日本の偉人

徳川慶勝の信念と苦悩、徳川No.2だからできた徳川の世の幕引き!

マス大村(男性・40代後半)

江戸幕府が倒れ、明治維新が成し遂げられた舞台裏には、冷静に自分の役割を果たした徳川一門のナンバー2、徳川慶勝(よしかつ)の存在があった。
徳川御三家の尾張藩は代々勤王をもっとも大切にする家。
藩主となった徳川慶勝もそれを貫く。
そのため大老井伊直弼の怒りを買い、藩主を弟に譲り、一線から退いてしまう。

その後、
桜田門外に井伊直弼が斃れると、徳川のナンバー2として再び役割を与えられ、幕府と天皇の関係を修復する橋渡し役となる。
倒幕派の西国大名、朝廷、そして幕府が複雑に絡み合い、権力闘争をするなかで、慶勝は列強からの介入をさけ、次の時代の国家建設に向うため、困難な道を行くのであった。
大政奉還後は弟の松平容保、松平定敬を敵にして、新政府の立上げに尽力し、尊王を貫いた信念がこの男にあったからこそ、薩長同盟があり、江戸城無血開城があったのだ。
その人、徳川慶勝は歴史の動かす役割を終えた後は、尾張藩士の行く末に心を砕き、表舞台にでることはなかった。
あまり知られていない、徳川慶勝の乱世の生き方をご紹介したい!

高須四兄弟の明治維新

高須四兄弟は幕末、敵と味方に分かれて戦ったことで知られている。

美濃高須藩主松平義建の子たちである四兄弟は、次男である尾張徳川慶勝、五男の一橋茂栄、七男での会津松平容保、そして六男の桑名松平定敬である。

最後の将軍、徳川慶喜は彼らの母方の従兄弟であった。

尾張藩主であった慶勝は大政奉還後、諸藩をまとめ官軍方に恭順した。

一橋志栄は、徳川一族の代表として、明治政府との交渉にあたる役目を果たした。

徳川慶喜と行動を共にした、松平容保と定敬は賊軍として官軍と戦う運命となる。

徳川幕府体制が瓦解したのであるから、官軍側に立ったとしても支配者としての地位を失い、新時代に投げ出された。

賊軍になれば、極めて不名誉なかたちでの死を与えあれたかもしれなかった。

日本の歴史の転換点である幕末から明治維新にかけて、この兄弟たちはそれぞれに歴史に翻弄されたのである。

幕末という動乱期でなければ、それぞれが藩を治め、名君として名を遺したのではないだろうか。

そんな思いをいただかせるほど、才に恵まれ、英明な兄弟であった。

これから四兄弟では年長者である、徳川慶勝の足跡をたどることにする。

江戸無血開城の影の立役者

鳥羽伏見の戦いで敗北した徳川慶喜は、大阪城に将兵を残し、幕府海軍の船で江戸に引き上げてしまった。

その時、同じ船で行動を共にしたのは高須四兄弟の会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬である。

この3名は8月18日のクーデターで、薩摩藩と組み、長州藩を京都から追放して以来、「一会桑政権」と呼ばれる幕府とは別に行動し、朝廷と公武合体を進め、薩摩藩らと対決してきた。

起死回生の大政奉還も奏功せず、ついには都落ちし、なんとか薩摩らの倒幕勢力との戦をさける努力もむなしく、ついに朝敵となった。

それから2ヶ月後に官軍は慶喜討伐のため江戸に達するが、勝海舟と西郷隆盛の会談によって、江戸での戦いは回避され、慶喜の蟄居は認められた。

江戸無血開城により、江戸の町は維新後に東京となり、日本の近代化を推し進める中心地となった。

列強諸国に日本国が大規模な戦闘をせずに、近代革命を成し遂げる姿を見せつけたことはその後の明治政府建設にあたり重要な意味をもつのである。

しかしここで疑問がわかないだろうか?

東海道と中山道は5街道のなかでも西との重要な交通路であり、西からの攻撃に備えて主要な拠点には譜代の大名をおき、強固な城を築かせたはずである。

例えば終わり名古屋城、ここは城づくりの名人と呼ばれた加藤清正と福島正則が徳川家康の依頼によって築城したものである。

岡崎城、駿府城など譜代大名が配置され、有事の際の防衛のためだったが、官軍は何事もなく江戸まで進めたのであった。

これは尾張藩主徳川慶勝の手配によるものだった。

慶勝は沿道に配置された大名、旗本、寺社に新政府への恭順を説得し、それに成功したのであった。

家康が江戸を守る要として開いた御三家筆頭の尾張藩が、倒幕軍を導くことになったのである。

勤王を貫くとは言え、相当な覚悟がなければできないことであり、強権ではなく人望がなければできないことであろう。

街道沿いの40を超える藩と400を超える旗本領、寺社などから、新政府側に恭順し官軍の支援を約束する誓約書が慶勝の手元に集まった。

これにより無駄な血が流れずに済んだのである。

これらの諸藩が慶勝に従ったのは、慶勝がまず自ら血を流し、勤王の志を天下に見せたからであった。

勤王を貫いた尾張藩主としての苦悩

1868年(慶応3年)10月13日、二条城において大政奉還を宣言し、翌日、政権を朝廷に返上した。

2ヶ月後、慶喜と倒幕グループの権力闘争はついに終わりを告げる。

12月9日に慶勝率いる尾張の兵のほか、薩摩、土佐、越前、浅野の各藩の兵が御所の警護を会津と桑名から引き継いだ。

王政復古の大号令が発せられ、新たな政府の運営体制が発表される。

「一会桑」を排除するためのクーデター、いわゆる王政復古のクーデターである。

摂政、関白、左大臣、右大臣などの官職は廃され、新たなに総裁、議定、参与によって政治が行われる仕組みとなった。

その10人の議定に徳川慶勝は名を連ね、さらに尾張藩からは20名の参与のうち、3名の藩士がメンバーになった。

徳川の代表者として慶喜ではなく、慶勝が新政府に入った。

その日の夜の会議で、徳川慶喜が不在のまま、幕府の領地400万石と正二位内大臣の官位を返上すること(辞官納地)が決まり、それを二条城に伝えに行く役目は慶勝と春嶽に任された。

朝敵になりたくない一心の慶喜は、抵抗することなく辞官納地を受諾している。

慶勝は尾張の領地を徳川宗家に返し、慶喜を支えることを申し出たが、慶喜はこれを断ったという。

慶喜の処分にについて二分する勢力が同じ京都にいることは、両軍の偶発的な戦となることもありえると考えた慶勝は、慶喜に差し当たり二条城をからでて、大阪城に移るように進言した。

もはや新政府の重鎮である慶勝には、薩摩が武力倒幕しか考えておらず、戦いの口実を作ることに必死になっていることはわかっていたのだ。

これに慶喜は応じ、会津兵3,000人、桑名兵1,500人を連れて、12月12日の夜、慶喜は大阪に向けて出発した。

徳川をできる限り温存し、新政府の早期樹立による国内の安定を図ろうとした慶勝は苦悩の度を深めていった。

一旦大阪城に入った旧幕府軍であったが、新政府側からの挑発に会津を筆頭にして怒りが頂点に達し、ついに京都に攻め上る。

鳥羽伏見の戦いの始まりであった。

旧幕府側の軍勢は1万5千、対する官軍5千、数からみれば勝敗は明らかで、開戦当初はその通り官軍が劣勢となる。

味方の苦戦の報に、その将である西郷は「皆、死せ」と言うほかなかった。

これに負ければそれで終わりだった。

しかし形勢は一挙に大逆転する。

錦の御旗が翻ったからである。

錦旗が立った、この報が戦場を駆け巡り、旧幕府軍から官軍に寝返る藩が続出する。

旧幕府軍は総崩れとなり、大阪城に退却する。

その夜、慶喜は会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬を無理やり大阪城から連れ出し、幕府海軍の軍艦の乗り込み、江戸を目指した。

主のいなくなった大阪城を引き取った官軍の代表は、慶勝であった。

御三家筆頭が、徳川宗家の敗走の事後処理をする、慶勝の心中やいかに。

それを見透かしたように岩倉具視から最後通告ともいえる、手紙が届く。

藩に戻って軍を率いて慶喜を加勢したいのなら、好きにしてよろしいが、それ以降どんな嘆願をしても聞き入れないので、覚悟するようにというものだった。

それと前後し、国元で佐幕派が慶勝の子である現藩主を擁して、旧幕軍に加わろうとしているという情報がもたらされる。

慶勝の判断の行動は素早かった。

幕府との決別

尾張藩の藩士は二つに分かれていた。

藩祖・徳川義直の遺訓、「王命によって催さるる事」に従う尊王派と、幕府に恭順する佐幕派が存在した。

全国の藩の多くが鳥羽伏見の戦い以降、新政府に従うか、これに抵抗するか、藩論が沸騰していた時期である。

薩摩と長州が主体の新政府の軍事力は幕府のそれと比較すれば数の上で劣り、資金的にも潤沢とは言えない。

一方の幕府は長州征伐で負け、慶喜の将軍就任でも巻き返すことができず、ついには朝敵になった。

慶勝が藩をどうまとめるかを諸藩は注目し、岩倉の狙いもそこにあったのかもしれない。

帰藩した慶勝の指示は冷酷そのものだった。

理由を「勅命」とし、佐幕派の家老以下14名の藩士を処刑、また14人の家族は住居・食禄を取り上げられた。

他の佐幕派の藩士にも蟄居、隠居を申し渡し、藩から一掃してしまう。

「青松葉事件」として語り継がれているが、1月20日に帰藩して25日までにすべての処分を終わらせてしまった。

そして残った藩士から血判を取り、尾張藩は一致して新政府に従うことを確認する。

この処分が慶勝独自の判断なのか、他からの指示なのか、本当に佐幕派が幕府に加勢しようとしていのか、など謎の多い事件であった。

諸説あるなかで、慶勝がその部分の日記を破棄し、相談を受けていた松平春嶽の手記にも破棄した形跡があることから、何らかの陰謀であったことは間違いがない。

さらに明治になって、新政府はこの14名の名誉回復を図ったことから、新政府内のなんらかの示唆を、慶勝が過激に実行したようにも推察される。

穏便にすませているような余裕がなく、征討軍の江戸への道中の安全確保を優先した慶勝の必死に行動だとすれば、苦渋の決断だったことは間違いがないだろう。

御三家筆頭の尾張藩内の佐幕派の粛清と藩全体の誓約は、幕府との決別であり、慶勝個人としても兄弟、従兄弟との決別であった。

この事件のあと、街道全域の大名は尾張藩に新政府への恭順を誓ったのだった。

家臣を切ることで天下に覚悟をしめし、自らの立場を捨てて明治の扉を後押しした慶勝の姿に恭順した。

徳川慶勝は、時代の変わり目の貴重なセットアッパー

徳川慶勝ほどこの幕末の時代で、地位の高さにより大きな役割を任され、歴史に大きな功績を残した人物はないであろう。

倒幕方には名君はおらず、身分では劣るが行動力と信念が強い若者ばかりが目立つ。

徳川方は慶喜を始め、新しい世の中に向かっての構想力に欠け、どこか無責任に見える。

その間に立って、できるだけソフトに幕府を終わらせ、新しい時代へとつないでいったのは慶勝であったと言える。

勝がクローザーなら、その前のセットアッパーが慶勝であった。

その最たる例は第一次長州征伐であった。

1864年(元治元年)7月、孝明天皇は長州征伐の勅令をだす。

禁門の変の制裁として、ついに長州は朝敵となった。

この際、「一会桑政権」と幕府中央はその総司令官の人事を巡り火花をちらした。

「一会桑政権」は当然、慶喜を推す。

幕閣が推したのは慶勝であった。

慶勝は総督となり、その参謀を薩摩の西郷吉之助、以下15万人の大軍を率いる。

慶勝と西郷はまず広島城まで進軍し、ここでまず長州藩の家老たちと面会した。

総督と総督参謀は、ここで長州藩を叩くのはまずい、という判断をしている。

戦が始まれば、藩主親子の首を取らざるを得ないことになるかもしれない。

その時には長州は死に物狂いの戦い、遠征軍側にも相当な被害がでるだろう。

この隙に西洋列強が植民地化を意図した侵略をするかもしれない、と勝海舟が最後を説得し、西郷が厳罰論を取り下げた。

慶勝だけに限れば、長期戦になれば、より国内情勢が流動化する可能性があり、幕府存続のためにはこのリスクは取るべきでないとしたのである。

「断固長州を叩くべき」という京都と幕府中央双方からの声を抑え、独断で長州との交渉をまとめ、降伏の条件を決めてしまう。

藩主親子の謝罪、三家老の切腹、長州に逃れた七卿を長州から追放すること、この三つである。

慶喜はこのことを「どうも総督が、酒よりもよく酔える芋に酔ったらしい。その芋の名は大島(西郷)というとか」と手紙に残した。

最後の七卿の件は、高杉晋作が藩に革命を起こしたためうやむやになるが、慶勝は粛々と撤兵した。

この時の慶勝の判断が明治維新に与えた影響は計り知れない。

長州が滅亡せず生き残ったことが、短期に明治政府を誕生させたと言っても過言ではないだろう。

明治が誕生するために必要とした人材が生き残ったのである。

それをほぼ独断で行ったのが慶勝だった。

第二次長州征伐も行われたが、慶喜が途中で放り出し、勝麟太郎が講和を取り仕切っている。

徳川慶勝は明治政府には入らず、藩士と共に生きる

江戸城無血開城の後、旧幕府軍と官軍の戦いは東北、新潟で局地的に継続していたが、官軍優勢の状況となった。

徳川慶勝はその最中に議定を辞任し、新政府から去る。

その後一時的に名古屋藩知事を務めるも、廃藩置県後には退任し、徳川宗家の当主として徳川一門とその家臣らの面倒を見る。

明治11年には尾張藩士たちの北海道開拓事業を指導し、政府に土地の払い下げを政府に働きかけ、その資金も提供した。

武士の世の中が終わり、彼らの仕事を確保することには労を厭わず、同時に新たな国づくりにも貢献したのだった。

彼らが開拓した土地は北海道渡島半島の北部で、現在は八雲町になっている。

八雲の地名は慶勝が平和な理想郷建設を願い、日本最古の和歌である須佐之男命(スサノオノミコト)が読んだ

八雲立つ
出雲八重垣妻籠みに八重垣作る
その八重垣を

を引用して名づけた。

その地に慶勝をまつった神社がある。

その八雲神社は、尾張藩士たちの末裔により、しっかりと今も守られているのである。

慶勝の写真

慶勝は写真を趣味としていた。

慶喜も同じように多くの写真を残しているが、慶勝は慶喜よりも早い時期に写真に興味をもち、撮影と撮影するに必要な技術を会得した。

安政の大獄の時期に蟄居となり、手持ち無沙汰となった時間で、西洋の技術を学んでしまったのだ。

その腕前は残された多くの写真を見ることができる。

名古屋城の解体の様子や、江戸から東京に変わる時代の街並みの変化など、歴史の資料としても価値のあるものが多い。

兄弟の肖像写真はいうまでもなく、岩倉具視や三条実美らの写真もある。

これらは本にまとめられ、近年出版されたのだが、その表紙の写真は明治11年に撮影された高須四兄弟のポートレートである。

当時慶勝は55歳、亡くなる5年前の姿なのだが、年齢より老けて見える。

他の3名は慶勝よりも若いはずだが、みなどこか表情が硬く、人間のように見えない。

実はこの写真は維新後、四兄弟が初めて一同に会した時のものであるという。

容保と定敬、そして慶勝、どのような会話だったのだろう。

その時の慶勝の心境が想像できる逸話が残されている。

慶勝が大切にしていた、写真のガラス原版には、会津城が写されていた。

官軍の砲弾で無残な姿となった、天守閣の写真であった。

徳川の男として、兄として、その写真に果たせなかった思いを映していたのではないか。

徳川慶勝のような人物が、歴史の陰でよく見えなくなってしまっているのは惜しいのである。

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