足利義輝。
面白エピソードの数としては、他の人物に比べると少なめだと思うし、征夷大将軍の中では地味な人物だと思う。
しかし最大瞬間風速という観点ではとても大きな人物だと考える。
病死した父の義晴や、追放された弟の義昭に比べると、とてもインパクトが強く記憶に残る将軍である。
これほど壮絶な最期を遂げた将軍はいないからである。
無数の敵に取り囲まれても逃げることなく、刀で敵を倒し続けた強さに驚きを隠せない。
宝剣を惜しげも無く使い、最後まで抵抗するところである。
250年あまり続いたとはいえ、室町時代は各地に大名が割拠していたので、将軍の力は元々あまり強いものではなかった。
ましてや戦乱の最中に、幕府の権威をもう一度高めようと尽力したところは尊敬に値する。
社会的な状況に悲観することもあっただろうが、必死に抗う姿に感動を覚える。
早々に引退した12代義晴。
三好三人衆に担ぎ出されただけの14代義栄。
逃げ回った上、幕府を滅ぼされた15代義昭らと比べても輝かしい努力をしたことを認めたい。
足利義輝の生涯と人柄。名を(色んな意味で)売る将軍だった
色んな意味で、とテーマをつけた。
どういうことか、記事を読んで解明していただければと思う。
室町幕府13代将軍の足利義輝のことである。室町幕府と言うと、織田信長に滅ぼされた15代将軍の義昭が有名かと思うが、その兄に当たる人物である。
剣で名を売る将軍。
義輝は伝説の剣豪と言われた塚原ト伝から指導を受けた愛弟子の一人。
奥義「一之太刀」を伝授されたほどの腕前だった。
しかし、その奥義については諸説あり、よく分かっていない。
(剣術では一振り目のことを、一之太刀と言い、基本的に二之太刀で仕留めるそうなので、相手がどのような動きをするか細かい体の動きなどから読み取った上で繰り出す、正しく一撃必殺の技だと思われる。諸説あり。)
そんな義輝の剣の技は、1565年、永禄の変にて伝説的な逸話として現在に残っている。
義輝の居城である二条御所を三好三人衆、松永久秀の軍勢が、取り囲んだのだ。
義輝はすぐさま鎧を身につけ、十数本の宝刀を持ち出し、床に突き刺して、文字通り刀が折れるては新しく取り替え、それらの刀で戦った。「大典太光世」「鬼丸国綱」「大包平」「九字兼定」「朝嵐勝光」「綾小路定利」「二つ銘則宗」「三日月宗近」「童子切安綱」などである。
刀では勝てないと悟った敵は槍、弓、果ては鉄砲まで持ち出した。
だが、義輝は60人ほどの敵を倒したため、敵は手に負えないと思ったのだろう。
ちなみに戦いなので皆、鎧兜に身を包んでいる。
そのため有効な斬撃を与えるには、甲冑の隙間を狙わないと意味がない。
いかに義輝の剣術が優れていたかが分かる。
更には1対1ではなく、取り囲み、足を払い、障子を押し倒して身動きを取れなくした上で四方から槍で串刺しにしたという壮烈な最期を遂げた。
わずか30歳という若さで義輝は亡くなった。
(この話は当時の歴史書には残念ながらほとんど記述がない。そのため、後世の創作とも言われるが、実際にそれくらいの剣の腕前であったと考えるところにロマンが生まれると思う。)
代々「将軍」と名のつく中では最強の名はまさしく義輝のものであるといえる。
ちなみに義輝が最期を迎えた二条城は現在のものとは場所が異なる。
永禄の変の後、織田信長が足利義昭のために建て直したものである。
名を「売る」将軍
当時は応仁の乱に始まる戦乱のため、幕府は窮乏していた。
あまりに困っていたので、自分の名を売り、生活費に充てる始末だった。
元々、主君から名前を一字もらうことは大変名誉なことだったが、何ともみじめな話である。
義輝は朝倉義景、六角義賢、上杉輝虎、毛利輝元、最上義光、島津義久らに字を与え、その見返りとして金品などの御礼を受けていた。
そして将軍は使者を送り、友好を深めたり同盟したりし、幕府の権力を高める努力も同時にしていた。(金を得るのと権力を得るのと一石二鳥としたと言える)
ちなみに父の「義」と「晴」をもらった大名は尼子晴久、伊達晴宗、大友義鎮(宗麟)、南部晴久、武田晴信(信玄)らがいる。
特に義は足利家代々伝承する一字だったので、特に見返りが大きかった。
どの名も、少し戦国時代に詳しい方なら一度は名前を聞いたことがあるくらい有名な人が多いかと思う。
義輝、わずか小学生の歳で将軍に!
さて、そんな義輝だが、なんと11歳の時に父の義晴から将軍職を譲られた。
今で言う5年生である。
しかし、日本各地で大名が割拠している戦国時代。
ましてや子どものため、実権は無いに等しかったそうである。
(ここで、親父の義晴がもっと頑張れよと思った方、正解。)
さらに義晴が管領の細川氏と対立していたため、将軍職の譲渡は、逃亡先の近江の国の日吉神社で行われた。
その際、六角定頼の元で元服を同時にした。
元服名は義藤という。(細川藤孝はこの義藤の一字をもらった。)
11歳の将軍、しかも逃亡中。
室町幕府がどれほど落ちぶれていたかがよく分かる。
将軍としての腕の見せ所
だが、そんな中でも義輝は幕府に力を取り戻そうと頑張りを見せる。
義輝が各地の大名に名を与え、幕府の権力を高めようとしていたことは先にも述べた。
同時に守護(その国の軍事を司る幕府の役職。今でいうところの県警の長官のようなもの。)の位を与え、幕府に協力する大名を増やすよう努力をしていた。
その中で実は有名な川中島の戦いの調停も行っていた。
義輝は1558年には、当時の勢力を鑑みて武田信玄を信濃守護に任じ、長尾景虎の撤退も条件に加えた。
1561年には長尾景虎に、前信濃守護の小笠原長時の支援を命じた。
関東管領の就任の許可も直々に与えた。
他にも島津と大友、毛利と尼子などの抗争の調停も行った。
六角、朝倉、本願寺とも同盟を結び、少しずつですが室町幕府は権威を取り戻すことができた。
だが、室町幕府の最大の失点は直轄地がほとんどないところである。
教科書や資料集の地図を見ても足利の名は出てこない。
(ゲームでは山城国は一応足利家のものとなっているが)そのため、権威を高め、他の大名と友好を深めることはできても、実力はなかったのである。
時代遅れな一面も。
1558年、朽木谷というところに亡命していた頃の話である。
永禄元年になったことを知らず、古い年号の弘治を約3ヶ月使用していた。
教えてくれなかったことを朝廷に抗議した話が残っている。
亡命していますので、朝廷としても伝えるのが難しかったのであろう。
まして戦乱の時代では、なおさらである。しかし、将軍が改元を知らないというのは困ったことである。
義輝の名刀の伝説
最後に義輝の名刀についての伝説を調べてまとめる。
上記に刀の名前を紹介したものをいくつか詳しく紹介したい。
「鬼丸国綱」
鎌倉時代、北条時政(源頼朝の舅)が作らせた、天下五剣の一本。
時政は毎晩、夢の中で鬼に苦しめられていたが、ある日、夢枕に刀の化身と名乗る老人が現れる。
その老人は、「穢れた手でさわられてしまい、錆びてしまい鞘から出られない。
手入れをしてくれれば、鬼を退治してみせよう」と言う。
時政は刀の手入れをし、錆びを落として立て掛けた。
すると刀がふと倒れ、その拍子に傍にあった火鉢の脚を切った。
その火鉢の脚には鬼があしらわれており、それから鬼に悩まされることはなくなり、「鬼丸」と名づけた。
「大典太光世」
平安時代に作られた。
退魔の効果があるとされ、この刀を持っていると、怪異に遭わなかったと言われる。病魔を退散させる力もあるそうで、重い病にかかった時にはその刀の貸し借りが行われた。
「三日月宗近」
平安時代に作られた天下五剣の中で最も美しい刀と言われる。
刀身に三日月の刃紋が多数見られることからこの名がついた。
また、幸運の象徴とも考えられていた。