今回は松平容保を語ります!
松平容保(かたもり)は
若くして会津藩主になり、京都の守護職に抜擢される。
幕府の権威が低下するとともに、治安が悪くなった京都において勤王派の取り締まりのためであった。
そのころの会津藩は財政的な余裕もなく、
「激しい勤王運動に対峙することは藩の存亡に関わること」
と、家臣たちに反対された。
それでも容保は家訓に従い
徳川宗家のためならば役目を全うすることを決意する。
京都守護職は幕府崩壊まで続いた。
その間、体の弱かった容保はそれを理由に何度も職を辞そうとしたが、孝明天皇と幕府はそれを許さなかった。
陰謀が渦巻くなかで
孝明天皇は容保の一途な忠義だけを信じるようになったからだ。
その一方、幕府は公武合体を進めるために、
孝明天皇との関係を強化したかったため容保は重要な人物となった。
その挙句、逆臣として朝敵にされ新政府軍に討伐されることになってしまった。
京都守護職に恨みをもつ勢力が新政府となったからである。
会津藩は悲惨な末路をたどる。
しかし容保には逆臣となるような振る舞いはなく、
その証拠に孝明天皇が残した容保への信頼の証があったのである。
それなのに、容保はそれを公にしなかった。
その理由はなんなのであろう?
君主との関係、歴史とのかかわり、家臣との関係など、
容保なりの考えがあったのである。
容保の生き様を見る時、歴史とは勝者のものであり、
その陰に隠されてしまった敗者の真実にこそ歴史の事実があるということを感じざるを得ない。
このような目線で歴史を見直してみると、先人たちから学ぶべきことがまだまだたくさんある。
明治政府を震撼させた『京都守護職始末記』
明治30年は孝明天皇の三十年祭の行われた年であった。
この年、会津松平家政顧問の山川浩は弟である山川健次郎の家を訪ねた。
山川浩は会津松平家の家臣で、戊辰戦争においては、会津の鶴ヶ城で西軍と戦った。
その後、陸軍で軍人になり、佐賀の乱、西南戦争で活躍し、陸軍少将に出世した。
明治30年当時は貴族院議員に勅選されていた。
弟の山川健次郎はアメリカのエール大学で学び、帝国大学理学部教授を経て、理科大学長の職にあった。
「維新が成って30年なったこともあり、会津藩の事情とくに京都守護職当時の会津藩の公武の間に尽くした事情を最も赤裸々に認めて、これを書物にしてもよいのではないか。」と兄から弟に相談が持ちかけられた。
弟が兄に同意し、帝国大学文科大学の史料編纂係であった池田晃淵に起稿を依頼し、『京都守護職始末記』という史書が誕生する。
この史書の最も重要な点は、幕末の孝明天皇が最も信頼を寄せていたのは会津藩主松平容保であったことを明らかにしていることだった。
松平容保は言うまでもなく、山川浩の主君であり、明治30年の当時、すでに亡くなって4年が過ぎていた。
この史書は孝明天皇の信頼の篤さを証明するものとして、容保に送られた御宸翰および御製があることを初めて記述したところである。
孝明天皇が8月18日の政変で、会津藩と薩摩藩が同盟して長州の兵と三条実美以下の7名の攘夷派公卿を京都から追放した直後に、その喜びを感謝状として容保に送ったのがこの御宸翰と御製であった。
孝明天皇は天皇の威を借り幕府を圧迫し、意のままにふるまおうとしている長州と公家のグループを嫌っていた。
天皇自身は外国嫌いの攘夷派であったが、幕府とは協調する「公武合体派」であった。
朝廷内でも権力闘争と陰謀が渦巻き、心を痛める日々が続きた天皇にとって、誠実に職務を遂行する容保は、唯一の信頼できる人物であったのだ。
御宸翰には「朕の存念貫徹の段、全く其の方の忠義にて、深く感悦のあまり」と記されている。
御製は歌のことで「たやすからざる世に武士の忠誠のこころをよろこびでよめる」と二首が送られている。
このことがなにを示しているかは言うまでもなく、明治維新の動乱の前提が根本的に覆されるのである。
会津は賊であり、官軍はそれを討った正義である、はずだった。
それが天皇から頼られていた、とすれば、その会津を討ったことはなんだったか。
それこそが帝の御心に背くことになる。
薩長が朝廷から密勅を受け、賊軍を討った、という歴史があるから明治政府の正統性があり、決して幕府の代わりに薩長が権力の座についたのではない、という薩長史観が崩れてしまう。
結局のところ、政府が賠償金ともいえる三万円(現在の三億円に相当)を会津松平家に渡すことを条件に、この本は出版されなかった。
子爵に列せられていた会津松平家であったが、会津の地から離れて以来、赤貧にあえでいたところに、大変な恵みになったという。
隠し通されていた御宸翰
容保が孝明天皇から御宸翰を送られていたことは、家内でも誰も知らないことであった。
先帝と自分の信頼関係を知られることは不要と考えた理由は、身を殉じて忠誠を誓っていたからであろう。
孝明天皇の死は表向き疱瘡であったとされるが、あまりに短期間に亡くなったことを疑問視する声があった。
このころの容保の心中を察するとすれば、先帝との信頼関係が誰にどのように利用されるのかを恐れたのかもしれない。
大事な思い出をそのようなことで失いたくなかったことは理解できる。
御宸翰の存在が明らかになったのは容保の死後で、その首からかけていた竹の筒の中を他人が見ることができるようになったからであった。
同じく会津松平家の家老であった神保内蔵助の次男で、のちの長崎市長になった北原雅長。
明治37年に会津の勤労の立場を明確にした著作を発表、そのなかに御宸翰を紹介し、世に知れ渡ることになった。
このため、『京都守護職始末』の出版を自粛する意味もなくなり、山川健次郎は明治44年に『京都守護職始末』の刊行に踏み切った。
これにより、史実として会津藩が賊軍であったことは否定されることとなった。
倒幕の密勅にあるような「罪」がなかったことが証明されたのだが、その後も会津の差別は続いた。
学校の教科書には会津が賊軍の巨魁であり、鶴ヶ城に立て籠り、1か月の間、激しく抵抗したことが明確に書かれていたのである。
昭和16年になるまで、旧会津藩士の抗議があったにも関わらず、内容の変更がおこなわれることはなかった。
実のところ、会津攻撃に至る過程では、会津藩は恭順の意を伝えていたのにも関わらず、
西軍が度重なる不当な態度により、受け入れなかったことにより戦となった。
圧倒的な軍事力の差があるなかでの戦いを強いられた会津藩を賊軍と貶め続けなくてはならなかった長州の執念であろう。
松平容保の悲劇
井伊直弼が桜田門外で遭難して以来、幕府の権威は落ち始め、抑え込まれていた尊王攘夷派が勢いを取り戻す。
孝明天皇は外国嫌いであったため攘夷を強く望んでいたが、一度開国してしまったものを元に戻すことはもはや不可能であった。
開国により物価が高騰したため、経済の悪化は開国によりもたらされたものという認識が広まった。
これによる攘夷運動の高まりがあったところに、孝明天皇が外国を嫌っていることから攘夷の正当性を訴えるために「尊王」が結合し、尊王攘夷運動が激化する。
朝廷=攘夷、幕府=開国の二項対立の構図となり、下級武士が脱藩して京都で公家と結びつき、この運動をさらに広げていた。
幕府はその対策として、公武合体をさらにすすめるため、
孝明天皇の妹である和宮を将軍家茂の御台所として迎えることが叶えば、攘夷を実行するということにした。
幕府と朝廷の関係を強化し、国内の求心力を回復する狙いがあった。
一方で朝廷の権威を借り、幕府へのプレッシャーをかける長州、薩摩などの外様もまた、天皇に近づくことがなにより重要と考えていた。
和宮の降嫁が無事成立したが、これらの動きが重なり、幕府の思惑通りには進まず、
1862年(文久2年)の京都の町はテロが横行していた。
公武合体に反対し尊王攘夷を掲げる刺客たちが、公武合体派や開国派の公家や役人たちを連日連夜、暗殺していたのである。
京都所司代という幕府が京都においた治安維持のための機関ではこの事態に対応することができず、幕府内で主導権を握っていた一橋慶喜と松平春嶽は京都守護職をおくことを決める。
彼らは強大な軍事力を持つ会津藩の力を借りたいと考え、会津藩主松平容保に京都守護職への就任を要請した。
これに対し会津の家老たちは
「このころの情勢、幕府の形勢が非であり、いまこの至難の局に当たるのは、まるで薪を背負って火を救おうとするようなもの。
おそらく労多くして功少なし」
として、辞退するように容保に求めた。
財政的にも余裕がなく、このうえでの出兵は会津が滅ぶことになりかねない、などの意見が続出する。
しかし容保は、
「そもそも我家には宗家と盛衰存亡を共にすべしという藩祖公の遺訓がある。
余不肖といえども一日も報效を忘れたことはない。」
と会津松平家としてこの重責を負うことの決意の固いことを伝えた。
この容保の説得に家臣たちは感動し、
「この上は義の重きにつくばかり、君臣共に京師の地を死に場所としよう」
と涙したという。
これが悲劇の始まりであった。
会津が滅ぶかもしれない、という家臣たちの危惧は現実のものとなる。
会津の務めは将軍家を守ることである、これを容保は愚直に貫き、慶喜の言うことを律儀に守り従った。
この生真面目さ、素直さが会津を滅ぼすことになった。
慶喜に利用された、と言うのは言い過ぎかもしれないが、
江戸に逃げ帰った慶喜は容保に帰国を命じ、自分はさっさと蟄居してしまい、自らの保身だけを願った。
その慶喜のために京都で長州藩や土佐藩の勤王派を弾圧、
「会津中将は地に飢えた鬼畜」
とまで言われた容保と会津に向けられた憎しみについて、慶喜はどのように思ったのだろう。
それを容保と会津だけが彼らの血によって贖うことになったのだ
孝明天皇からの絶大な信頼
容保に対し、どのようにして孝明天皇が信頼をあつくされていったのかは、容保が会津軍とともに入京した時から始まる。
入京に先立ち、容保は幕府に対して公武合体と攘夷について建議書を提出している。
この中に
「朝廷より江戸へ下る勅使の待遇を改め、礼節をもって迎えること」
を幕府に提案している。
このことが孝明天皇の耳に届き、初めての参内の時に、御料の御衣を賜ることとなった。
1863年(文久3年)1月のはじめのことである。
このころの孝明天皇の悩みは深かった。
孝明天皇は幕府と手をとりあって、内外の問題を解決する意思をもっていたが、尊王攘夷を口実にしていたずらに幕府や会津への妨害工作を続ける公家たちが存在した。
その者たちは長州と手を組み、天皇の知らないところで偽の勅書を作成して幕府を動かそうとする。
幕府側も将軍が上洛しても、理由をつけて江戸に帰ろうとし、孝明天皇の目指す公武一和を理解しているようには思われなかった。
唯一、容保だけが理解者となってしまった。
容保を京都から遠ざけようとして、攘夷過激派の公家たちは容保が江戸に下るように偽の勅令をだす。
これを不審に思った容保が情報収集させてみると、そのような勅令がでるような背景が全くでてこなかった。
やがて孝明天皇の耳に入り、この事態を重くみて、異例中の異例の行動にでる。
容保に直接、文をだしたのである。
「今、守護職を東下させることは朕の少しも欲しないところで、驕狂の者がなした偽勅であり、これが真勅である。
今後も彼らは偽勅を発するであろうから真偽を察識せよ。
朕はもっとも会津を頼りにしている」
その後8月18日の政変により、長州と過激攘夷派の公家7人が京都から追放されたが、それでも孝明天皇の憂いが完全に晴れたわけではなかった。
幕府との距離は近くならず、公武一和が充実してこないことから、朝廷内では幕府の統治能力と攘夷の決行について、不信が高まりつつあった。
容保が入京して2年目の2月、孝明天皇は再び容保に文をだしている。
「今までの宮廷内の暴論がいかに自分の意志ではないところで」行われてきたか説明し「なにとぞ極密の計略をもって私の心底を貫徹してくれまいか」と訴えている。
このころ、体があまり丈夫ではなかった容保は病が重くなり、二条城へ登城することが難しくなってきていた。
無理をおして登城すると、長州征伐が決まりその軍事司令官への就任が容保に命じられる。
このため京都守護職は松平春嶽に引き継がれた。
この人事異動は容保を頼みとしていた孝明天皇は大きなショックを受ける。
慶喜に再考を求めたり、春嶽に相談しようとしたりしていた。
しかし2か月後、4月になると容保は京都守護職に復帰する。
天皇はもちろん、幕府の高官たち、そして新撰組もそれを強く要望したからであった。
しかし肝心の容保の容体はさらに悪化し、食事もとれないほどであった。
そのため、容保は京都守護職の辞職を幕府になんども願いでているが、許しはでなかった。
そしてこの夏、長州が会津に深い恨みを持つことなる蛤御門の変が起こる。
長州藩の軍が再び京都に現れ、御所に突入しようとしたため、会津藩と薩摩藩が実力でこれを防いだ。
長州の目的は自らの名誉の回復と、会津藩への復讐であった。
身勝手極まり、倒錯した考え方であり、孝明天皇は毅然と声明をだす。
「守護職の議、肥後守(容保のこと)へ申し付け候、同人忠誠の周旋、決して私情をもって致し候にてはこれなく、その旨心得べきこと。
長州人の入京は決して宜しからざること」
この戦いでは容保は孝明天皇を自らが護衛した。
数夜にわたり、家臣の肩を借りながらの陣頭指揮は、病状をさらに悪化させたが、孝明天皇からの信頼はあつくなるばかりであった。
孝明天皇は容保の病の治癒を祈った。
そのおかげもあってか、次の年1865年(元治2年)の春を迎えるとともに、容保の体調は回復したのであった。
幕府との公武一和のもとで、再び国全体をひとつにして、外国との交渉を丁寧にすすめたかったのが孝明天皇の真意であり、その一番の理解者は容保であった。
幕府はこの点において、旧態依然とした思考から抜け出せず、容保の警告にも耳をかさないまま、衰退の一途をたどるのであった。
在京5年、報われることのなかった京都守護職
1862年(文久2年)の暮れも押し詰まったころの入京から、
1867年(慶応3年)12月、王政復古のクーデータ後に慶喜とともに京都を去るまでの5年間、
会津はおろか江戸に下ること一度もなく、
ただひたすら孝明天皇の安寧に心を砕き、公武一和のための幕府を説得し、
さらに幕府の権威回復のために鼓舞し続けた容保に対して、歴史は非情な報いを与える。
1866年(慶応2年)に14代将軍家茂が亡くなり、さらに年の終わりには孝明天皇が突然に崩御される。
公武一和がこれから本格的に動こうとしていた矢先であった。
翌1867年(慶応3年)には第二次長州征伐で幕府は敗退し、倒幕派は勢いをつけた。
薩長とそれを支持する公家による倒幕運動が激しくなり、ついに慶喜は大政奉還するに至った。
それにより一旦落ち着くかと思われたものもつかの間、武力倒幕は目的を変え、慶喜と容保、桑名藩主の松平定敬を討つべしという、勅令がでるのであった。
孝明天皇に愛された容保は、まったく逆の立場に追い込まれたのである。
慶喜の大坂脱出時に「貴公が残っては戦が続いてしまうから」という理由で、容保は連れだされて海路幕府の軍艦で江戸に下る。
残された会津藩兵は2月になってようやく江戸にたどり着く。
その間に容保は大阪から逃亡した責任を取り、藩主を辞し、養子の喜徳に譲ってしまう。
容保は大坂から下ってきた兵たちに向かって、鳥羽伏見の戦いの慰労と大阪からの脱出を詫び、会津で再起を兵と共に誓う。
その後、慶喜により江戸城への登城禁止と江戸追放の命が容保にだされ、会津の江戸屋敷にいた藩士とその家族は会津に向かう。
西軍は3月に江戸の無血開城、上野での彰義隊の鎮圧を経て、北へ進路を取る。
8月には会津領内に侵攻し、大砲100門、3万ないし4万人の軍勢が城を包囲し一昼夜鶴ヶ城へ砲弾を打ち続けた。
会津藩は敗北した。
会津藩は会津を失い、本州の北端、下北半島に移った。
最北の地でありながら、彼らは斗南藩という名前で再起を図る。
厳しい気候、荒れ果てた土地、衣食住すべてに支障があり、移住者全員が暮らしていけるようになるとは思われなかった。
一方、容保は和歌山藩へ預け替えとなる。
会津の戦後処理を任されたのは長州の木戸孝允であった。
一時は容保の斬首が検討されたというが、それは会津の家老萱野長修の切腹と、そのほかの家臣たちの奔走により回避された。
1871年(明治3年)には藩の再興も認められたが、会津人2万人弱に与えられた土地は斗南であった。
運よく土地に根付く者もいれば、会津に戻る者もいた。
いずれにしても、会津で戦を経験した者には終生苦労が尽きなかった。
東京で軍人や警官になるものもいた。
会津出身の軍人や警官が西南戦争で大活躍したことが、ささやかな誇りとなった。
明治になっても容保の生き方は変わらなかった。
容保の実兄である旧尾張藩主である徳川慶勝から容保に尾張徳川家相続の話がもちかけられたが、容保は辞退した。
「自分の不徳から起こった幕末の動乱で苦難を蒙った人々のことを思うと、自分だけが会津を離れて他家を接ぐわけにはいかない」というのがその理由であった。
会津への愛情は終生変わらず、会津磐梯山が噴火し、旧会津藩の領民が被災したと聞けば、現地に赴き慰問して喜ばれたという。
会津藩主松平容保から日本社会を考える
あらゆる歴史は勝者の歴史であるという。
松平容保の生涯を詳しく知るとその思いが強くなる。
極論すれば歴史の目的は後世に事実を残すためではなく、勝者が自身の作った世の中がさらに続くことを目的にした、権威付けの道具である。
薩長史観というときの、史観とはこの権威付けであろう。
誰しもが自分の所属している社会に誇りを持ちたいと願い、それに値する歴史があることを期待する。
国としての歴史が浅い国は、歴史の代わりに建国の理念をことさらに尊んだり、個人への崇拝をさせたりする。
為政者たちはそれを装飾して膨らませた方がより支持を得やすいと考えるのかもしれない。
しかし白を黒、善を悪、とまですることについては、素朴な感情がそれを許すのだろうか。
あえてその不正義に手を染めることで、他方を満足させられたとしても、長続きすることなのだろうか。
あの時代、会津に生きた人々はこの問いを持ち続けたのかもしれない。
この松平容保という人物に照射して浮き上がる真面目で誠実な姿と、薩長史観のいずれかがこの国の真実であった欲しいかといえば答えは自ずと決まってしまう。
しかし敗者には発言権はないのである。
敗者には勝者よりもより高いレベルでの倫理観と歴史観があった、という皮肉もあるだろう。
そうでなかったら、永久に復讐の繰り返しになるだけだ。
憎しみの連鎖を断ち切るには、寛容と忍耐に優れた人たちがでるしかない。
会津の人たちの気質、教育が長州のように私怨のみで戦をしかけるようなことをしなかったから、この国は早期に安定し、近代化を進めることができた。
それどころか、政府に協力し、各界で活躍した人材を多く輩出している。
入京当時、あまりに陰謀と策略に満ちた状況に、家臣が
「様々な策謀が巡る混乱の時局、こちらも策を弄して参りましょう」
と進言したところ、容保は
「策は用いるな。最後には必ず一途な誠忠が勝つ」
と家臣を叱ったという。
理屈を振り回し熱狂で人々を動員するやり方は一時的なものであり、
ずっと続くのは誠忠という態度である、というこの話は、
信念や一貫性よりもポジション取り、承認を取ることに四苦八苦している現代社会の息苦しさと対称的である。
容保のようなリーダーシップで勝利した歴史上の人は多くはないが存在する。
忘れ去られた記憶にこそ、真の姿が残されているということを忘れないことが、歴史を学ぶにあったての誠忠ではなか思う。