今回はウォルト・ディズニーに学ぶ夢を叶える方法をご紹介します!
ウォルト・ディズニーとは
「世界で最も有名な経営者は?」と問われれば、ウォルト・ディズニーの名を挙げる方も少なくないだろう。
仮に彼の偉業を知らない方がいたとしても、偉業の内容はおそらく名前を聞くだけで想像がつくはずだ。
そう、世界最大の遊園地・ディズニーランドの生みの親である。
ウォルト・ディズニーが生まれたのは1901年のアメリカだった。
ディズニーランドのイメージから、彼はさぞファンシーで夢にあふれた人生を送ったのだろうと勘違いされるかもしれないが、実際はそうではない。
1900年代初頭のアメリカは決して治安や情勢が良かったわけでもなく、彼自身も裕福な家庭に生まれたわけではなかったため、平均よりもむしろ貧しい少年時代を過ごしていたらしい。
しかし少年時代からアートの才能があり、ウォルト・ディズニーはわずか20歳にしてデザイン会社を立ち上げるまでになる。
ただし最初に立ち上げた会社「ウォルト・アイワークス・カンパニー」は大した実績も残さず潰れてしまい、彼の波乱万丈な人生の幕開けとなったに過ぎなかった。
その後も数多くの失敗を繰り返し、トラブルに見舞われ、裏切りや批判の的にもなりながら生きたウォルト・ディズニー。
こうして書き出してみれば、彼の人生は夢とも理想とも縁遠い血なまぐさいものであったことが伺える。
ご存知のとおり、ウォルト・ディズニーは「夢の国」を作り上げた世界最高クラスの経営者だ。
世界中に知らない人などほとんどいないであろうディズニーランド、そしてメインキャラクターであるミッキーマウスは、彼の努力の結晶である。
果たして、どのような経緯でウォルト・ディズニーはディズニーランドやミッキーマウスを生み出すことができたのだろうか。
その答えを知るために彼の人生を紐解くと、我々も見習うべきウォルト・ディズニーの「夢を叶える方法」が見えてくるのだ。
ウォルト・ディズニーは決して恵まれた環境にいたわけではない
先ほども少し触れたが、ウォルト・ディズニーは決して恵まれた環境で育った訳ではない。
父親のイライアスはお世辞にも優れた人間とは言い難い人物で、どんな仕事をやっても長続きせず、子供たちへの愛情もかけているといった呆れた人物だった。
そのためウォルト・ディズニーの少年時代は平均より貧しく、また父親との関係も決して良くはなかった。
7歳のころ自分で描いたスケッチを近所の人に売っていたというエピソードも、アートの才能というよりは貧しさを象徴するものだったのかもしれない。
さらに、ウォルト・ディズニーは暗い青春時代を送っている。
というのも彼が青春期を迎えた当時のアメリカは非常に情勢不安定で、1914年〜1918年に至っては第一次世界大戦が勃発している。
自ら望んだことではあるが、ウォルト・ディズニー自身も軍に志願し、主に衛生兵としての活動を行った。
粗暴な父親・貧しい家庭・戦争の時代…
こうした条件をまとめてみただけでも、ウォルト・ディズニーが恵まれた環境で育ったわけではないということが一目瞭然である。
もしも同じ条件で他の人間を育てたとして、彼のように大成する人間はどのくらいいるだろうか…と考えてみても、その数が多くないことは想像に難くない。
ウォルト・ディズニーと条件で育てられたなら、普通の人間はむしろやさぐれて悲惨な一生を送ってしまうのではないだろうか。
このように厳しい少年時代・青年時代を送っておきながら、ウォルト・ディズニーはやさぐれるどころか「世界一有名な遊園地」をつくるまでに成長するのだから人間というのはわからない。
ここからわかるのは、ウォルト・ディズニーは環境に左右されるような人間ではなかったということだ。
彼は自分のなかに一本の芯を持っていて、周りがどうであろうと考え方や行動を変化させるような弱い人間ではなかった。
よく言えば一途、悪く言えば頑固だったのかもしれない。
ウォルト・ディズニーは「諦めない男」
ウォルト・ディズニーが大成する大きな要因となったひとつが、彼の「諦めの悪さ」にあったのではないかと思う。
彼は大人になってからも数々の苦難に見舞われるが、どのような苦境に置かれようとも決して夢を放棄するようなことはしなかった。
口で言うのは簡単だが、「絶対に諦めない」というのは生半可な覚悟でできることではない。
時代が変わっても、職種が違っても、この考え方は必ず役に立つはずだと、私は教訓のように心に留めている。
ウォルト・ディズニーが友人と共に初めて興した会社は、大した実績もなく潰れている。
多くの人は、自分が経営している会社が潰れたら「やっぱり堅実に働くのが一番だ…」と考えるのではないだろうか。
しかしウォルト・ディズニーは会社が1個潰れたくらいでは諦めなかったし、それどころか数年のうちにもうひとつ会社を起こして、潰している。
もちろん、何の反省もせずに設立だけを繰り返したわけではない。
会社が潰れたり、何らかのトラブルに巻き込まれる度に反省点を見出し、より優れた会社を設立し続けたのだ。
こうしてウォルト・ディズニーは、3社目にして現在のディズニー社の原型である「ディズニー・ブラザーズ社」の設立に成功した。
なんとかディズニー社が設立した後にもトラブルが絶えなかった。
最も有名なのは、ウォルト・ディズニーがデザインしアメリカで大好評を博した「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」を他社に掠め取られてしまった事件だ。
世俗的な言い方をすれば「金の成る木」だったオズワルドを失ったディズニー社は、他社にスタッフの大量引き抜きまでされてしまい、倒産寸前にまで追い込まれてしまった。
しかし先述の通り、ウォルト・ディズニーというのは非常に諦めの悪い男である。
オズワルドを失った後も決して諦めることなく、オズワルドを越えるキャラクターを生み出そうと努力し続けたのだ。
そう、この経緯で生まれたのが、世界一愛されているネズミのキャラクター・ミッキーマウスであった。
ミッキーマウスはたちまち大人気となり、オズワルドの人気を奪い返した。
こうしてウォルト・ディズニーの地位とディズニー社の名声は不動のものとなっていったのだ。
ウォルト・ディズニーから学ぶべきこと、小さなことからコツコツと継続する
ウォルト・ディズニーの人生から学べることの一番は意外にも、「継続は力なり」かもしれない。
恵まれていない環境から身を立てていったウォルト・ディズニーの一生に、成功の法則を見ることができる。
ウォルト・ディズニーの原点とも言えるのが、7歳のころに行っていた自作スケッチの販売だろう。
小さな子が手書きのスケッチを売っていた…というところから、世界一の遊園地を設立するところまで成長したのだから規模の大きさに驚かされる。
しかし言うまでもなく、ウォルト・ディズニーはスケッチ販売からいきなり遊園地設立プロジェクトに移行したわけではないのだ。
ウォルト・ディズニーの経歴を見てみると、最初は誰にでもできるような小さな実績を積み重ね、それをいつまでも継続することで少しづつ大きくしていったことが見て取れる。
戦争から帰還したウォルト・ディズニーは、まず新聞で漫画を書く仕事を始めた。
そこからアートスタジオでの広告デザインの仕事に移り、その会社で出会ったアブ・アイワークスと共に最初の会社を設立した。
会社を経営しつつ他社でアニメーターとして活動し、経験を積んでから個人事務所を設立、そこでようやくオリジナルのアニメ作品を作成し、世間的な地位を上げた。
このようにウォルト・ディズニーはいきなり遊園地を作ろうとしたわけでも映画を撮ろうとしたわけでもなく、本当に地道にステップアップして成長してきたのだ。
「夢を叶えたい!」と考えたとき、人は大げさな努力をしがちだ。
しかし本当に成功している人物というものは、小さな努力をコツコツと積み重ねて地盤を固めていく。
いきなり中身の無い会社を作っても仕方がなく、ウォルト・ディズニーの人生からは「できることからやっていく」ということがどれほど大切なことかを学ぶこともできる。
私が好きなウォルト・ディズニーの名言にこのようなものがある。
「夢を求め続ける勇気さえあれば全ての夢は必ず実現できる。いつだって忘れないでほしい。すべて一匹のねずみから始まったということを。」
まさに、何事も諦めずに夢を目指し続けたウォルト・ディズニーの人生そのものを表す言葉ではないか。
世界一有名な遊園地の原点は、スケッチブックに描かれた小さなネズミのイラストだったのだから。
ウォルト・ディズニーに倣って夢を叶える
「諦めないこと」「小さなことから始めること」、この2つは時代が変わっても必ず役立つ人生の特効薬だろう。
どんな夢を持っている人でも、この2つを蔑ろにしていては成功するのは難しいのではないだろうか。
何かを成し遂げようとすれば、人は必ずトラブルや失敗に巻き込まれる。
どれだけ優れた才能を持っている人間でも、人生において全く何のトラブルも起こらないなんてことはまず有り得ない。
だから大切なのはトラブルを回避しようとすることではなく、トラブルに巻き込まれたときに何をするかなのだろう。
夢に向かって努力を続けたとき、壁にぶち当たって諦めるのが「凡人」というものなのかもしれない。
ウォルト・ディズニーのような「天才」は、結局のところ何があっても諦めなかったというだけのことなのだろう。
詰まるところ、凡人と天才の違いは「壁を乗り越えられるかどうか」という点にある気がしてならない。
諦めないことが必ず成功に繋がるとは限らない。
しかし諦めることが夢の終焉に繋がることは間違いない。
ウォルト・ディズニーを見習えば自分も夢を叶えるためのヒントをつかむことができるだろうと、私はそう信じている。