日本の偉人

武田信玄。悲劇の戦国大名その奥が深い戦いから日常まで

おこめさん(女性・30代前半)

武田信玄といえば何をおもいつくだろうか?

多くの読者にとって、やはり上杉謙信との一騎打ちだろう。

戦国時代を代表する2人が直接刃を交えて戦う姿こそ歴史のロマンと言えるのではなかろうか。

当時の書物だけでは真偽が分からないが、私は一騎打ち像が表現するような戦いがあったと信じたい。

だからこそ、今でもその伝説に憧れて、甲信地方では、騎馬戦が信玄と謙信を模して行われるのだろう。

そして、信玄は同時に悲劇の戦国大名と言える。

様々な事情があったにしろ、自らの手で父を追放し、長男を処刑してしまったからだ。

このような悲しい業を背負った戦国大名は他に類を見ない。

それと同時に、信玄は人や部下を大切にしている点にも着目したい。

人は城、人は石垣、人は堀という言葉に表されるように、
全て人の力によって領地が保たれると考えているところだ。

どのような優れた組織であっても人によって成り立っている。
この考え方は組織のトップとして非常に正しいと言えるだろう。

そして、弟の信繁が戦死した際に首と胴をくっつけて手厚く葬ったことである。

信玄にとって親や子に対しては非情なことをしてしまっていても、それは彼らの言動に原因があり、やはり信玄は情をもった戦国大名だと言えるところに魅力があると思う。

武田信玄の経歴

信玄の本名は武田晴信。戦国時代の甲斐国(現在の山梨県)の武将である。

有名な話としては、川中島で越後(現在の新潟県)の上杉謙信と何度も戦った。

甲斐の虎と呼ばれ、近隣大名に恐れられた人物である。

最盛期には、甲信地方はじめ、東海地方の一部にも領土を広げた。

晩年には、三方ヶ原の戦いで徳川家康を破るも、西上途中に病気が悪化し、病没する。

かの有名な長篠の戦いで織田信長に敗北した武田勝頼は、信玄の四男にあたる。

ここで会ったが〇度目! 川中島の戦い 第4回

今なお続く川中島一騎打ち

武田信玄といえば、終生のライバルである上杉謙信との川中島の戦いは外せない。

まずはその川中島の戦いから話を進めたいと思う。

運動会で一度は騎馬戦を見たこと、聞いたことがある方も多いのではないか。

一般的に運動会は赤白の両軍に分けて戦う。

一説には、長野や新潟の一部の地域では、赤組を武田軍に見立て、白組を上杉軍に見立てて戦うそうだ。この地方ならではの興味深い慣習である。

ここからは武田信玄を語るに外せない川中島の戦いについて述べていきたいと思う。

川中島の戦いとは?その概略

川中島の戦いといえば、戦国時代の代表的な戦いとしてとても有名である。

武田と上杉の北信濃での領土争いのことである。

戦いの理由は、信玄の信濃攻略に対して、当時信濃に勢力を持っていた小笠原長時、村上義清らが謙信に助けを求め、それを見過ごせない謙信が信濃に乗り出して来たからである。

川中島とはその名の通り、信濃北部の犀川と千曲川の合流する一帯を指す。

ここは、甲斐、越後、上野、駿河、美濃と各方面へとつながる道路があり、交通の要衝で、どちらも戦略上渡すことができなかった。

特に謙信にとっては、本拠地の春日山にも近く、北アルプスを何度も越えて出陣したのも頷ける。

その川中島で彼らはなんと12年にわたって、5回も戦っているのだ。

片や甲斐の虎「武田信玄」と、もう一方は越後の龍「上杉謙信」と称された二人である。

簡単には決着がつかなかった。

特に有名なのは第4回目の戦いで、残りの3回はにらみ合いで終わった。

今回はその第4回にスポットを当てて紹介したい。

信玄の これでどうだ キツツキ作戦(序盤戦)

1561年8月のこと。

  • 1上杉方が1万8000の大軍で春日山を出発し、川中島南方の妻女山に陣を敷く。
  • 2それに対して武田方は1万7000の大軍で甲府を出発し、海津城へ入城する。
  • 3信玄は軍を二つに分け、一方を妻女山に、もう一方を川中島へ移動させる。(キツツキ作戦)

キツツキ作戦とは、山本勘助によって提案された作戦といわれる(諸説あり)。

キツツキがエサを捕る時に、木の穴の反対側をコツコツと叩き、虫がおどろいて出てきたところを捕まえるという習性を応用したものである。

謙信は「見破ったり!キツツキ作戦」(前半戦)

  • 4謙信はたくさんのかがり火をたいて妻女山にいるように見せかける。
  • 5謙信は妻女山を下り、川中島へ突撃する。
  • 6信玄は川中島で待ち受けていたが、その日発生していた濃霧により周りの様子がよく分からない。

どうやって謙信は見破ったのだろうか?

海津城から上がる飯を炊くときの煙がいつもより多いことである。

武田が作戦行動をとるため、多目に食料を準備していることを意味していたのだ。

それを逆手にとって先制攻撃をとることにした。

4でかがり火をたいたのは、妻女山にいるように見せかけるためである。

武田の半数が山を登るということは、川中島に残るのは残り武田の残り半分である。

謙信は一気に勝負をつけようとしたのだ。

勝負を 一気に決めるぞ 一騎打ち(中盤戦)

  • 7上杉軍は濃霧を上手く使い、武田に不意打ちをしかける。
  • 8あわてた武田は何とか応戦する。
  • 9上杉軍は謙信を中心に車懸かりの陣を使い、次々と新手を繰り出して武田軍を崩す。
  • 10乱戦の中、信玄を見つけた謙信は一騎打ちを挑む。

「三太刀七太刀」という言葉がある。

これは、信玄の持っていた鉄の軍配についた傷のことを指す。

謙信は刀で三度切りつけ、それを信玄は軍配で受け止めた。

しかし、あまりに謙信の剣技が優れていたため、なんと7箇所に深い切り傷がついていたことに由来する。

まもなく、信玄の旗本が加勢にかけつけ、謙信を槍でつこうとする。

しかし攻撃は馬の尻をついてしまい、驚いた馬はそのまま謙信を乗せて走り去った。

これが名高い一騎打ちの内容です。

だが、これに関しては両軍の主張が異なる。

「上杉年譜」では、切りつけたのは謙信の影武者の「荒川伊豆守」という人物だったとし、「北越軍記」では、相手は信玄ではなく、影武者が謙信と戦ったと記録している。

つまり、影武者同士の戦いだったということです。

だが、それにはロマンがない。そのような戦いが当人同士であったと信じたいものである。

信玄も「やられてばかりでいられない」(後半戦)

  • 11当初は上杉軍優勢で戦いが進む。
  • 12妻女山に登っていた武田軍の別働隊が謙信が山を下りたことに気づき、川中島に突入する。
  • 13上杉軍は、武田武士の首を手柄として腰からぶらさげていたため、動きが鈍く、負け始める。
  • 14挟み撃ちにされた上杉軍は、そのまま犀川を越えて撤退した。

信玄はこの戦いで何と弟の信繁や重臣の諸角虎定を失った。

謙信の方は後半戦に多くの兵を失った。

そのため、一般的には両軍引き分けと言われている。

弟を失ったあまりの悲しみのため、信玄は信繁の首と胴体をつなぎ合わせたと言われる。

何としてっも生き返ってほしくてした行動言えるだろう。

戦いが終わっても、仲よくなれない2人

信玄は謙信のことを上杉と呼ばなかったそうだ。

信玄の家式は甲斐守護で、謙信は越後守護代(当時の名は長尾)なので、身分としては信玄の方が上だった。

しかし、謙信が関東管領に叙任され、上杉姓を名乗ると、家式が逆転してしまい、信玄はそれを面白くないと感じたのだろう。長尾と呼び続けたそうだ。

父、長男との確執

天下に甲斐の虎と恐れられ、亡くなった信繁には首と胴体をつなぐほど悲しんだ信玄だが、実は父と長男とは関係が悪く、父の信虎を追放し、長男の義信を切腹させているのだ。

信玄は深い業を背負ってしまったのだ。まず、父信虎については、

  1. 信玄が初陣で勝ったことを疑う。
  2. 弟の信繁を可愛がる。
  3. 妊婦の腹を割き、胎児の男女を見分ける。
  4. 働いている農民を鉄砲で撃つ。
  5. 諫言してきた家臣を処刑する。
  6. 白い猿を飼っており、家臣が来ると猿をけしかけて楽しんだ。
  7. 信玄を追放しようとする。
  8. 悪政のくり返し

というようなことを信虎はしていたと言われる。

いくつかは創作のものもあるようだが、家臣達の心は離れていたようです。

そのため、信玄の信虎追放に家臣達が協力し、政権交代が行われた。

次に義信とのことについて述べる。

  1. 妻が今川義元の娘で、徳川との内通を疑われた。
  2. 信玄に謀反を企てた。
  3. 川中島4回戦で命令違反を犯した。
  4. 今川を攻めようとする信玄に対して反対し、意見が食い違った。

信虎の場合と比べると随分違う。

義信はどうしようもない人物ではなかったようだ。

しかし、同盟を結んでいた今川家が義元の死後没落したことが分水嶺となり、親子の関係が崩れていった。

結局分かり合えなかった親子の悲劇が見られる。

信玄の本名は晴信。信玄とは、出家した法名。

本名の晴信の「晴」は、元服の際に室町幕府12台将軍、足利義晴から名前をもらったものである。

この時に従五位下大膳大夫の位を同時に得ている。

出家したのは、一般に1559年と言われ、長禅寺に出家し、「徳栄軒信玄」と号した。

出家の背景には、当時、戦や飢饉のため、甲斐国は疲弊していた。

隣国の北条では、氏康が氏政に家督を譲ることで、徳政を行っていた。

信玄は家督を譲るのではなく、出家することで、代替わりしようと考え、徳政を公布したと言われる。

甲斐国には城を築かなかった

信玄は、戦によって、国が疲弊することをよく知っていたので、甲斐国には城を築かなかったと言われている。

戦いは領国の外でするものであると考えていた。

有名な言葉として「人は城、人は石垣、人は堀」という言葉が現在も残っており、守りは城に頼るのではなく、人を大切にすることで、人が領国を守ってくれるのだという信玄の人への信頼が伺える。

信玄堤

戦いだけでなく、領国経営にも信玄は力を入れていた。

その一つが信玄堤と呼ばれているものだ。

これは、釜無川、笛吹川の氾濫を防ぐためで、御勅使川と釜無川の合流地点に信玄堤という堤防を作り、河川の流れを変えて、開墾地とした。

こんなところにも秘密が!信玄の○○○

あまりきれいな話ではないが、実は○○○とはみなさんも毎日使うアレのこと。

トイレである。

信玄の使っていたトイレは他の武将達と随分違っていたそうだ。

  1. 六畳もあり、刺客に襲われた時に刀をふるって戦う、逃げるなどを考えていた。
  2. 畳敷きで、香炉を置き、匂いにも気を配った。
  3. 風呂場の残り水を利用して、流す、水洗式だった。
  4. トイレの入り口に書類を置き、用を足しながら作戦を練った。

どうだろうか?

今の私たちの生活に使用しているトイレとほぼ同じである。

なんと500年も昔に信玄はすでに取り入れていたのだ。

武田信玄の見所は、JR甲府駅にある巨大な信玄の像と、川中島の一騎打ち像(八万原史跡公園)であろう。

どちらも信玄の勇壮な姿を表現しており、力強い様はまさに甲斐の虎と呼ぶにふさわしい。

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