今回は、私の地元水戸の有名人、徳川慶喜の父である、徳川斉昭を紹介します。
偕楽園をつくり、大老井伊直弼との対立等が有名ですが、財政の中にあって藩校「弘道館」の建設し、人材育成を優先させた姿は、現代のビジネスマンにもぜひ学んでいただきたいと思います。
「最後の将軍」徳川慶喜(よしのぶ)の父とは、どんな人物だかご存じだろうか?
意外と知られていない、水戸藩第9代藩主、徳川斉昭(なりあき)の功績や人となり・名言などを紹介したい。
内憂外患の幕末期。
重大な意思決定もできず、崩壊寸前の徳川幕府の中で、堂々と持論を展開したのが水戸の徳川斉昭。
尊王攘夷論は今となっては正しい方策でなかったといえるが、混乱した世の中で、自分の信念を貫いた生き方が賛同できる。
桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された直後に亡くなった斉昭。
果たしてその死の真相は?
斉昭が遺した
「何事にても、我より先なる者あらば、聴くことを恥じず」
という言葉にも彼の姿勢がよく表れていると思う。
水戸藩の改革をいくつも成功させた一方で、
女性好きが仇となったエピソードや、
行動が少々行き過ぎてしまうことも。
真面目なだけではなく、非常に人間くさい人物であるところが、私が斉昭を好きな理由である。
私の地元水戸ではよく知られている徳川斉昭だが、ぜひ全国の皆さんにも知っていただきたい。
斉昭のつくった偕楽園や弘道館も、梅の名所であり、歴史を肌で感じることのできる良い観光スポットである。
徳川斉昭の生い立ち、藩政改革
時は寛政12年。
江戸小石川にある水戸藩邸で、一人の男の子が生まれた。
のちの水戸藩第9代藩主となる徳川斉昭である。
「最後の将軍」徳川慶喜の実父であり、日本三名園のひとつ「偕楽園」をつくった斉昭。
慶喜や偕楽園の存在は知っていても、斉昭のことは知らないという人も多いのではないか。
知名度低めだが面白い、徳川斉昭の人生をたどってみよう。
斉昭の生きた、内憂外患の幕末期
斉昭が生きたのは、寛政12年(1800年)から万延元年(1860 年)までの60年。
日本が外交のあり方で、揺れに揺れた時代である。
1825年に出された異国船打払令が、1842年には改められ薪水給与令に。
1844年にはオランダから開国を求められ、1853年にはペリー浦賀へ来航。
1854年に日米和親条約、1858年には日米修好通商条約が結ばれる。
このように書き並べただけでも、日本が諸外国の圧力に徐々に屈していく様子が手に取るようにわかるのではないだろうか。
この60年間で徳川幕府の将軍は、家斉、家慶、家定、家茂と替わる。
「人を見る目」は持ち合わせていた家斉と家慶。
松平定信や水野忠邦といった有能な人材が、荒廃した世の中を変えようと奔走した。
しかし、幕府の財政難はなかなか立て直せず、タイミングの悪い大飢饉や、質素倹約の押しつけへの不満、派閥争いなどのため、誰も彼も長続きしない。
家定と家茂は病弱で早死。
そんな内憂外患の幕末期、斉昭は歴史にどう関わったのか。
地元水戸でリーダーシップを発揮!斉昭の藩政改革
歴代の水戸藩主の中では、黄門様としておなじみの第2代徳川光圀が有名。
だが、第9代徳川斉昭の水戸での功績は大きい。
斉昭が行った、主な藩政改革は以下の4つだ。
- 領地すべての検地を行う(経界の義)
- 藩士の土着を推進(土着の義)
- 藩校弘道館の建設(学校の義)
- 他藩と同様に参勤交代を行う(総交代の義)
経界の義
経界の義については、水戸藩始まって以来の本格的な全領検地だったといわれる。
つまり、初代から第8代の藩主は検地を行っていなかったのだ。
正確に検地を行った結果、石高が従来の数字より下がってしまうことが判明。
ある意味不名誉なことではあるが、斉昭は堂々と正しい石高を公表したのである。
土着の義
土着の義は、城下町に住まわせていた藩士を、領内の各地に移して土着させること。
戦闘員や兵糧、武器の確保のために行ったといわれる。
学校の義
学校の義の藩校建設は、斉昭が特に力を入れた分野。
大飢饉や藩の財政難にもめげず、重臣たちを転居させてまで、城下の一等地に藩校「弘道館」を建設している。
儒学、歴史、天文、算学、地図、音楽など、幅広く学ぶことができる魅力的な学校だ。
弘道館で学ぶことで身分の低い藩士でも、有能なら藩の重要ポストに就くことができる仕組みが整ったのである。
総交代の義
徳川家康の時代から、水戸藩主は、江戸に定住することが例外的に認められていた。
御三家のうちでも水戸だけがなぜそのような扱いになったのか、経緯は定かではない。
斉昭はこの風習を改め、水戸藩主は水戸に住まいし、他藩と同様に、参勤交代を行うこととした。
主を得た水戸の街が活気づいたことは言うまでもない。
徳川斉昭の幕政との関わりは?
ペリー来航に際し、対応を決めかねた幕府は、知識人を呼び集めて意見を請うた。
この時に斉昭は海防参与となり、強硬な攘夷論を展開。
江戸を守るために、74門もの大砲と弾薬、ひいては洋式軍艦「旭日丸」を幕府に献上している。
安政2年(1855年)には、軍制改革参与に任ぜられたが、その2年後には老中阿部正弘が死去。
堀田正睦、井伊直弼ら開国派が優勢になり、斉昭の意見は通らなくなってくる。
斉昭は軍制改革参与を辞した。
将軍家定の後継ぎ問題、井伊直弼と斉昭の対立
その後、将軍家定の後継ぎ問題が勃発。
息子の慶喜を次の将軍に、と画策する斉昭らは、家茂を押す井伊直弼らと対立して敗れる。
井伊直弼は大老となり、幕府を掌握。
朝廷の許しを得ず、日米修好通商条約を締結した。
斉昭らは激怒して江戸城に乗り込み、直弼を詰問するが、逆に水戸に蟄居させられてしまう。
その後の歴史はご存じのとおり。
井伊直弼は桜田門外で水戸の浪士らに暗殺され、その直後に斉昭は突然死。
心筋梗塞であったといわれる。
彦根藩による報復ではないかとの噂もあるが、真相はいかに・・・。
早世した家茂の次の将軍には慶喜が着任し、徳川幕府に終止符を打つのである。
人々の心を引きつける徳川斉昭の多面性・名言
様々なアイデアで藩の改革を実現させた斉昭。
真面目な性格がしのばれるエピソードがいくつかある。
- 兄の後を継いで藩主になり、先代と同様の食事にグレードアップした際、「今までと同じもので良い」と変えさせた。
- 「石高に応じた暮らしをすべきである」として、毎年幕府からもらっていた1万両の援助金を返上した。
その一方で、このような破天荒なエピソードも。
- 幼少の慶喜の寝相の悪さを直すために、枕の両脇に剃刀を立てておいた。
- 非常な女性好きで、常に傍らに数名の女性を侍らせ、生涯37人もの子どもをもうけた。
(将軍の後継ぎ争いで、井伊直弼らに敗れたのは、慶喜の父斉昭のスケベぶりが大奥の賛同を得られたかったため、ともいわれている。)
- 攘夷を実行するため、寺院の釣り鐘や仏像を没収して大砲の材料とした話。
真面目なだけでなく、少々強引な面や、人間くさい面も持ち合わせている斉昭。
何度も政界から追放されようとするが、彼を支持する者達がその都度懸命に動き、斉昭を復権させる。
斉昭のもつ多面性が、人々を引きつける魅力なのかもしれない。
斉昭の名言
「何事にても、我より先なる者あらば、聴くことを恥じず」
斉昭はこんな言葉を残している。
相手が誰でも自分よりも長けた分野を持った者には、恥じずに何事も教えを受けたのだろう。
聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥とは、聞きなれた言葉だが、私自身を振り返ってどこまでできているかと反省する。
斉昭のような地位のあった人間でさえ、聴くことをいとわなかった。
斉昭のこの言葉は、現代の成功者も実践している。たとえば、近年亡くなった竹田製菓創業者の竹田和平さんもその一人だ。
徳川斉昭の記事を書くにあたり、改めて彼の名言を思い出させてもらった。
徳川斉昭ゆかりの地
水戸藩藩校「弘道館」
斉昭が建設した水戸藩の藩校。斉昭の命で書かれた「尊攘」の掛け軸や、幕府に献上された大砲も見学することができる。
日本三名園のひとつ「偕楽園」
斉昭が「民と偕に(ともに)楽しむ」場所としてつくった庭園。日本三名園のひとつで、梅の名所としても有名。園内の好文亭は、後に復元されたものだが、斉昭と同じ景色を楽しむことができる。
徳川斉昭から現代のビジネスマンが学ぶべきこと
現代になぞらえるならば、斉昭は倒産寸前の会社のカリスマ支店長といったところか。
少々強引な面もあるが、自分の牙城でしっかりリーダーシップを発揮して部下の心を引きつけた。
私たちは、今でこそ「尊皇攘夷」が正しい考えでなかったことを知っている。
だが、その時代を生きる人々には、何が正しいのかはわからない。
現代のビジネス社会においても同じことがいえるだろう。
「時代と逆行したって構わない、自分は信念を貫く」
そんな斉昭の生き様は、現代の競争社会を生きるビジネスマンや経営者にも、前に進む勇気を与えてくれるのではないだろうか。