足利義輝の仇である松永久秀(まつなが ひさひで)。
好きな人物かと言われれば疑問符がつくが、久秀という人物は調べれば調べるほど面白い武将である。
歴史に残るような、大仏焼失と将軍暗殺という大悪事を重ねたかと思えば、後世に残る築城様式を残している。
そして何度も信長に降伏、裏切りを重ねている人物というのは珍しい。
しかもその度に宝物を送っているという金持ちぶりを見せる。
そして宝物に爆薬を詰め、天守閣で爆死という壮絶な最期を迎える。
雑学となると、クリスマス休戦に黄素妙論と、現代の生活でも活用できるような先見性のある面白話が見つかる。そんな久秀はすごいなあと上に見ることもできるし、酷いことをした悪人として下に見ることもできる。
ここから題名を考えた。
世間一般では戦国三大梟雄とも三大悪人とも認識されているようだ。
個人的には悪人というちっぽけな二つ名よりも、梟雄の方が久秀には合うのではないだろうかと考える。
木の上の梟が獲物を狙うように、世間の様子を見通し(時には見越して)行動する、とても実行力のある武将と評価したい。
歴史人物を一面からだけ見たり、聞いたりすることで評価するのではなく、多面的に知って評価する大切さを教えてくれる人物だと思う。
松永久秀という武将
実はとても記憶に残る濃い、アブノーマルな人物なので、ぜひ知ってもらいたいと思う。
久秀は、宇喜多直家や斎藤道三などとともに戦国三大梟雄とか、悪人などと呼ばれている。
実際にどのようにして、このように呼ばれているのか、以下に紹介したい。
え?本当にしたの?それはあかんやろ?
みなさんも修学旅行や家族旅行などで奈良に行かれた時に、東大寺の大仏を拝謁されたことがあると思う。
大仏の鼻の穴の大きさの穴が柱に開いており、その中をくぐることができると寿命が延びると言われている、あの大仏である。
実は、その大仏を焼いた罰当たり、いや、天罰が当たるほどのことをした戦国武将がいることをご存知だろうか。
その人物こそが信長に「天下の悪人」と呼ばれた今回紹介する松永久秀である。
どうしてこうなったのか。
簡単に説明すると、13代将軍、足利義輝の暗殺後、畿内の掌握をめぐって久秀は三好三人衆と対立してしまう。
1567年4月〜10月に、久秀と三好三人衆が奈良で市街地戦いを繰り広げる。その際に多くの寺社仏閣が焼け落ちてしまったのだ。
その中で特に有名になってしまったのが、東大寺大仏殿の焼き討ちである。(10月10日と記録が残る)
夜11時ごろに、久秀方が三人衆の陣があった東大寺大仏殿に奇襲をかけ、その時に久秀の命(でと諸説では言われているが)火が放たれたと記録が残る。
(しかしルイス・フロイスの「日本史」によると三好三人衆の失火と記録が残る。)果たしてどちらが真実なのだろうか。
もう一つ紹介する。
話が前後するが、久秀は大仏を焼くだけではなく、先ほど少し話しに出てきた室町幕府13代将軍の足利義輝を二条御所にて襲撃し、暗殺もしている、とんでもない悪人である。
1565年、永禄の変と呼ばれる政変を、三好三人衆とともに引き起こした。
当時、室町幕府は応仁の乱のためにほとんど力を失っていたものの、義輝は各地の大名との外交を行い、少しずつだが、幕府の力を高めようと努力していた。
幕府の実権を握る上で、そんな義輝は久秀にとって邪魔だったのだろう。
その証拠に、14代将軍には、傀儡として義輝の従兄弟である義栄を就任させている。
そんな松永久秀の生涯
遅くなったが、(とても)簡単に久秀について紹介する。
1510年生まれだが、場所が阿波、摂津、近江と諸説ありはっきりしない。
(一説には斉藤道三と同郷とも言われる?)そのため前半生もよく知られていない。
この辺りから怪しい人物である。
歴史上に名が出て来るのが40歳を過ぎたころから、室町幕府の当時の権力者だった三好長慶(将軍の力がいかに弱かったかが分かる)の家臣として実力を発揮しはじめる。
長慶の死後、久秀は室町幕府の権力を巡って、上記のように三好三人衆と争った。
これあげるから 許して下さいよ 信長様。
実は松永久秀という男は織田信長に何度も降伏して、そのたびに許されたという人物である。
(義弟の浅井長政ですら降伏しなかった。)
1回目の降伏は、織田信長の上洛に伴い、信長に味方した時。
この時には「九十九茄子」という茶器を送って信長に味方することを決める。
信長は三好三人衆を駆逐し、15代将軍、足利義昭を擁立する。
しかし、信長に反抗する浅井、朝倉、本願寺、武田などが同盟を組むと、久秀も信長に反旗を翻す。
2度目の降伏は、浅井、朝倉が滅ぼされた後のこと。
この時は名刀「不動国行」を送り降伏しする。
なんと3度目がある。武田信玄が西上するにあたって、武田方に味方し、信長に反旗を翻す。
しかし、信玄の死により、武田の西上が不可能となると、信長に3度目の降伏を申し出る。
しかし、許されず、多聞山城で自刃した。
(この際に信長は茶器を要求するが、久秀が断ったとも言われれる。)
降伏する度に、珍しい宝物を渡す久秀。
一体何度信長に降伏するつもりだったのだろうか。
武田の次は毛利にでも味方するつもりだったのだろうか。
しかし、信長が許すほどの宝物をいくつも所持していた久秀という男はちょっと底知れない金持ちと言える。
そんな久秀の最期 「平蜘蛛」とともに
「ひらぐも」と読むが、さあ、何のことだろうか。
クモではなく、これは茶釜のこと。
平らな蜘蛛のような形をしたもので、織田信長は久秀が降伏する際にそれを渡すように要求した。
しかし、これは久秀にとっても大切な宝物でもあり、彼にもプライドがあったのだろう。
久秀はなんとその中に大量の爆薬を詰め、それを抱きかかえたまま、10月10日、天守にて爆死したと伝わる。
ところで10月10日と聞いてどこかで思い出すことはないだろうか?
壊すだけでなく、作る才能もあった 「建築の名手」
久秀は近世城郭建築の先駆者といわれるくらい、城に様々な創意工夫をこらした。
1560年、大和の国に多聞山城を築いた話である。
多聞とは、七福神の部将のように鎧兜に身を固めた武人の神様のことで、一般的には毘沙門天と呼ばれている。
多聞山城の特徴を以下に紹介したい。
この城は奈良の街中を見下ろせる上、京都、大坂に近く交通の要衝としての機能も果たしていた。
櫓を建てて重ね、その間を長屋でつないだ。そうすることにより、櫓の間が長城のような壁でつながれることになった。
そして壁には狭間(さま)と言われる穴をあけ、鉄砲や弓矢でそこから城外の敵に対して攻撃できるようにした。
石落しを門の上につけ、門を破壊しようとする敵に岩を落して攻撃できるようにした。
櫓には篭城に備えて籾、干し飯、焼き塩、干し魚などの乾物をなんと3年間分も蓄えていた。
土間には薪を積み、地中には炭や武器も埋めており、長期戦に備えていた。
城郭の内部に豪華の障壁画を描いたのも初めは久秀と言われている。
天にも届くかのような天守を始めて築いたといわれるが、これは定かではない。
これだけの優れたポイントがある城なのだが、残念ながらこの城はわずか16年で、久秀の横死によりながら壊されてしまうことになる。
しかし残った建物や内装は二条城に移され、石垣などはそのまま筒井氏の大和郡山城に使われることとなり、それだけ優秀な城だったといえる。
大仏を焼いてしまった久秀だが、久秀の評価が少し上がっただろうか。
「やめようよ こんな日に あらそいは」
みなさんが争いごとをしたくない日といえば、お正月?お盆が思い浮かぶだろう。
なんとクリスマスである。
クリスマスを理由に停戦したという話が残っている。
1566年、当時争っていた三好氏の配下には、高山氏、池田氏などという有名なキリシタンの部将がいた。
久秀の陣営は、この時劣勢だったようで、キリシタンの宣教師が両軍の部将にクリスマスのミサに参加できるようにし、その日は一時的に敵味方関係なく、教会でお祈りをした。
久秀はキリシタンではないが、外国の文化にも比較的寛容で精通していた。
信長の味方なの?それとも敵?朽木谷(くつきだに)越え
1570年久秀は、織田信長の越前朝倉攻めに従軍する。
しかし、越前に攻め入った際に信長の同盟国であり、義弟だった浅井長政が突如裏切り、織田の退路を断つ。驚いた信長は久秀を従えて、急いで越前から京に向かって撤退する。朽木谷を越える際、浅井の部将である朽木元綱が信長の行く手を遮る。
久秀は、信長は15代将軍足利義昭を奉じて、朝廷の命を受けた官軍であることをネタに元綱を説得し、信長の窮地を助けた。
説得された元綱は朽木谷を越える際に信長の案内をしたと言われている。
なお、元綱は30年後の関が原の戦いに西軍として参加したが、東軍にこの時も寝返ったと記録が残る。
もしかしたら久秀は元綱の優柔不断な性格を見抜いた上で説得下のかも知れない。
まだあるその1大人のための「黄素妙論」
「こうそみょうろん」と読む。
これは何かと言いうと、本の名前である。
どんな内容かというと、なんとアダルトな行為の指南書である。
当時の名医と言われ、日本医学中興の祖と言われる医師、曲直瀬道三が書いた、男女交合の指南書を久秀は道三からもらいうけ、愛読していたと言われる。
どのような内容かというと、男女が交わる心のタイミング、行為の仕方や体位、男性の年齢に応じた射精の回数、交合してはならない日などが記してあり、現在でも通じるところも多い。
久秀は、戦時にも女性を帯同させ、合戦中も行為に耽っていたとも言われている。だが、しっかりと勉強した上で行為に及んでいた。
まだあるその2「松虫」と健康
松虫を飼っていたと伝わる。
大切に育てたところ、なんと3年も長生きした。
虫も育て方次第でこんなに長生きすると知り、人間も日々の養生が大切だと考えた久秀は、人生50年と言われた時代に自害するまで、67歳まで生きた。