安倍晴明イントロダクション!
平安時代に活躍した陰陽師の名は、安倍晴明。母が白狐だという晴明には、数々の伝説がある。
平安時代に活躍した陰陽師の名は、安倍晴明。母が白狐だという晴明には、数々の伝説がある。
実は陰陽師として晴明は遅咲きで、40歳の頃、彼はまだ天文学博士の見習いだった。
出世は遅れたが晴明は村上天皇に、占いを命じられるほどの技量で、その優れた才能は貴族に認識されていた。
50代で天文博士となり、陰陽頭に就任できなかったが、それに匹敵する能力は十分あった。賀茂保憲の逝去後、晴明は表舞台で、めきめき頭角を現し出す。
冷泉天皇の第一皇子、師貞親王の命令で彼は、那智山の天狗を封ずる儀式を行った。深刻な干ばつが起こり、勅命を受けた晴明は、五龍祭(雨乞いの祭り)を執行。見事に大雨を降らせ、飢饉から平安の人々を救ったのだ。
陰陽師になった時点で年だったが、そこから昇進していった彼は負けず嫌いである。晴明の魅力は才能だけでなく、苦労と努力をしていた所だ。
- 謎大き晴明の出生地
- 陰陽道は何か、陰陽師の仕事とは?
- 晴明の努力と輝かしい遺業
以上のことを中心に安倍晴明に迫りたい。
安倍晴明の生涯と人柄
1)安倍晴明の生誕、その時代背景
国風文化が栄えた頃の日本は遥か昔。延暦13年、桓武天皇が都を京都に移し、平安時代が幕を開けた。貴族達は華やかに暮らし、逆に庶民は質素な暮らしを送っていた。
晴明は延喜21年に生を受けた。彼の出生地には諸説があり、大阪説、讃岐説、茨城説の3つ。最も大阪説の摂津国阿倍野が有力だ。
名前の読み方は「せいめい」と確定しておらず、「はるあき」や「はるあきら」ともいう。それはさておき、様々な媒体の中で安倍晴明は、強くも摩訶不思議な陰陽師として描かれてきた。実際呪術を用いて妖怪を退治したかは、定かではないが、謎が大い男なのは確かだ。
晴明には数々の伝説があり、「葛の葉伝説」は広く知られる。
ある日、安部保名は信太の森の神社でお参りをしていた。狩人に追われる白狐を助けたが、獲物を奪い返そうとした狩人により怪我を負う。
その後、保名の元に美しい娘が現れ、彼女は葛の葉といった。葛の葉の介抱により、保名は元気を取り戻す。
葛の葉こそ保名に助けられた白狐。白狐は恩に報いる為、姿を女に変えていたのだ。
そして、心が通じ合う仲となった二人は、結婚をして夫婦になる。やがて子が誕生し、童子と命名された。童子とは晴明の幼名である。
晴明は人と狐の血を引く、稀有な存在だった。のちに母の正体が白狐だと童子が気づき、共に暮らせなくなった葛の葉と別れがくる。これが「葛の葉伝説」であった。
史実だと晴明の系図は不確かで、安倍益材の子、もしくは安倍春材の子、阿倍仲麻呂の子孫とされる。
晴明の少年期から青年期の記録は無に等しい。賀茂忠行が彼の師匠にだったとされている。賀茂忠行は鬼を見る事ができた、晴明の才能に惚れ込み、陰陽道を教えた。
そもそも陰陽道とは何か。陰陽道は中国の陰陽五行説が基礎だ。
「陰陽説」と「五行説」を組み合わせたものを陰陽五行説と呼ぶ。
陰陽説
まず「陰陽説」の説明をしよう。
陰には月や女、陽には太陽や男など、対極する2つの性質がある。
事象は陰と陽で成り立ち、一つでは成り立たない。
五行説
「五行説」では木、火、土、金、水の5つに気が類別される。その要素の働きにより、万物が変化していくと考えられた。
因みに「陰陽説」は性質を表し、「五行説」が状態を表している。陰陽五行説は陰陽道という日本独自の要素を含めて発展した。
陰陽師は陰陽道を駆使して、天候や物事の吉凶を占う。病気平癒を祈り、災いを退ける役目を担った。当時の陰陽師は国家公務員の待遇。彼等は国の行事に関わっていた。
日本の律令制によれば、陰陽寮は中務省に属する役所。晴明自身も所属した。
陰陽頭という長官の下には、陰陽道を教える「陰陽博士」や天体や気象を観測した「天文博士」に、暦の作成を行う「暦博士」達が在籍していた。平安時代に陰陽師は欠かせない存在だった。
2)安倍晴明は遅咲きの陰陽師だった。その人生後半は
天暦2年、晴明は大舎人になった。実は陰陽師として晴明は遅咲きである。平安時代の平均寿命は三十代前後。40歳の頃、彼はまだ天文学博士の見習いだった。
出世は遅れたが晴明は村上天皇に、占いを命じられるほどの技量。その優れた才能は貴族に認識されていた。50代で天文博士となり、陰陽頭に就任できなかったが、それに匹敵する能力は十分あった。
賀茂保憲の逝去後、晴明は表舞台での存在感が増す。冷泉天皇の第一皇子、師貞親王の命令で彼は、那智山の天狗を封ずる儀式を行う。師貞親王とは後の花山天皇の事であり、彼から信頼を得た。
60代の頃、朝廷や貴族の元で大活躍し、名高い評判を自分のものにする。それ以降の昇進は目まぐるしかった。
正暦4年2月、一条天皇が急病した際には、なんと禊で病を治してしまう。
寛弘元年7月、深刻な干ばつが起こり、勅命を受けた晴明は、五龍祭を執行した。見事に大雨を降らせ、飢饉から平安の人々を救ったのだ。
寛弘2年9月26日、安倍晴明が死没した。享年85歳、死因は分かっていない。晴明のお陰で安倍氏は陰陽道の権威を確立させ、栄えていった。
安倍晴明から学ぶ3つのこと
晴明は天才だが努力家
晴明に才能があったのは事実だ。晴明は人の過去や前世を見抜き、嘘か真か他人の感情まで操作できた模様。彼の優秀なイメージは一部にすぎない。
晴明が頭角を現し始めたのは、年を取ってから。若い時も才能があったが彼は、陰陽道の腕を磨き続けた。
天才でも努力を怠らず、真面目に陰陽師として役目を果たした。
楽をして名声も名誉も得られない。晴明は陰陽道の腕を磨き、実力で成り上がった。彼の苦労はきっと報われたはずだ。
現代人にはすぐ諦めてしまう傾向がある。弱音を吐かず、晴明のように向上すべきで、努力はした分だけ為になる。苦にも負けない精神が必要不可欠なのだ。
晴明の諦めない心
晴明は私に努力だけでなく、忍耐、諦めない心の重要性を教えてくれた。
晴明は遅咲きだったが、陰陽師の職に就く事ができた。それは日々努め励み、忍耐を鍛え、何よりも諦めなかったからだ。
もし断念していたら、晴明は陰陽師になれていなかっただろう。彼は努力が実を結ぶと証明した。
私は陰陽師がきっかけで、安倍晴明を知る事ができた。彼に憧れを抱く者も多い。私もその一人に含まれている。
私は晴明の諦めない心に影響を受けた。私の経験だが受験の時、望みを捨てず、勉強をして志望校に合格できた。その経験を経て、努力を欠かしてはいけないと、より一層思うようになった。
諦めたら、そこで終わりだ。諦めなければまだ道はあると、晴明から学び、今も心の奥に残っている。
忍耐があれば困難に立ち向かえ、私も彼の精神を忘れず、粘り強く生きている。
晴明の偉大さ
晴明は生前に「私は1000年後にまたこの世に蘇る」と言っていた。平成17年9月26日に1千年期の祭典が晴明神社で行われ、晴明等身大銅像が披露された。
銅像だけでなく、晴明という人格は別でも彼は、現代の創作物の中で生きているといえる。彼は未来で蘇る事を実現させてしまったのだ。
もし、安倍晴明が平成の世にいたなら、ずばずば当てる占い師になっていそうだ。彼に占って貰いたいような、やめておきたいような複雑な気持ちになる。
どんなに時が経っても晴明は、依然として、人々の心を魅了し続けている。そんな大陰陽師は凄いとしか言いようがない。
元より彼は歴史に名を残すつもりだったのだろう。彼は目先に囚われず、過去より未来を見ている。
安倍晴明が当時としては、異例な長寿を全うできた理由は、健康に気を使っていたからだ。短命でなかったのは、彼の行いがよかったのか、はたまた神にさえも認められた、男だったのかもしれない。
安倍晴明ゆかりの地・観光地
京都の観光地として有名なのは、「晴明神社」だ。
一条天皇は晴明の死を悼み、尊い遺業を称えた。晴明が稲荷神の生まれ変わりであるとし、彼の屋敷跡に晴明を崇める神社を建てた。
晴明神社は魔除けや厄除けにご利益がある。境内の随所に施される社紋の五芒星が特徴的だ。
晴明神社には、いくつかスポットが存在する。「晴明井」や「厄除桃」に「御神木」だ。
「晴明井」は晴明の念力で湧き出させた井戸である。病気が治るとされ、水は飲む事が可能だ。
「厄除桃」は桃の形をしている。
陰陽道では、桃は魔除け、厄除けの果物とされる。桃を撫でれば厄を移す事ができる。
「御神木」の樹齢は300年で、触れるのは自由。昔、楠は虫除けに使う樟脳の材料だった。
他にも式神石像や尊厳たる本殿、見所がある。晴明神社を訪れれば、大陰陽師が自ずとパワーを分け与えてくれそうだ。
安倍晴明が式神を住まわせていた、「一条戻橋」を見に行くのもいいだろう。
私は晴明が陰陽師に、なるべくしてなったのだと考える。晴明の伝説は彼の人柄やすばらしい功績により、生まれたのだった。