友の中でも、特に優れていたとされ「伏竜」と呼ばれる。

「天下の事は伏竜か鳳雛のどちらかがいれば成る」と司馬徽に評された。

劉備につかえる

その噂を聞きつけた劉備の「三顧の礼」に応じ、天下三分の計を伝え、呉との同盟を勧める。

弟の諸葛均も後日劉備に仕えることとなった。

劉備に代わって呉に赴き、呉の重臣達を説得し、同盟を結ぶことに成功する。

赤壁の戦い

赤壁の戦いにて妖術を使い南風を起こし、魏の曹操の船団を火計によって焼き尽くす。

この赤壁の戦いにて曹操の天下統一の野望を挫くことに成功する。

蜀建国に丞相として尽力

その後、荊州と益州、漢中(中国西南部)を占領し、劉備の蜀建国に丞相として尽力する。

劉備の死後は、その子劉禅に死ぬまで仕える。

自ら南蛮に南征を行う。

途中には毒の泉や毒蛇、大蛇、疫病が待ち受け、「南蛮王」孟獲と7度戦い彼らの武器に苦戦しながらも7度捕らえる。

そして度量の大きさを見せつけることに成功する。

孟獲は孔明に心陶し、孔明の在命中は蜀に反乱を起こすことはなかったという。

南蛮制圧後は基本戦略として呉と同盟し、生涯、魏と戦い続けるために何度も北伐を行う。

北伐を行うにあたって出師表を劉禅に提出する。

名文として有名であり、「これを読んで涙しないものはいない」と言われる。

だが、酒と女浸りの劉禅には伝わらないことが無情である。

北伐は残念ながら魏との国力差がありすぎたためと呉の消極的な姿勢により、全て失敗に終わる。

北伐の際に常に食料の補給に困ったため、木牛流馬という手押し一輪車による輸送方法を開発(一説には妻の黄月英の案とも言われる)したり、兵士に畑を作らせる屯田制なども取り入れたりした。

北伐の途中に見出したキョウ維を弟子とし、自らの軍略を伝える。

五丈原にてこの世を去る。

諸葛亮孔明の死後、残された孔明の兄・妻・子

死後、忠武候と諡される。

彼の死後、内部争いや北伐の失敗により国力が大きく衰退し、蜀滅亡の大きな要因となる。

子に諸葛センがいるが、魏の侵攻を受けた際に綿竹で戦死した。

兄は諸葛瑾と言い、呉で重用された。

妻は黄月英というそうだが、史実には名が残らず、創作である可能性が高い。

金毛で色黒の不美人だったが、才知は孔明に劣らないと評されていた。

孔明の人となりについて

三国時代に圧倒的に不利であった蜀の丞相として、最後まで魏や呉とわたりあった人物である。

蜀の先主である劉備は死ぬ間際に「自分の息子達の才能が足らない場合は、君が皇帝となって蜀を導いて欲しい」と言われたほどの才能を持つ人物。

しかし人格者である孔明は、暗愚な蜀の後主の劉禅を最後まで補佐し続けた。

素晴らしい人物であると言える。惜しむらくは、孔明の晩年には蜀に優れた人物がいなくなってしまったため、孔明一人に政務も軍略も負担がかかってしまい、衰弱死してしまったことにある。

孔明の名言や知略

三顧の礼

「三顧の礼」という言葉がある。

後に蜀王となる劉備がどうしても孔明の優れた力が欲しいということで三度孔明の住む庵を訪ねたと言われ、それほどに大切にされた部下といえる。

泣いて馬謖を斬る

「泣いて馬謖を斬る」とは、後継者として考え大切にしていた“馬しょく”という部下を、命令違反で処刑してしまった。

いかに大切な部下でも、他の部下の前で示しがつかないと考えたためである。

なおこの際に自分の位も3階級下げ、右将軍に降格を申し出ている。

自分に厳しくし、蜀軍全体のことをいつも考えていたと言える。

今孔明

「今孔明」とは、秀吉の軍師と言われた竹中半兵衛のことを指す。

孔明という渾名が付けられるほど知略に優れた人物のことを指し、それほど国と時代を越えて敬愛された人物であるという証拠に他ならない。

饅頭

「饅頭」という言葉には「頭」という漢字を使う。

南蛮遠征の際にある村の風習として川の氾濫を抑えるために生贄として首を差し出していた。

孔明はそれを悪しき風習としてやめさせ、代わりに人の頭の形に小麦粉を練り、その中に肉を詰めたものを供え物とした。

そこから「饅頭(まんとう)」という食べ物ができたと言われている。

死せる孔明、生ける仲達を走らせる

「死せる孔明、生ける仲達を走らせる」という言葉がある。
孔明は死してなお、自分の木像を作らせ、自分が健在であることをアピールし、生涯のライバルであった仲達を恐れさせ、魏軍を撤退させることに成功した。

孔明ゆかりの地・書籍

正史「三国志」にもあり、上記で紹介した「三顧の礼」の舞台を挙げたい。

古隆中と呼ばれ、襄陽から西の山の中にある。

辺りには人家もなく、静かな場所である。

「伏竜」の二つ名の通り、じっくりと力を蓄えるのにふさわしい場所に思える。

三国志を題材にした本では、前半は劉備が主人公として、彼の死後は諸葛亮が主人公であるかのように描かれている。
諸葛亮は、それほどまでに大きな影響力を与えた人物であるといえる。

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