私が特に興味があるのは、人間の「初心と志」について。これは、偉人たちの生き方の随所で見られる点です。
私は海外で12年生きてきましたから、外国の人物の研究が多いです。今回はイタリアの英雄ガリバルディについてお話します。
イタリアの英雄ガリバルディ・イントロダクション
ガリバルディは、若くして海を越え、
イタリア統一のために人生をささげた人物だ。
その人格は、自由を求めるあくなき探求心に満ちている。
ガリバルディの魅力は正に、自由には国など存在しないという点にある。
現代に生きる、特に若い世代としては、3つの点をガリバルディに学びたい。
1.志を持つこと
これは、生活のあらゆる局面でそれにぶつかる気力と忍耐を彼に与える。そして、それは支配されたときに、人の中に生まれやすい感情であること。
ガリバルディに関しては自由を奪われたときに生まれた感情である。
2.多くの文化をまたぐこと
これは、違う視点の人を理解するうえで非常に大切だろうし、自らが選択しなければならない境遇に立った時、正しい判断を人に与えるものだ。
3.友であれ、家族であれ、正義のためには反対の立場に立たねばならぬということ
これは、本当に大切なものをしっかり心の中に持っている人間は、少数の人間の意見であろうと、正しいことを貫く力にもなるし、指標にもなるということだ。
それでは、ガリバルディの生涯と人柄を読み解きながら、さらに学びを深めよう。
ジョゼッぺ・ガリバルディの生涯と人柄
1800年初頭から、終盤にかけてのイタリアの激動の時代を生きた人物であるジョゼッぺ・ガリバルディは1807年7月4日にうまれた軍事家である。
海上貿易に携わった両親に連れられ、年若くして海の上での生活を送り、1832年には商船隊のキャプテンとなる。
翌年1833年4月、ガリバルディはロシアの海港タガンログに10日間ほど停泊し、港の小さな宿でイタリアからの政治亡命犯で青年イタリアのメンバーであるジョヴァンニ・バッティスタ・クーネオと出会う。
青年ガリバルディは青年イタリアに参加し、彼の人生をオーストリアの支配をうける祖国イタリアの自由のため、イタリア統一のために戦うことを誓う。
その年の11月、自由な共和国の建国を目指すジュゼッペ・マッツィーニと出会う。
1834年ガリバルディは祖領国ピエモンテの共和制を求める反乱に参加したが、失敗し、フランスに亡命し、その後チュニジアへ出発する。
そして2年後の1836年、彼は南米ブラジルを目指す。
ブラジルの羊飼いの娘、アニータ(英語版)と出会い恋に落ち、1842年に結婚する。
ブラジル南部のリオ・グランデ・ド・スル州の独立戦争に義勇兵として参加し、そのままウルグアイのコロラド党大統領フルクトゥオソ・リベラに雇われて大戦争に参加する。
大戦争ではアルゼンチンのコリエンテス州をウルグアイに併合し損ねるというような失敗もあったが、そこでゲリラ戦術のスキルを身につける。
彼は用兵術に長けており、カリスマ性もあったことから部下の信頼を勝ち取り、彼もまた自信をつけていく。
1848年にフランスを中心とするヨーロッパでは革命騒動が起こる。
その騒動を聞きつけたガリバルディはイタリアへと帰途に就く。
革命はイタリアにも波及し、マッツィーニの指導によって「ローマ共和国」が成立するが、ナポレオンの甥であるナポレオン3世はこれを倒すために軍を送る。
ガリバルディはマーツィーニとともに抵抗し。ローマ防衛の責任者となる。
フランス軍はローマの強奪者たちを軽んじていたが、ロンバルディア地方やピエモンテ地方、リグリア地方から集まった義勇兵たちとガリバルディはテヴェレ川西岸のバチカンの南で起こったローマ大学の戦いにおいてジャニコロ丘でフランス軍を破る快挙を成し遂げる。
しかし、結局はフランス軍が立て直し、数に任せて攻勢を繰り返し、ローマを包囲下に置く。
1849年7月、ガリバルディは「我々が何処に退こうとも、戦う限りローマは存続する」 と抗戦を主張して、4,000人の兵士を連れてローマを脱出する。
7月3日、ローマに入城したフランス軍は教皇領を復活させてガリバルディ軍に追撃の軍を送り、ガリバルディは北イタリア各地を転戦しながら残る独立共和国ヴェネツィアへと逃走。
スペイン軍、フランス軍、オーストリア軍、ナポリ軍の追撃の前に多くの兵士が倒れ、ラヴェンナの近くで妻のアニータも戦死し、わずかな生き残り兵らと供に1850年、アメリカで体制を立て直すため、渡米し、ニューヨークで船を手に入れたガリバルディは、ジュゼッペ・パーネを名乗り太平洋へ航海に出る。
1854年3月、タイン川を経由してイングランド北東部に入り、大歓迎を受けたガリバルディは記念の言葉が刻まれた剣を喜んで受け取る。
祖領国ピエモンテに戻った彼は、すぐには軍事行動を起こさず、一族の資産を投じてカプレーラ島の半分を購入して農業を営みながら機会を伺う。
1859年、第二次イタリア独立戦争が勃発、ガリバルディは共和的な理想主義を貫くマッツィーニのと決別し、サヴォイア王家が率いるサルデーニャ・ピエモンテ軍に加わる。
陸軍少将として“アルプス猟兵隊”義勇師団を組織、ヴァレーゼ、コモの地でオーストリア軍に勝利する。
ジョゼッペ・ガリバルディから学ぶ3つのこと
1)ガリバルディは祖国イタリアの統一を若き日に決意し、ただその一点のみのために人生を生きてゆく。
これは、若者たちに人生の目標を持てば、どこまででも人は突き進めるということを示している。
ガリバルディの場合は、オーストリア、フランスという強国の支配の下、でこうした意識が培われたのだろう。
筆者は、若き人々が、自分の人生に意義を持つことは、容易ではないと考える。
しかし、人々は誰かに理不尽に支配されることをよしとしない。
そして、そこに自由を求める不屈の闘いが始まると思っている。
若者たちは、自分の境遇を大きい目で見つめてみればいいと思う。
2)ガリバルディは多くの国をまたぐことで自分自身の感性を鋭くし、時流を見抜く視点を手に入れている。
特に、フランス軍がローマ法王領を取り返したときに、ガリバルディは3つの選択に迫られる。
これは、全てを失いかねない選択になりかねない。
そこで、彼は、「我々が何処に退こうとも、戦う限りローマは存続する」というローマ領の損失の際に叫んだ彼の言葉は、人間は引かねばならぬところでは、引くことは大切だと教えており、同時に初心の志が揺らがなければ、局面での進退を見極める力を持っていることをしめしている。
これは、若い人々にも大きい重要な点を見落とせば、目先の利益のみで、選択を誤ることがあることを示し、局面での正しい選択は初期の志と結びつきやすいということ、もしくは、何が一番大切かという点の認識の肝心さを教えている。
これは、若者が大きくなる中で、ビジネス、恋愛、家族等の形成の過程で迫られる選択にも似ている。
3)ガリバルディが共和的な理想主義を貫くマッツィーニのと決別を選択した部分は、時として、友であれ、正さなくてはならぬことがあることを教えている。
これは、本当に正しいことの前では、友情や家族ですら、意見の相違になり得るということがあることを示している。
どれが、正しいかの判断は、ガリバルディの人生で培った、異文化への接触や数多くの革命運動への参加が彼にこうした視点を与えたのだろう。
ガリバルディは、妻アニータの死、彼は一度アメリカに移っている。
これは、体制の立て直さねばならない局面でのいい例をなしている。
若者たちにもこうした時期がいくつか人生において、訪れるが、何も前進のみが生きることではない。
後退し、自らの行動を見極めることも大切なのだ。
それが、アメリカ行きを決意させたガリバルディの進退からうかがえる教示である。
ガリバルディゆかりの地・観光地
ガリバルディにまつわる銅像はローマ、パドヴァ、ジェノヴァ、ナポリ、パルマ、ニース等で見られる。
また、彼の名前の通りもイタリアの主要都市には欠かせない。ミラノ、ジェノヴァ、トリノ、パルマ、ヴェネツィアなどがそれである。
これらの地を廻られるだけで、イタリアの歴史や街道が紐解かれるのは言うまでもない。
そして、ガリバルディが生きたブラジル、アメリカ・ニューヨーク、イングランド・ロンドンなどで暫く滞在されることもお勧めする。
一つの国で住むことは、一人の人間を非常に強くする。
そこには言葉の壁があり、民族の壁、文化の壁、宗教の壁等、様々な壁が存在する。
しかし、自らの志を貫きさえすれば、そうした壁も越えられないことはないのである。
ガリバルディは、生きている間に5度も6度も国を変え、自由を勝ち取るために戦った。国も関係なく、支配から自由を勝ち取るためだけにである。
こうした、粘り強い生き方を是非読者に学んでほしい。