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稀代の英雄、西郷隆盛の悲劇、栄光と挫折ーその生涯・人柄・名言

マス大村
マス大村
偉人ライターの大村です。今回は、あまり有名な西郷隆盛の実像に迫ります!

西郷隆盛はあまりに有名であるがゆえに、その実像がわかりにくいと考えていた。
なぜ彼が薩摩藩のリーダーになったのか腑に落ちなかったのである。
そして西南戦争で英雄にふさわしいとは言えない最期。
それを理解するには、薩摩独特の文化と、人々の暮らし、生き方を知らなければならなかった!
武士として生まれ、その武士の世の中を終わらせ、近代国家に向かう中での恍惚と不安、その中でどのように歴史に身を投じたらよいのか、
その苦悩は西郷にどのような決断をさせたのかの核心に迫る!

西郷隆盛の生涯・人柄は?

西郷隆盛について調べると、意外なほど、逸話がない。

幕末から明治にかけての歴史を語るうえで、西郷隆盛は薩摩藩の指導者として倒幕を推し進め、維新の十傑の筆頭に置かれた西郷であったが、なぜ薩摩藩のリーダーになれたのか、簡潔に説明するのが難しい。

巨体だったと伝わっているが、少年のころに痛めた肘のため、剣術はできなかった。

学問に力を入れていたことも、学問に特に優れていたという逸話もない。

これには薩摩独特の伝統が背景にあるという。

武士に学問は必ずしも必要ではなく、名誉心と尚武(武道や武勇を重んじること)と卑怯や臆病のないことのほうが大事であった。

堂々とした体格の外観とは裏腹に行儀はよく、他者に対しての物腰は柔らかく、言葉遣いも丁重であったという。

あくまでの武力倒幕を主張し、大政奉還後は鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争で前線に立ち、西南戦争で敗北してこの世を去った人物のイメージとは程遠い。

学問に才があったわけでなく、
坂本龍馬や勝海舟などが持っていたような、維新後の国家像があるわけでもなく、
武士としての威厳もさほどではなかったとすると、
何が彼の周りに集まった人々は、なぜ彼の指示に従い動かされるようになったのであろうか。

幕末の日本に滞在した若き英国外交官だった、アーネスト・サトウも西郷隆盛に魅了された一人である。

その回顧録には、一貫して西郷に対して好意を持っていたことが残されている。

一方で同じ薩摩でも大久保利通を嫌悪していたことがわかる。

同じ薩摩の出身の二人が、このように大きく異なる評価となるのは、単なる好き嫌いではなく、両者をわける決定的な何かの違いであろう。

この違いは背負った運命と言って間違いがない。

偉大な郷中頭であった西郷吉之助(西郷隆盛)

薩摩士族社会では、若者は住んでいる地域の若者組織(若衆)に属した。
それを郷中と呼び、その長老(おせ)である郷中頭が教育を施す制度があった。

郷中頭は20歳くらいの若者で、村の首長と同席して対等に話し合い、自分たちの共同体で起こる問題を解決していた。

郷中頭は、郷中の若者の中から推されてその役につくことが習慣であった。

郷中は元服しているかどうかで、二つのグループに分かれていた。

日露戦争で連合艦隊司令長官であった東郷平八郎は、元服前には西郷の郷中に属していた。

今でいえば、幼稚園から高校くらいまでの基本教育をこの郷中頭が任されていた。

各家々の家長は郷中頭が訪れた際には、対等に扱い、袴をつけて対面し、丁重な作法で遇したという。

西郷は18歳の時に郷中頭に推され、24歳までのそれを務めたと言われている。

だいたい20歳になると、次の郷中頭に引き継ぐのであるが、郷中の若者は彼が退くことを認めなかったからだ。

想像するに、西郷の存在は、なにかをしれくれることへの期待、ではなく、いてくれると安心をもらえる承認者だったようだ。

頭や腕力でなく、薩摩武士らしさを濃厚に醸し出すという点で西郷は他者よりも強烈だったと考えらえる。

あえて言うなら、人物の大きさに敬意を払うことが、薩摩人であるとも言おうか。

他藩の人間には、無用な愚者に見えたとしても、薩摩ではそれを理想の首領としたのである。

天が西郷に郷中頭として相応しい人格を与えたという以外、西郷の指導力の原因は存在しないのだ。

前述のアーネスト・サトウら外国人もその魅力に取りつかれるほどであったのだ。

同じ薩摩でも大久保にはそれがなく、優秀な政治家で、緻密に計算された計画の実行能力に長けていた。

他藩から見れば、大久保が有能であることはわかりやすかったのは言うまでもない。

藩全体が学問に集中した肥前出身の江藤新平、大隈重信は西郷を無能扱いしていた。

薩摩の藩風としては、その人物が理想的な首領の風があれば、これを尊敬して担ぎ、ついにはその人物のために命も要らぬということになってしまう。

西郷隆盛はまさにその人物であった。

そう考えると、大久保利通がその才能を評価し、後の宰相候補と評価した村田新八が、留学から帰還した直後、西郷の下に駆け付け、西南戦争で自決したことは、まったく不思議ではない。

西郷と村田は、幕末に京都で幕府に追われる日々を送っていた。

西郷の身代わりに新撰組を相手にしたこともあった。

西洋の個人主義を見てきてしまった村田からすれば、明治になっても独立国のようにふるまう薩摩の人々の後進性を嘆いたというが、それでも西郷の近くにいたかったという、ことなのであろう。

オセンシの中のオセンシとされた西郷隆盛の人格

郷中頭とは別に、薩摩には郷中で絶対的な権威をもつ存在としてオセンシとう人物が現れる。

オセンシは藩の役職ではなく、お上とは別に、皆がそう認める存在がオセンシとなり、オセンシの言うことには従わなければならないことを理解している。

オセンシの中のオセンシこそが西郷だったのだ。

オセンシが京に上れば、京にいる薩摩の人間は西郷の命に従い、そしてまた薩摩から西郷に引き寄せられるように京を目指した。

圧倒的な不利な戦いとなった鳥羽伏見の戦いにおいて、西郷は「皆、死せ」と言ったという。

そんな状況であっても、西郷に従い死力を振り絞って戦い抜くのは、オセンシが言われた、からなのだ。

この極めて合理的とは程遠い薩摩の気風があったがゆえに、常識では考えられないような流れで、幕府が倒れ、維新が成ったのである。

西郷と大久保の悲劇

その西郷にとって、生涯で唯一の主は島津斉彬だった。

西郷がわずかながら持っていた日本の国家像と外交方針は、斉彬から聞いたものである。

その後、薩摩藩は斉彬の弟である島津久光が最高権力者になった。

久光は斉彬と違い、日本全体を考えるというような視座を持たず、薩摩至上主義であった。

海外との距離から日本の行く道を考えることを、斉彬から継承した西郷と、どの藩よりも薩摩が勝っていれば良いとする久光は相容れない。

しかしこの久光の思考を逆手にとって、西郷と大久保は倒幕を成し遂げ、明治維新を確固たるものにしていった。

当然、久光はおさまらない。

幕藩体制が崩壊してからあの二人のやることは、版籍奉還、廃藩置県、廃刀令、すべて久光の怒りを買うことばかりであった。

濃厚に封建時代の武士であった西郷、大久保は忠義の人でもあった。

久光が君主である以上、どんな人物であったかは忠義については関係がない。

君主と臣下の関係は絶対なのである。

このことわかりにくい構造を薩摩人たちは、他藩出身者にあまり説明しなかったことが、西郷の立場を悪くしたこともある。

木戸孝允は、二人が鹿児島県となっても税金を納めてこないことを放置していることに疑念を持ち、官職をすて薩摩に引きこもった西郷のことを「反革命を首謀している」と断罪していたという。

斉彬の遺志を引継ぎ事を成した揺るぎない忠義の心は、同時に久光への忠義も果たさなくてはならない。

征韓論に敗れて鹿児島に帰った後の西郷には、久光の目も意識しなくてはならなかった。

素朴に薩摩武士の伝統を重んじる久光の顔をたてながら、明治政府の基礎を固めるために不平士族を封じ込める役割も果たさなくてはならない。

西郷には明確に認識していた。

もはや武士の時代ではない。

不平士族たちは確かに倒幕のエネルギーになった。

しかし時代が変われば、その使い道を変えなくては、世界の列強国から独立を守ることはできない。

明治政府に不満を持つ者はもはや不要である。

自分も含めて不要なのだと。

オセンシである自分はそれを言えない。

何のために死ぬのか、それを言えない限り、黙っているしかない。

大久保も思いは同じであったはずである。

西南戦争後に大久保は暴漢に襲われ命を落とす。

従一位が贈られたが、故郷鹿児島では、西郷の敵とされ、長らく大久保は日陰に置かれてしまった。

毀誉褒貶のなんと切ないことか。

西郷隆盛の名言「おいの体、あげもんそ」西南戦争はなんだったのか

西郷が征韓論にやぶれて、鹿児島に帰還した後に、「私学校」を作ったとされる。

費用は県が負担した。

私学校には不平士族が集まり、漢文を学び軍事教練を行っていた。

暴発を防ぐため、一つにまとめるために思いついた方策である。

学校というより、大きな郷中を作ったのだ。

郷中頭の上にいるのが、オセンシ中のオセンシ、西郷であることは無論である。

武士の特権がなくなり、もはや藩制度がない時代でも、オセンシを残った。

これにより暴発を防いだのである。

余談だが、この文化的な背景を知ってから、いろいろな謎が解けた。

なぜ私学校なのか、なぜそこで西郷の下に彼らは集まったのか、憎んでいた西郷のやることに久光が金をだしたのか、など。

前述の村田新八のことも腹落ちした。

さらに西郷隆盛の弟である西郷従道が「兄が幕末であれほど功績をあげることができたのは、私たちがいたからだ」「兄が誤ったのは桐野や篠原たちだ」と言ったこと理解できた。

西郷の思考は郷中頭の思考であり続けたのである。

つまり良い人間たち周りにいれば、西郷の力は正のエネルギーになり、みんなで大きな仕事をやりぬくことができた。

逆もまたある。

その逆のことで、西南戦争のシンボルに担がれしまった。

幕末の西郷の周りにはなぜか同じ郷中の人が多く、彼らの多くは明治政府内で高官となるのだが、それは郷中で村の仕事をするがごとく、そのまま京都で、そして戊辰の戦い、明治政府の仕事まで同じようにやったのだ。

だから顔ぶれが同じなのだと気が付いて、すっきりしたのであった。

郷中頭としての西郷には、若者たちの代表として発言し、実際の戦う彼らの精神的支柱になる他ないのである。

そして彼が発する言葉はオセンシの言葉として、人々を動かすのであった。

郷中頭の伝統を守れば、頭ごなしに「暴発するな」と言えず、私学校で正統性を保ちながら、暴発を抑えることが最善だった。

しかし明治政府側の挑発により、この均衡状態がやぶられてしまう。

私学校の幹部を前に、若者たちは決起を訴える。

この中には西郷の長男もいた。

「おいの体、あげもんそ」と西郷は言った。

これで決まってしまった。

こういうしかなかったことのだった。

官軍の総指揮を執った人物が、今度は賊軍の大将となった。

武士の時代の終わりー西郷隆盛は

長州の軍制改革を行い、明治の初期に陸軍の基礎を作った大村益次郎は、生前、「西から楠木正成が攻め上るであろう、その時に備えて大坂に陸軍の本拠地を作る」と言っていたそうである。

大村の優れた状況観察から、薩摩が反革命の旗をあげると予言したのだった。

それがものの見事に的中したのが西南戦争であった。

鹿児島から東京を目指して進軍を始めた西郷軍には揺るぎない自信があった。

百姓出身の鎮台兵に負けるわけがない。

我々の姿を見せつけるだけで、震えあがって道を開ける。

急ぐことはない、堂々と進軍するのだ。

しかし予想に反して、政府の対応は早かった。

熊本城で手こずっている間に、政府軍は九州に兵を送り、両軍は田原坂で激突し、西郷軍は敗走を余儀なくされる。

「ほう、鎮台兵は良く訓練されておるわ」と西郷はその強さを褒めたという。

その後は進軍どころではなく、鹿児島に変えるのがやっとの状態であった。

鹿児島には政府軍が海上から上陸し、西郷軍を包囲した。

自軍の兵力への妄信と、杜撰な計画で負けるべくして負けた西郷軍であったが、その道中には敗北についての悲壮で暗い空気はなく、終始前向きであったとされる。

居場所がなくなったからには、潔く退場するだけだ、という潔さを感じる。

悲壮だったのはむしろ政府軍であった。

指揮官は西郷に恩義がある山形有朋。

薩摩出身の者も多数遠征に参加しており、西郷の弟である従道も含まれていた。

最後の末の弟は、西南戦争で戦死している。

やはり鎮台兵に西郷を討たせるわけにはいかない、誰もがそう思い、自決するのを待ったという。

明治10年(1877年)9月24日、最後の突撃の最中、足に銃弾があたり、西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、そこが最後の場所となった。

別府は「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)」と叫んで西郷の首を刎ねた。

享年50歳であった。

この後、西郷軍を支援した鹿児島県令、大山綱良は逮捕され、斬首された。

島津久光は明治20年に亡くなるまで、生涯髷を落とさなかったという。

西郷隆盛、時代のはざま、で。

幕末で人生の輝きを得てしまった人たちは、明治で居場所がなくなってしまった。

その時にどのようにして矜持を保ち、人生の輝きを取り戻すのか、大変難しい問題である。

武士という生き方ではさらに難しい問題であったろう。

私は西郷をはじめとした薩摩武士たちの滅びの過程をひも解くたびに、会ったこともないこの人々なぜか親近感を覚えてしまう。

時代は違うが、風の向き一つで勝ち組、負け組、一寸先は闇の社会で生きてきてしまった。

命を取れることはないにせよ、転げ落ちるのは簡単で、再び蘇ることが難しいのがこの社会である。

歴史を発展させるために、何ができるのか、この問いを発することすら難しい今、私にできることはできるだけ正確に、我々の国の出来事を伝えることしかないのかもしれない。

それが叶うのであれば、このような文章を作っているのも悪くないと思うばかりである。

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