ひろ(女性・30代前半)
マーガレット・サッチャーとは
マーガレット・サッチャーとは、イギリスで初めて女性の首相になった人物である。
2013年4月に87歳でこの世を去ったが、
その訃報をきいてアメリカの大統領やドイツ、
日本の首相などが相次いで追悼の意を表明されたことから、
それだけ世界に影響力を及ぼした女性といえるだろう。
サッチャーはリンカンシャー州で生まれ、父は地元の名士で、市長を勤めたこともあるそうで、サッチャーも尊敬していたようだ。
そんな尊敬する父の精神でもある、質素倹約、自己責任、自助努力はサッチャーにも受け継がれ、人間として必要なことは全て父から学んだとよく口にしていたらしい。
オックスフォード大学を卒業してからは、研究者の道に進んでいるが、そこから運命に導かれるかのように、保守党から下院議員の選挙に立候補するが、落選している。
それから1年後に、10歳年上のデニス・サッチャーと結婚。
出産をし子供を2人授かったが、政治への道が諦めきれず、法律の勉強をし弁護士資格を取得。当時はまだ女性が権力を持てなかった時代だが、サッチャーは2度目でやっと下院議員の選挙に当選したのである。
その後、保守党の党首になりそのまま首相の道へと進んだ。
サッチャーが亡くなった後、子供たちは母親の愛情を十分に受けることが出来なかったと告白している。
常に国のことばかり考えてきたサッチャーにとって、自分のことは愚か、子供たちに愛情を与える時間などなかったのだろう。
誰よりも国を良くしようと考えていたからこその犠牲だったのではないだろうか。
サッチャーが行った政策は、瀕死の状態だった国を大きく変えた。
国を変えるのだから、感謝するものもいれば、恨むものもいたようだ。
それだけサッチャーは政治家として、優秀だったという事なのだろう。
マーガレット・サッチャーが結婚した夫デニスとは
サッチャーにとって、夫の存在は大きかったのではないだろうか。
10歳年上の夫、デニスは家族が経営する会社に役員として勤めていた。
結婚し、出産し母親になったサッチャーが周りの目を気にせず、自分の信念を貫くことができたのは、いつも暖かく見守ってくれたデニスがそばにいてくれたからなのだろう。
そんなデニスだが、2ヶ月ほどサッチャーの元を離れ、南アフリカに滞在していたらしい。
選挙に当選した後、仕事に没頭し家族の時間をほとんど作らなかったサッチャーとのすれ違いの時間の中で、おそらく子供たちのことも考えて離婚も考えての行動だったのではないだろうか。
デニスはその後もサッチャーの夫として、また首相の夫としても支え続けた。役員を辞めてから、常に近くにいたデニスは、改革に行き詰まっていたサッチャーに、助言をしていたのではないかと言われている。
あまり表に出ることがなかった夫だが、デニスが影で支えていなかったらサッチャーはここまでの偉業を成し遂げることは出来なかったのではないだろうか。
マーガレット・サッチャーが鉄の女と呼ばれた理由
サッチャーが首相になってから、彼女は“鉄の女”と呼ばれるようになった。
当時のイギリスは、“ゆりかごから墓場まで”という手厚い福祉政策があり、この過保護な政策が、人々から働く意欲をなくしていた。
気に入らないことがあると労働組合が先頭にたってストライキを起こすなど、国に依存する人達であふれていた。
そこでサッチャーは、サッチャリズムという政策を生み出し、経済全般を活性化させるために人々の意識改革に取り組んでいった。
働かざるもの食うべからずと言わんばかりに、真面目に働く人々の税負担を減らし、収入の有無に関係なく国民に税負担を強いるようにしたのである。
サッチャーは国を良くするために、国民に労働意欲の向上を求め、何を言われようがその信念を曲げなかった。
そうすることで、国が発展し、経済成長することで国民に還元できると思っていたのだろう。
その信念は、イギリスが実効支配していたフォークランド諸島にアルゼンチンが領有権を主張し武力侵攻してきた時にも発揮された。
すぐさま軍隊を派遣し、武力に屈しない態度をみせるサッチャーに、アメリカのロナルド・レーガン大統領に平和的な解決をするため、話し合いをしたらどうかと提案されたにも関わらず、聞き入れようとはしなかった。
おそらくサッチャーは先頭に立って闘うことで、国民の意識が変わることを望んでいたのではないだろうか。
結果、この争いでイギリスは勝利し、サッチャーは国民から英雄として称されたのだ。
だが、サッチャーはそんな国民をさらに厳しく自主自立させようと、労働組合と戦うことになり、さらに恨みをかうことになる。
そんな中、IRA(アイルランド共和軍)というテロ集団に、サッチャーが滞在していたホテルに爆弾を仕掛けられ、命を狙われることがあった。
それでも彼女は怯まず、強固な姿勢を貫いたのである。
冷戦が続いている中、旧ソ連のことを否定するような発言をしたことで、彼女の信念は世の中に知れ渡り、世の中がサッチャーのことを“鉄の女”と呼ぶようになったのだ。
サッチャーはたとえ国民に非難されようが、命を狙われようがその信念を曲げなかった。
そのことが鉄のように曲がらないと例えられたのではないだろうか。
これからの人生の教訓になるマーガレット・サッチャーの名言
サッチャーは多くの名言を残している。
名言1「考えは言葉となり、言葉は行動となり、行動は習慣となり、習慣は人格となり、人格は運命となる。」
名言2「リーダーは好かれなくてもよい。しかし、尊敬されなくてはならない。」
名言3「好かれようとしているだけなら、いつでも何でも妥協する用意があり、何も達成しないだろう。」
名言4「幸運だったわけではありません。私はそれだけの努力をしてきました。」
努力してきた人間から出てくる言葉ほど、深いものである。
まとめとして今時の日本人がマーガレット・サッチャーから学びたいこと
サッチャーは、鉄の女と呼ばれるほど強い女性だった。
しかしその強さはどこから出てきたものだろうか。
そもそもサッチャーは国を良くしようと立ち上がり、それを実現させただけなのである。
おそらく信念を貫く方法がこれしかなかっただけに過ぎず、その目的に対してただ真っすぐに進んだだけなのだ。
本当に目的を達成させようとする人は、周りに何を言われようがそれを貫ぬき、自分が変わり続けられる人でなければならないのではないだろうか。
サッチャーはそれを教えてくれる人物である。